4.
その夜は仕事を休もうかと思った。とても普通の精神状態ではなかったんだ。
だけど1人で家にいると気が狂いそうな気がして、結果的にはいつも通り出勤した。
いつもの時間にいつものように重厚なドアを開ける。
するといつものように明るい店長が俺を迎えてくれた。
「和也、おはよう!」
「おはよう店長」
俺は生き生きとした笑顔の彼を見つめた。
この人は親父と同じ年なんだ。
鍛え上げられた筋肉質な体。俺とそう変わらない背丈。優しそうな目。嫌な印象を与えない話し方。店主としての貫禄。
人と比較してはいけない。そんな事はよく分かっているのに、どうしても親父と比較してしまう。
店長は俺の視線に気づき、ちょっと不思議そうな顔をした。
俺は慌てて目を逸らし、すぐに制服に着替えていつものように開店準備を始めた。
陽子さんが両手いっぱいに荷物を抱えてやってきたのは11時を少し過ぎた頃だった。
はっとした。彼女が抱えているのは誰かに贈られた誕生日プレゼントだ。
俺は今の今まですっかり忘れていた。
まずい。店長にあれほど言われていたのにプレゼントを何も持たずに来てしまった。
「和也くん、こんばんは」
「いらっしゃい」
彼女は機嫌よさそうに荷物を隣のイスの上に置いてからいつもの席に座り、俺に微笑みかけた。
するとそこへ店長と柴田くんがやってきて彼女に誕生日プレゼントを渡した。
「陽子ちゃん、お誕生日おめでとう」
2人がそう言って拍手を贈ると彼女の顔が華やいだ。
「私の誕生日覚えててくれたの?」
「もちろんだよ」
柴田くんは店のおごりだと言って陽子さんの好きなカナッペを皿にのせて持ってきた。
俺はどうしていいのか分からなかった。
とてもこの人たちの間には入れないという気がした。
とその時、店長が赤いリボンの付いたブランデーのボトルを出してきて彼女に差し出した。
「陽子ちゃん、これ和也からのプレゼントだよ。嬉しいだろ?」
頬が熱くなった。どうしてかは自分でも分からなかった。
「嬉しい! 和也くん、ありがとう! ねぇ、これで皆で乾杯しない?」
彼女は本当に嬉しそうだった。それが俺からのプレゼントだと信じ切っている笑顔だった。
店長は俺の肘をつついてグラスを4つ手渡した。
「和也、乾杯するぞ。グラスについでくれ」
「はい」
陽子さんの乾杯の音頭で皆がグラスを高々と上げた。
だけど、俺だけ1人ぼっちのような気がした。
その後また客が入ってきて店長と柴田くんはそっちにかかりっきりになった。
俺はなんとなく気まずいままに陽子さんと向き合っていた。
「和也くん、本当にありがとう。今日はプレゼントをいっぱいもらったけど、和也くんのが1番嬉しかった。あ、でもこれ店長と柴田さんには言っちゃだめだよ」
罰が悪かった。店長が気を利かせてくれたのはよく分かっていたけれど、とても罰が悪かった。
あの親父を見た後でとてもプレゼントを買う余裕なんか俺にはなかった。
でも皆はそんな事を知らない。もしかして店長は呆れているかもしれない。
「和也くん、どうしたの?」
「え?」
「何かあった? 元気がないみたい」
彼女が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
面倒くさい。放っておいてほしいのに、面倒くさい。
「俺は元気だよ」
「そう? ねぇほら、和也くんも飲んでよ。私がついであげる」
彼女はそう言って俺のグラスにブランデーをつぎ足した。もったいなくも水で割ったブランデーだった。
「和也くんはどうしてこの仕事を始めたの?」
こんな時に限って質問をされてしまった。
今日は何も話したくない。いつもなら彼女が勝手に喋って俺はうなづくだけなのに。
「どうしてそんな事聞くの?」
「和也くんって頭がいいじゃない? きっとどこにだって就職できたはずでしょう? でもバーで働いてるって事は、こういう仕事が好きなのかなって思ったの」
「……」
「将来独立してお店を持ちたいとか? だったら私、投資したいな」
たまらない。この人はなんておめでたい人なんだろう。
俺がこの仕事を始めたのはそんなかっこいい理由なんかじゃない。
「そうしたら私、会社を辞めて和也くんのお店で働きたい」
口の中が苦い。耐えられない。
「陽子さん、俺違うの飲んでもいい?」
「え? うん。いいよ」
俺は自分の手でカクテルを作った。彼女はそれを興味深く見つめていた。
出来上がってカウンターの上にドン、と置かれたグラスを見て彼女は何故だかひどく驚きを見せた。
きっと俺がカクテルを飲むなんて思ってもみなかったのだろう。
「何? これ」
「バナナラマだよ。知らない?甘くておいしいバナナ味のカクテル」
俺はのどを鳴らしてそれを一気に飲み干した。すごくうまかった。
「それだとキスもバナナ味ってわけ?」
「ああ。それ最高」
「私にはちょっと向かないかも」
「陽子さんはブランデーをロックで飲む男が好きなんだろ?」
「そんな事ないけど……」
「ずっと我慢してたんだ。俺本当は甘党だからさ。ブランデーとか苦手だし」
「今までずっと我慢して飲んでたの?」
「でも、もういいや。我慢はもういい」
もう我慢して人の酒を飲むのはたくさんだ。頭を下げて飲ませてもらうのはうんざりだ。
「和也くん、今日はどうしたの? いつもと違うよ」
いつもと違う? そんなばかな。これが本当の俺なんだ。
「俺がどうしてこの仕事始めたか知りたい?」
「……」
「陽子さんの会社って、第一物産だろ?」
「うん」
「俺、そこに面接に行った事あるよ。18の時」
「本当?」
「ああ。でも、高校を中退してるヤツは雇えないってあっさり断わられたな」
「……」
「他にも随分行ったけど、全部だめだった」
俺は2杯目のバナナラマを作って飲んだ。最高においしい。
陽子さんはここまできても終始笑顔を絶やさなかった。俺にはそれがもっとつらかった。
「そうか。和也くん、高校辞めちゃったのね。どうして?」
「……」
「落第した? それとも、問題を起こして退学になったとか?」
「陽子さん大卒だろ?」
「うん。一応ね」
「親が学費を出してくれたんだろ?」
「……うん」
「うちの親は学費が出せなくなった。だから辞めた。それだけさ」
「そうなの」
「そうさ。こんな俺を雇ってくれたのはここの店長だけだったのさ」
「和也くん、この仕事好きでやってるんじゃなかったの?」
「は?」
「違うの?」
「やってられるかよ」
「……」
「いつもいつもつまんない客の話し相手させられてさ。とてもやってられないよ」
「私の話、つまらない?」
「分かんねぇよ。ろくに聞いてなかったから」
「いつも聞いてなかったの?」
「もううんざりなんだよ。毎日毎日客に愛想笑いを振りまいてペコペコしてさ」
「そんな事言わないでよ」
「あんたに何が分かるんだよ。何不自由なく暮らしてきたお嬢さんのくせに、分かったような事言うなよ!」
俺の声は大きかったようで、店長が何事かとこっちへやってきた。
俺はそのままロッカーへ引っ込み、私物を全部持ち出すとさっさと店を出た。
こんな事やってられない。もうこんな店、辞めてやる。
頭を冷やしたかった。
俺は店を飛び出してからしばらく夜の街を歩いた。
道行く人たちが皆幸せそうに見えて無性に腹が立った。
真っ直ぐに歩いて行くとスクランブル交差点が見えてきた。
そこで信号待ちをしていると目の前の巨大ビルに備え付けられているからくり時計が12時の時報を鳴らした。
からくり時計の扉が開く。
扉の中から現れたのは真っ白なドレスを着た人形だった。
かぼちゃの馬車がある。あれはシンデレラだ。
シンデレラが乗り込むとかぼちゃの馬車が走り出した。
後から王子様が追いかけて来たけれど、その時すでに馬車は走り去った後だった。
俺も、通りかかった周りの人たちも、皆立ち止まってその人形を見つめていた。
やがて長い時報が止まり、ゆっくりと扉は閉まっていった。
扉の前には小さなガラスの靴が置き忘れてあった。
そのパフォーマンスにあちこちから拍手と歓声が沸いた。
何故だかそこから動き出す事ができなかった。
俺は自分の来た道を振り返った。
12時の街って、こんなに賑やかなんだ。
ネオンがまぶしい。ストリートミュージシャンがギターを片手に歌っている。
若い女の子たちは楽しそうに大きな声で笑っている。
この街で3年も暮らしているのに、こんな光景すら知らずに必死で生きてきた。
からくり時計が12時にあんなパフォーマンスをする事だって全然知らなかった。
きっと人形たちは休む事なく毎日繰り返し人々に時間を教えてくれていたはずなのに。
シンデレラ。
彼女は12時に魔法がとける事をちゃんと知っていた。
俺は17歳で魔法がとけるだなんて夢にも思わなかった。
彼女にはその後の幸せが約束されている。
だったら俺は?
先が見えなくて不安でたまらない。
居場所を失った俺はいったいどこへ行けばいいのだろう。