月が見ていた  第1部
 10.

 矢萩の手はきっと冷たい。
俺は彼の手に触れずにそれを証明しようと必至だった。
そのために翌朝まで着替えもせず、硬いソファに座りっぱなしでパソコンと格闘した。 こっちへ来てからこればかりだ。
極秘データで大きく金が動いた日と、矢萩が出張していた日と、自分の記憶を頼りに新聞の過去記事をネットでひたすら検索。
何時間もパソコンの眩しい画面を見つめていると目が疲れてそのうち頭痛がしてきた。
おかげで視力も落ちたような気がするし、キーボードをたたき続けた指は腱鞘炎になりそうだし、もういい加減デスクワークはうんざりだ。
あまりにも渇き切っている両目は疲れた俺に対して必至に水分を要求する。 目薬なんか持っていないから、何度かきつく瞬きを繰り返して涙を呼び起こす。
ガラスの壁の向こうに見える空が白々としてきた。 目に映る景色が全部ぼやけて見える。空の色も、テレビの画面も、真っ白なパソコンの画面に並ぶ黒い文字さえも。
更に一晩中暖房を入れっぱなしだったため、部屋の空気が淀んでいる。 だけど暖房調節のスイッチパネルまで歩く元気はない。
もうダメだ。少し寝ないと、頭がおかしくなりそうだ。 だいたい俺は肉体労働向きなんだ。頭で物を考えるのは嫌いじゃないけれど、長い事それを続けると思わず叫び出しそうなほどストレスがたまる。
矢萩はこんな事をさせるために俺を探し出したわけではないはずだ。俺はその事をたしかめるためにこの夜を使い果たした。
矢萩の出張した日と、大きく金の動いた日。そして俺の頭に記憶されている事。
その3つの接点を合わせて答えを導き出す事に必至だった。というよりもう答えは出ていて、それを裏付けるのに必至だった。
だがなかなかうまく三角形を組み立てる事はできず、刻々と時間だけが過ぎていった。
そして薄っすらと三角形の輪郭が見えかけてきた頃、もうガラスの壁の外は明るくなりかけていた。


●2004年7月2日〜3日。矢萩はN県へ出張。
●同じく7月3日。暗号化された法人名 "藤沢商事" へ5千万の金が動く。
●2004年7月3日。新聞記事本文 (中略)
 -N県次期知事候補 米永春雄氏が急死-
 2日午後8時頃、N県時期知事候補である米永春雄氏(59)が自宅側の公園を
 散歩中突然倒れた。
 同氏は同じく散歩中だった主婦に発見され、すぐに病院へ運ばれたがその
 時すでに脈はなかったという。
 N県現職知事は今期限りで職を退く事を表明しており、米永春雄氏が次期
 知事候補と囁かれ始めた矢先の急死だった。
 死因は急性心不全。
●2004年8月28日。新聞記事本文 (中略)
 -N県 安田信二氏が次期知事候補へ急浮上-
 来年春に行われるN県知事選挙に安田信二氏(41)が立候補すると宣言した。
 同氏は8年前にIT企業を立ち上げ、昨年の業績は上々で、地元では特に20代
 から30代の若い世代に支持されている。

●2004年8月11日。矢萩はK県へ出張。 ●同じく8月11日。暗号化された法人名 "中野土建" へ5千万の金が動く。 ●2004年8月11日。新聞記事本文 (中略)  -桜田産業社長 桜田正邦氏が急逝-  昨年までに全国で6千軒もの店舗を展開し、飲食業界にて急成長している  レストランチェーン桜田産業の社長 桜田正邦氏(40)が出張先であるK県  のホテルにて急逝した。同氏の残した遺産は五十億とも言われている。  死因は急性心不全。
●2004年8月25日。矢萩はA県へ出張。 ●同じく8月25日。暗号化された法人名 "本山不動産" へ5千万の金が動く。 ●2004年8月25日。新聞記事本文 (中略)  -作家 本宮頼子さん急死-  小説 "朝の冷たい風" などで知られる作家の本宮頼子さん(38)が講演のため  訪れたA県の料亭にて急死した。  本宮さんは講演後食事へ招待され、一度席を立ったまま戻らない事から料亭  の仲居が店内を探した所、中庭で倒れているのが発見された。  死因は急性心不全。

 俺の目の前にあるノートパソコン。 その真っ白な画面に並ぶこの文書は俺が調べて打ち込んだ物だ。
俺は14インチの真っ白な画面に浮かび上がる小さな文字をもう一度だけ目で追った。
だがこれはまだ序の口だ。この文書にはまだまだ続きがある。 でも今はもうキーボードを見るのも嫌だ。これ以上打ち込みなんかできやしない。今日はこれまで。後は明日にしよう。

 「疲れた……」
俺は両手を上げて欠伸をし、とうとうソファに寝転がった。
瞼が重い。もう目を開けている事すら困難だった。
ソファの上で仰向けになると、白い天井はあっという間に暗転した。
だがもう2度と目が開かないんじゃないかと錯覚するほど体は疲れているのに、脳みそだけは活発に動いているのが分かる。 余計な物が見えないと、目の前が真っ暗だと、何故だか思考が冴える。
とにかく分かった事は、矢萩が行った先では人が死に、そのたびに大きく金が動くという事だ。
例えば今俺が突然死んだとしても、絶対に新聞記事になる事はない。 せいぜいお悔やみの欄に名前が載るだけだ。
死亡記事に新聞紙面を割くほどの著名人が急死する。矢萩の行った先で。
でも、だからといってなんだ?
彼らの死には事件性がなく警察も動いた様子がない。言うなればすべてが自然死として扱われている。
これだけではダメだ。極秘データの解読にはほど遠い。
それにしても、俺も随分つまらない事を覚えているものだ。 芸能人の誕生日を覚えているというのならいいが、俺の頭は新聞に載った著名人の命日をやんわりと覚えていた。 ここ何年も新聞記事を見つめて、人の死ばかりを目で追っていたせいだ。
ネットに繋いで過去の新聞記事を洗うと、自分の記憶が正しかった事だけはよく分かった。
7月2日。この日はN県次期知事候補である米永春雄が死んでいる。
彼が死んで得をするのは、安田信二という男だ。 でも、もしかして他にもっと得をしているヤツがいるのかもしれない。そこまで俺には把握できない。

 俺の頭が冴えていたのはきっと、ソファへ寝転がった後のほんの少しの間だけだった。
その後の俺には睡魔に襲われた記憶すら残っていない。 俺の記憶は麻酔がかかったようにここでぷっつりと途絶えている。


 「よくもまぁ飽きもせずスヤスヤと眠ってるもんだな」
耳の奥でそんな声が聞こえた。瞼のカーテンの奥が明るい。
俺が次に目を開けた時、リビングには明るい太陽の光が差し込んでいた。
「うぁ、眩しい」
硬いソファに寝転がっていたせいで、体中が痛かった。 俺は太陽の眩しさと体の痛みを回避するために思い切り寝返りを打った。
すると視線の先には、もうとっくに見慣れた矢萩の大きな手があった。
それを見た瞬間、俺はガバッと起き上がる。 太陽の眩しさに目を細めながら部屋の中を見回すと、白く光るフローリングの床が更に幻惑を誘った。
「おはよう」
俺は最後にその声の主に視線を合わせた。矢萩はテーブルの横に立ち、じっと俺を見下ろしていた。
彼はいつここへやって来たのか。俺にはその気配が全く感じ取れなかった。 あまりに疲れて熟睡していたせいだろうか。
「今何時?」
そう言う俺の声は掠れていた。
「時計を見ろよ」
矢萩は呆れた顔でそう言った。時間は自分でたしかめろ。彼の目はそう言っている。
俺の腕に緩めに巻きついている腕時計。その針は、午後1時20分をさしていた。
「ああ、もうこんな時間か」
俺は諦めて再びソファに寝転がった。もうこうなったら寝坊とか遅刻とかいう段階じゃない。
寝転がったままぼんやりとテーブルの上に置いたままのノートパソコンに目を向ける。 その画面は真っ暗だった。真っ暗な画面に、寝ぼけた目をした男の顔が映っているだけだ。
俺は黒い鏡の中の自分と目が合うと、急にドキドキしてきた。 矢萩はいつここへ来たのだろう。もしかして彼は俺が作った文書を見たかもしれない。
「まだ眠いのか?」
部屋の中に響く矢萩の低い声。
俺は今度はゆっくりと起き上がり、矢萩の顔色を伺った。 だけど相変わらず優しそうな彼の目から感情を読み取る事はできなかった。

 矢萩は俺の隣へ腰掛け、そっと右手を伸ばしてテーブルの上のノートパソコンを閉じ、その後意外な発言をした。
「どうせサボったんだし、どこか遊びに行くか?」
矢萩はいつもと変わらない穏やかな口調でその発言をしたわけだが、その時の俺はまだ彼がすこぶる上機嫌だという事に気付いてはいなかった。
「下へ行って、車で待ってるからな」
彼は俺の返事も聞かないままにさっさと立ち上がり、音もなく部屋を出て行った。
彼が去った後洗面所の冷たい水で顔を洗い、タオルで顔を拭いた時、こうして寝込みを襲われるのは何度目だろうと指を折って数えた。
鏡に映る俺の顔は多少むくんでいたが、あまり気にするほどではなかった。

 ざっくりとした暖かいセーターを着て、ちょっと不安なまま家を出る。
寝起きの時はいつも、エレベーターは世界一乗り心地が悪いと感じる。
1階で降りて玄関ホールを出るとすぐに冬の太陽が俺を照らしてくれたけれど、外の風は冷たかった。 路上駐車している矢萩の車へ乗り込むまでのほんの短い距離を歩くだけで、すっかり目が覚めてしまうほどに。
矢萩はその日、白いスポーツカーに乗ってきていた。 彼は最初から俺を誘って出かけるつもりだったのかもしれないとその車を見て思った。
走り出した車の中は暖かかった。でも、頭がぼーっとするほどではない。
ビュンビュン飛ばす周りの車とすっかり枯れてしまった街路樹を見つめて真っ直ぐに走って行くと、突然細い雨が降り出してフロントガラスを水玉模様に変えた。
それでも相変わらず太陽は冬の日差しを車内へ運んできてくれる。
12月。少しだけ開いた車の窓から入り込んでくる外の風は冷たい。
気温は今月に入ってからぐっと下がった。 それでもマイナス気温になる事はなく、フロントガラスを濡らす雨が雪に変わる事もない。 もうすぐクリスマスだっていうのに、この大都会ではホワイトクリスマスは幻だ。
「ねぇ、どこ行くの?」
矢萩は口許で微笑むだけで俺の質問には答えてくれなかった。 ただなんとなくその時の彼はいつもと違ってリラックスしているように見えた。 いつも通りビシッとスーツを着てセンスのいいネクタイを首に巻いているのに、いつもとどこがどう違うのか。 俺にはそこまでは分からなかった。
「ねぇ……合鍵を返して、って言ってもダメだよね?」
「お前がもう少し大人になったら返してやるよ」
ダメでもともとだと思って言った俺のその言葉には、ちゃんと返事が返ってきた。
細い雨が降ったのはほんの一瞬で、フロントガラスの水玉模様は儚く消えかけていた。 やっぱりここでは、ホワイトクリスマスは幻だ。

 車はそのまま40分ほど走り続けた。
道をくねくねと何本も曲がったため、どこをどうやって走ったのか俺にはよく分からない。
ただ40分後に矢萩が車を止めて降りたので、俺も黙って彼の後に続いた。
きちんと整備されていない駐車場を出て手前に見える坂道を少し上ると、まず最初に見えてきたのが大きな観覧車。 そしてその横には、屋根が丸い巨大な建物。 銀色のドームのようなそれは、まるで宇宙船のように見えた。
宇宙船の周りには平日にもかかわらず親子連れの姿が随分目に付いた。 両親と手を繋いでいる幼い子供たちは、皆しっかり手袋とマフラーを身に着けていた。
「ここ、何なの?」
隣を歩く矢萩の答えを待つまでもなく、彼の向こうに "水族館" と書かれた黒っぽい看板が見えた。
「お前、海が好きなんだろ?」
いつになく楽しそうな声で、彼が俺に問い掛ける。 俺は、きっと中本さんが彼にそう言ったんだと見当をつける。
太陽の日差しは温かかったけれど外の風はやはり冷たくて、俺たちは急ぎ足で水族館の入口へ向かった。

 水族館の中は薄暗くて、左右に並ぶ水槽を照らす明かりだけがただ青く光っていた。 幼い子供たちが大声を出してそこいらを駆け回っていたけれど、そんな事は気にならなかった。
入口を入ってからしばらくは、小さな水槽の中にちっぽけな魚たちが泳ぎ回っているのを見た。 それはまるで、少し前までの俺を見ているようだった。
どうあがいたって水槽の外へ出る事ができない魚たち。 でもその小さな俺の居場所にナナさえいてくれたら……そうすれば幸せだったのに。
「あっちだよ」
途中、二股に分かれている通路の前で矢萩が右を指さした。
彼の後ろを黙ってついて行くと、突然巨大な水槽……というよりは、まるで海そのもののような壁一面の水槽が現れ、その中を白と黒のツートンカラーの物がスイスイと泳ぎ回っていた。
巨大な水槽の前には「すごい、すごい」と言ってツートンカラーの物を指さしている子供たち。 そして俺も、その子たちと何も変わりがなかった。
「あれ何?」
「ペンギンだよ」
俺の指さした物を見て、矢萩が即答した。 たしかに腹が白くて水をかいている手の部分は黒い。これは、本当にペンギンなのだろうか。
「ペンギンって、泳ぐの?」
「ああ。初めて見たか?」
「うん」
子供たちとは違って、控えめなトーンで話をする俺たち。
俺はホールを走り回る子供たちが入れ替わっても尚水槽の中のペンギンを見つめていた。 その時隣にいる矢萩が何を考えているのかなんて、全く知らずに。

 その時の状況は矢萩に親父が死んだ事を告げられた時とよく似ていた。
あの時俺たちは灰色の空に向かって話をしていた。 その灰色の空が、今は青く光る巨大な水槽に変わった。ただそれだけの事だ。
「俺、こんな所へ来たの初めてだよ」
「そうか」
「水族館も、映画館も、遊園地も、どこへも行った事ないよ」
俺はネットで見た水族館しか知らなかったし、遠くから見た観覧車しか知らなかった。 そして両親の手の温もりも知らない。でも、ナナの手の感触だけは今でもちゃんと覚えている。
「大丈夫だよ。これからどこへでも行けるさ」
「またどこか連れて行ってくれるの?」
「彼女と2人で行けよ」
青く光る水槽の前。背後には大声を上げてはしゃぐ子供たち。 そんな状況でも俺は、矢萩の低い声をちゃんと聞き取っていた。
だけど彼の顔を見る勇気はなくて、ただドキドキしながら水槽の中のペンギンを目で追っていた。
「どうして言わない?」
何? あんたは俺に何を言わせたいの?
その時矢萩は水槽に映る俺の顔を見ていたのかもしれない。だけど俺は、彼の影すら怖かった。
「俺が何をやっているか、もう見当はついてるんだろ?」
ドキドキが頂点に達した。もう目でペンギンを追いかける余裕すらない。 俺の視界は真っ青になり、その中を時々白っぽい物が動いているだけになった。
しばらく忘れていた。俺には彼を欺く事なんかできやしない。 彼はなんでも知っている。 きっと俺が水族館を初体験だという事すら知っていたに違いない。 俺が一晩かかって何を調べていたのかという事も、知っていたに違いない。 だったら、ウソを言っても意味がない。
「藤沢商事は、安田信二ってヤツの関係者なの? 違う?」
その時俺は、顔を見なくても矢萩が笑っている事を声だけで感じ取った。
「お利口さんだな」
ああ、やっぱりそうか。
あんたはもう、自分の手を汚したくないんだね。 あんたが手を汚したのは、きっと俺の親父がそうさせたんだね。 あんたの温かい手を氷のように冷たく変えたのは、俺の親父なんだね。

 俺たちは実際、場違いだった。
これはスイスイと泳ぎ回るペンギンを見つめながら話すような事じゃない。
長い間水槽の前に立っていると、俺たちがペンギンを見ているのかペンギンが俺たちを見ているのか、どっちだか分からなくなってきた。
「もっと早く気付いてほしかった?」
「まぁな」
「あのファイルを俺に預けたのはそのせい?」
「俺は、お前を助け出した英雄なんかじゃない」
いつも慎重な俺が矢萩を信じようとするたびに、彼はいつもその思いを蹴飛ばした。
こんな不特定多数の人間がいる所へ俺を連れてきてこの話をするなんて、きっとそれはお互い感情的にならないようにするためだ。
俺たちはママと手を繋いで歩く子供なんかじゃない。公共の場で大声を張り上げる事が許される年齢でもない。 前に社長室で彼と話した時のような、あんな感情のぶつかり合いはここでは起きるはずがない。 矢萩はきっと、そこまで計算している。
だけど、俺はいつも心のどこかで矢萩を信じようとしていた。それは自分を信じる事だからだ。
彼の手はきっと温かい。最初にそう信じてここへ来た自分を否定するような事なんか、絶対にしたくない。 彼の手が冷たい事を自分の手で証明する。俺はそういうスタンスで昨日の夜を使い果たした自分が急に許せなくなった。
彼は水族館へ来た事がない俺にペンギンが泳ぐのを見せたくてここへ連れて来てくれた。 矢萩はきっとそれを否定するだろうけど、俺の本能がどうしてもそう叫んで止まない。
「そんな事ないよ。あんた、いつもかっこ良かったよ」
俺がこんな事を言えるのは、彼の目を見ていないからだ。
「10億、肩代わりしてやってもいいぞ」
「本当?」
「ただし、お前が最初の仕事を無事終えたらな」
「分かった」
「本当に分かってるのか? もう抜けられないんだぞ」
「最初から、全部分かってたよ」
そうだよ。10億に相当する犠牲を払う覚悟はもうとっくにできている。
「奥にサメがいる。見に行くか?」
「うん」
俺は青い闇の中を歩き出した彼の大きな背中を追いかけた。 彼の手は青く染まっていてとても冷たそうに見えたけれど、俺は自分でその思いをかき消した。
その日、俺たちが目を合わせる事は2度となかった。
大声を張り上げて走り回る子供たちも、それを叱りつける母親の声も、彼の青い手も、すべてが水族館の一部でしかなかった。
俺たちはただ水族館へやってきた2人の客。
俺たちがそこで最後に見た物は、青く光る水槽の中で泳ぐサメの牙だった。

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