月が見ていた  第1部
 9.

 12月の俺は大忙しだった。
矢萩は人使いが荒い。俺はデータの打ち込みに加えて秘書課で持て余している仕事をどんどん回され、オマケに毎日午後から自動車教習所へ行かされていた。
12月半ば頃には、結局俺まで仕事に行き詰まっていた。 だって、そうだろう。仕事は増えるのに、会社にいる時間は減るわけだから。
だけど俺は頼まれた仕事は全部引き受けた。「無理だ」とか「できない」というセリフは封印していた。 なんとかして少しでも矢萩の役に立たないと、チャンスを掴む事ができないと思っていたからだ。
俺はナナを助け出す事を諦めてなんかいなかった。
それを実現させるには矢萩の協力が必要不可欠だ。 彼の重い腰を上げさせるには、地味かもしれないがまずは与えられた仕事をこなしていくしかない。
今の状況では俺の方が絶対的に不利だ。 俺は矢萩に見捨てられたら路頭に迷うが、矢萩は俺がいなくなっても全く支障がない。
矢萩と対等に取り引きするためには、彼の口から「お前がいないと困る」と言わせなければならない。

 教習車に乗るのは楽しかったが、教習所の講習は退屈極まりない物だった。
講習を受けている人間のうち半数は教官にばれないように隠れて携帯メールを打ったり、うたた寝をしている。
だがそんな事をしている連中は、幸せに育った人たちに違いない。
金を払って学ぶ事ができるのはすごく幸せな事だ。なのに、そういう事に気付いている人はきっと少ない。
教室の空気はとても懐かしかった。
俺はもちろん中学までしか出ていない。そんな俺が "教室" と呼ばれる場所へ足を踏み入れたのは、約3年ぶりだ。
大人の通う学校の教室は、当たり前だがすごく立派だった。
教室の広さは、普通の学校の2倍くらいある。 綺麗にワックスの塗られた床は、油断すると滑って転んでしまいそうなほどツルツルしていた。
生徒の使う机は白くて綺麗だ。一見硬そうに見える椅子は、実際に座ってみるとすごく楽だった。 天気がいい日の教室は窓の外から太陽の光が差し込み、その中で埃が揺れていた。
教壇の向こうには大きなホワイトボードがある。 ビデオを見ようという時にはスイッチ1つで手前にスクリーンが下りてきて、窓にはスイッチ1つで自動的にカーテンが引かれる。 なんとも立派な設備だ。

 俺は1番後ろの席を陣取る。
そして机の上にとりあえず教本を開く。教本には所々に領収書の束が挟まっている。
俺は感度の悪いマイクを通して聞こえてくる教官の声を耳で聞きながら頭の中では数字を計算し、右手に持ったシャーペンでせっせとその答えを教本の隅に書き綴る。
俺は昔から数字に強かった。頭の中で暗算を繰り返すのは苦にならない。
今日秘書課から回されてきたのは "社長" の出張費用の精算表と、領収書の山だった。
見た所ずっと手が回らなくて半年分もの処理が滞っているようだ。 この半年間で矢萩が立て替えた出張費用はハンパな額じゃない。 それを受け取らずに放り出してあるなんて、社長とは随分儲かる仕事のようだ。
今日の午前中は、山のようにたまっている領収書を日付別に分けるという作業に追われた。 計算するのは教習所へ行ってからにしようと最初から目論んでいた。

 俺は教本に挟んでおいた領収書を次々とめくって、ひたすら足し算を繰り返す。
これが結構退屈しない。
領収書を見ると、矢萩が出張先でどんな行動を取っていたかすぐに分かる。
飛行機に乗って、ホテルへ泊まって、和食を食べて、タクシーに乗って。 たくさんの領収書はそういった事を全部俺に教えてくれる。
矢萩はほとんど会社にはいない。 朝一度顔を出してすぐに出かけてしまうか、もしくは1日中出社して来ないか。大抵はそのどちらかだ。 気が付けば出張へ出ているという事も多い。
俺は……他の社員たちもそうだと思うが、出張中は緊急以外電話をしてくるなと矢萩にきつく言われていた。
彼が普段何をしているのか。俺はその事にすごく興味を持っていた。 もしも矢萩の仕事を俺が代わりにできるようになれば、状況が少し変わってくるかもしれないと思っていたからだ。
矢萩には謎が多い。忙しいフリをして出かけていきながら実はどこかに女を囲っているのかもしれない。 そんなあらぬ想像をしてみたりもした。
なかなか隙を見せない彼の弱点を握る事ができたら、彼に協力を促す事ができるかもしれない。 だけど、今の所女の影は見当たらない。
出張中の矢萩は質素だ。食事代は安いし、ホテル代も高くはない。 もしかして女に使う金はポケットマネーから出ているのかもしれないが、それにしても出張先はいつもバラバラだ。 定期的にどこかの女の所へ通っているような節はない。
彼は無趣味な仕事人間なのだろうか。 そういえば、矢萩がどこかへ遊びに行ったなんていう話は一度も聞いた事がない。
俺は遊園地や映画館へ行く彼を想像してみた。でもそれは笑えるだけでどうしてもピンとこなかった。
笑いを噛み殺した俺は、ふとある事に気付いて手を止めた。
感度の悪いマイクから大きなノイズが発せられ、そのキーンという音と共に頭の中で何かが閃いた。 突然握力が失われ、右手に持っていたはずのシャーペンが床の上へ落下する。
教本の余白に並んだ日付。俺自身が綴った、自分以外解読不可能な乱れた文字と数字。
8月6日。8月11日。8月21日。8月25日。
それは、矢萩が出張した日。俺はその日付に見覚えがあった。

 午後3時。次の講習が始まる前。 廊下の椅子に座って休んでいると俺の肩をたたく人がいた。 俺はその時ウトウトしかけていて、浅い睡眠に入る直前にポンポンとやられたような状態だった。
肩をたたいた手の主を見上げると、そこには知った顔があった。 髪が長めで目が細く、ひょろっと背が高くていつもカラーワイシャツを着ている人。 彼はたしか、経理課の高野さん。
「お疲れ様です」
彼はそう言って黒いハーフコートを脱ぎながら俺の隣に腰掛けた。 どうやら彼も教習所へ通っているようだ。今まで全然気付かなかった。
「高野さん、お疲れ様です」
眠たい目を擦りながら俺がそう言うと彼は隣に腰掛けたままで小さく会釈した。
その時間に教習所へ通ってくるのは圧倒的に学生風の人たちが多かった。 俺たちの目の前を通っていくのはほとんどが学校帰りの人のように見えた。 2人並んだスーツ姿の俺たちは、ここではちょっと浮いている。
「これから講習ですか? 俺は教習車に乗るんです」
ザワザワしている廊下に、よく通る彼の声が響いた。
「会社に言われて免許を取りに来たんですか?」
俺が質問をすると、高野さんの口許が緩んだ。
「敬語なんて、いらないですよ」
「高野さんだって敬語ですよ」
俺たちはそう言い合いながら声を上げて笑った。

 俺は高野さんに貰ったガムを口に入れてくちゃくちゃと噛みながら講習が始まるまでの短い時間を彼と共に過ごした。 彼も仕事の後で疲れているらしく、時々小さな欠伸を繰り返していた。
その時間にはもう日がだいぶ傾いて、廊下の奥の窓から薄っすらと外の大木の影が長い廊下の上に映し出されていた。
「二宮さん、聞いてもいいですか?」
高野さんもガムをくちゃくちゃ噛みながらの言葉だった。
「何?」
「二宮さんはいくつなんですか?」
たしか、前にも誰かに聞かれた事がある質問だった。でも、誰に聞かれたのかはよく覚えていない。
「俺、18歳」
「はぁ? 俺より2つも若いんですか?」
彼の反応はあまりにもあからさまだった。 よく通る彼の声は長い廊下中に響き渡ったようで、随分遠くにいる人が俺たちを振り返っていた。
高野さんは細い目を大きく見開き、じっと俺の顔を観察していた。"よく見ると、まだガキじゃん" 彼の顔にはそう書いてある。
俺の年を聞いた途端に彼の目つきは微妙に変化していた。 本人は意識していないだろうけど、彼の細い目の中には俺を見下すような色が見て取れた。
「信じられません。大卒の22歳くらいかと思ってました」
なのに彼はまだ俺と話すのに敬語を使っていた。 どうしてだろう。今がそれをやめるいいチャンスだったのに。
「俺、老けてるのかな」
「いや、そうじゃなくて」
「何?」
「社長とタメ口で話すのは副社長と二宮さんだけだし……」
ああ、なるほど。そういう事か。
「皆二宮さんには興味津々です。入社していきなり専用オフィスを持てる人なんて今までいなかったらしいから」
「動物園の檻に閉じ込められてるだけさ」
「女子社員は全員二宮さんを狙ってますよ」
「え?」
「社長に目を掛けられてる二宮さんをゲットすれば、将来は安泰だからね」

 人生に安泰はない、か。前に聞いた事のある言葉だ。俺はそれを言ったのが誰だったかはちゃんと覚えていた。
高野さんの言い方には、皮肉めいた物を感じた。 自分より年下のガキが自分より手厚く扱われている。人は普通、そういう状態を快く思わないものだ。 それは自然な事だから、別に構わない。だったらとことん俺を見下してしまえばいい。
俺が社長に目を掛けられていると勝手に思い込み、年下相手に無理して敬語を使い、 それでいてほんのちょっとくらいはイヤミを言わないと気が済まない。高野さんは、そんなヤツ。
あんたは何も分かっていない。俺はそんな事で傷つくほどヤワじゃない。それに俺は今、それどころじゃないんだ。
「時間だ。じゃあ、俺もう行きますね」
腕時計で時間を確認した後、笑顔を貼り付けたお面のような顔をして彼は去って行った。別に愛想笑いなんかいらないのに。
今のお面のような笑顔。たしかどこかで見た事がある。
だがどこでそんなものを見たのか思い出す間もなく俺にも講習を受ける時間がやってきた。 高野さんの足音が去った後俺も立ち上がり、次の講習が行われる教室のドアへ向かう。
するとすぐそこに、笑顔を貼り付けたようなお面を見つけた。 教室のドアに貼られた交通安全のポスターだ。 モデルか何か知らないが、ナナに比べるとそれほど美人でもない若い女が作り笑顔で微笑んでいる。
何故だか分からないけれど、その髪の長い作り笑顔の女を見て矢萩を思い出した。
彼のあの優しい目。いつも俺に向けるあの目はウソなのかもしれない。
矢萩は簡単に人を信じるなと言う。 俺は彼に言われなくても、もう簡単に人を信じる事なんかできそうにない。


 夕方5時過ぎ。俺は教習所を後にした。
右手には白いライトに照らされた練習コース。ノロノロと走る教習車を横目で見つめながら、俺は急いで駅へ向かう。
歩道を行く俺にまで降り注ぐ、明る過ぎる白いライト。いつもはそれほど気にならないのに、今日はその明るさが妙に鬱陶しい。

 電車を乗り継いで東山駅で降りると、いつもと同じ3番出口へ向かう。 冷たい外気に触れると、今度は月明かりに導かれて家まで歩く。
外は寒くて、手袋もはめない俺の手は冷たくて、薄手のコートもあまり役には立たない。 それでも頬と頭の中だけは信じられないほど熱かった。
頬と頭を熱に侵されたままただバカみたいに真っ直ぐに歩き、もう住み慣れたマンションの前を一度通り過ぎてしまって気恥ずかしく思いながらも入口の自動ドアへ引き返す。
その辺りで「こんばんは」と誰かに挨拶されたけれど、それが誰だったかも覚えていないし、きちんと挨拶を返したかどうか自信もない。
その後エレベーターに乗り込んで体を上に引っ張られる感覚を味わい、自分の家の玄関先へ辿り着いた時にはやっと少し頬と頭の熱が引いていた。

 ポケットの中で冷え切っていた鍵が、鍵穴と触れ合って冷たい音を廊下に響かせる。
鍵が開くと、ドアポストから夕刊を取り出す。それからドアを手前に引いて誰もいない家へご帰宅だ。
真っ暗な廊下を通り抜け、リビングの電気を着けて、買って間もない黒いかばんと夕刊をフローリングの床の上へ投げ出す。 とはいってもかばんの中にはパソコンが入っているから、そっと投げ出す。
一瞬低い所で埃が舞い上がり、そろそろ掃除をしなくちゃいけないなどと思う余裕はある。
ソファへ倒れ込むと、しばらく動く気にはなれない。
白い天井を見つめたまま片手でネクタイを外そうとするが、今日に限って結び目がうまくほどけてくれなかった。
ネクタイを外すのを諦め、軽い吐き気を感じながら寝返りを打つ。
テーブルの上に置かれたテレビのリモコンを取ろうと試みて失敗し、しかたなく今度は床に落ちたリモコンへと手を伸ばす。
するとソファの下に投げ出された夕刊の大きな見出しが俺の目を支配した。
吐き気も忘れ、すぐに起き上がってテーブルの上に新聞を広げる。 足元に感じるリモコンの気配が邪魔だから、とりあえず横の方へ蹴り付けておく。

 "男児の遺体を発見"
俺は夕刊トップのその見出しを見つめ、それからすぐに記事本文を黙読した。
誘拐。犯人。遺体。広いスペースを取った長めの記事に、そんな物騒な単語をいくつも見つける。
そして約1分後。俺はほっと胸を撫で下ろしていた。
硬すぎるソファの背もたれに寄り掛かり、両足をテーブルの上へ投げ出す。
テーブルの足が微かに床と擦れ合うギシッという音が、静か過ぎる部屋に響き渡る。
さっきあの見出しを見た時はドキッとした。
今の記事は、1年前に6歳の男の子を誘拐した犯人がやっと捕まり、その子を殺して山に埋めたという そいつの供述に基づいて捜索をした所、誘拐された子供の遺体をすぐに発見したというものだった。
殺された子供の写真と名前も出ていたが、それは俺の知った顔ではなかった。
俺はもう何年も前から新聞記事をすべて読むのが習慣になっていた。 突然園を去った仲間がもしかして殺されているんじゃないかと疑っていたからだ。
身元不明の子供の遺体が見つかったという記事を見つけると、俺は遺体を発見した日やその子の体の特徴など書かれている事をすべて頭の中に叩き込み、身元判明の記事が載るまで注意深く新聞をチェックしていた。
でも、今まで園の子供らしき人間の遺体が出てきたという記事は見た事がない。
園を去った仲間たちには、共通点がある。
男の方は、体が弱くて病気がちだったヤツ。もしくはナナのように、抜群にかわいい女たち。
女たちの方は恐らく、園を去った後ナナと似たような運命を辿ったに違いない。 だが男たちは、証拠はないが殺されたのではないかと疑わざるを得ない。園長の気性を知っているヤツなら、誰でも疑う所だろう。
1人でもいいから仲間の遺体が見つかる事。あの頃の俺はそれを望んで止まなかった。
そうすればいくらなんでも園長は野放しではいられない。
あいつの投獄は俺たちの解放を意味する。
だが今考えると、恐ろしい。 俺は自分が遺体になるのは嫌だから園長の前でせっせと働き、それでいて他の誰かが遺体になる事を望んでいた。
頬に手を当てると、まだ少し熱い。
俺のこの薄い皮膚の下に流れているのは、間違いなく親父の血だ。

 俺はやっと立ち上がってコートを脱ぎ、さっき蹴り付けたテレビのリモコンを拾い上げ、同じく床の上に投げ出されたかばんの中からパソコンを取り出した。
テーブルの上にノートパソコンを置いて電源を入れる。 そしてテレビをつけると、ニュース番組では誘拐事件で犠牲になった子供の事を伝えていた。
俺はパソコンが立ち上がった後もしばらくはテレビを見続けた。
あまりにも淋しげな山奥で見つかった小さな遺体。それを運び出す様子が映し出されていたからだ。 だがブルーシートに遮られてその様子ははっきりとは分からなかった。
俺は考えを集中するためにテレビを消して、キーボードに指を乗せた。 そしてすぐに例の極秘ファイルを開いて確かめてみる。
8月6日。8月11日。8月21日。8月25日。
俺の記憶は正しかった。矢萩の出張した日と大きな金の動いた日が見事に一致している。
その金額は多い時で5千万。少ない時でも1千万。
極秘ファイルは暗号化されている。融資したはずの法人名は全部ウソっぱち。すべて架空の物だ。
つまり矢萩が動く事で金も大きく動くが、その金の行き先は不透明。
もしかしてこの金額もウソなのかもしれない。本当はもっと小さな額なのか、それとももっと大きな額なのか。
ブルーのファイルに淡々と並んだ達筆な文字と数字。 あれはもしかして、さっきの記事よりよっぽど物騒な物を表しているのかもしれない。
真っ白な画面に浮き立つ文字と数字を見つめて俺は思う。
もう少し詳しくこのデータを解読できないか。それとも、これ以上詳しく知る必要はないのだろうか。
俺は自分の記憶の糸を辿っていった。すると点と点が繋がって、やがて線になっていくのがはっきりと分かる。
眩しい白に目を背け、視線を落とした先には矢萩に貰った腕時計があった。 紺色の皮ベルトは俺の腕に緩めに巻きついている。 ベルトの穴は矢萩が使っていた時より1つ手前。本当は2つ手前でもいいくらいだけど、悔しいから1つ前で我慢している。
一目惚れした時計の針はその時、午後6時50分をさしていた。
静かな部屋の中にその秒針の音がカチカチと鳴り響く。 だがそう感じたのは一瞬で、俺はすぐにそれが自分の心臓の音だという事に気が付いた。

 俺はリビングの電気を消して、ガラスの壁の前に立った。こうするともっと考える事に集中できるからだ。
ガラスの壁に手をついて群青色の空を見上げると、光り輝く月と目が合った。 家まで案内してくれた月明かりが、小さな俺を照らしていた。
矢萩が最初に持ってきたブルーのファイル。俺が最初に手をつけたあのブルーのファイル。
あのファイルに載っているデータは日付が新しかった。2004年から遡って4〜5年前までの記録だ。
でも、2冊目のファイルはもっと前の記録だった。 まだ打ち込みは終わっていないけれど、ざっと見た所1998年から1994年くらいまでの記録だ。
ファイルはまだ2冊あると矢萩は言っていた。 単純に計算すると、1994年から遡って10年前までの記録があるという事だ。
つまりあのファイルが最初に作られてから20年の時が過ぎている。
20年前。俺はまだ生まれていない。そして矢萩はその時、恐らくまだ学生だ。
ファイルに書き込んである文字。それは7年くらい前から突然筆跡が変わっていた。 俺はそれがちょっと気になっていたが、今まであまり深く考える事はしなかった。
でも今は確信を持って言える。 最初に極秘のファイルを作り始めたのは、俺の親父だ。そうとしか考えられない。
これではっきりした。あの不透明な金を動かしていたのは、元々は俺の親父だ。
じゃあ、矢萩は?矢萩はいつ親父に雇われたのだろう。
彼は親父の仕事を受け継いだ。俺のカンが正しければ、これはかなりやばい仕事だ。 矢萩はどうしてそんな危ない橋を渡ったのだろう。
"俺はもうこの仕事から手を引きたいんだ"
矢萩はたしか、前にそう言っていた。俺の目を見ずに、ただ灰色の空に向かって。

 ポケットの中から携帯電話を取り出す。 動揺しているつもりはないのに、プッシュボタンを押す左手の指が狙ったボタンをなかなか捉えてくれない。
まだ電話をするのは早い。俺の指がそう言っているような気がした。
群青色の空に浮かぶのは満月。怖いくらい明るい満月。
矢萩は俺にやばい仕事を譲る気がある。そう受け取って間違いないだろう。
だって、あんたはそのために俺を探し出したんだろ?
灰色の空に言葉を向ける矢萩に対して、群青色の空に問い掛けてみた。 だが返事が返ってくるはずもない。
矢萩に言われた時は10億という金がとてつもない大金に思えた。 でも今はなんとかなりそうな金額に思えてきた。
それでもやはり10億といえばすごい金だ。それを彼から引き出すには、相当な犠牲を覚悟しなければならない。

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