月が見ていた  第1部
 12.

 俺は最初の仕事を終えた後、夜通し車を走らせた。
この仕事のために矢萩が用意してくれた車は平凡な黒い乗用車だった。 この車の命は今夜限り。再び矢萩の下へ戻ったこの車はすぐに処分される事となる。
車は平凡な黒い乗用車。とにかく目立たないのが1番。 それは走行中にも同じ事が言えて、早く帰りたくても法定速度をしっかり守れと矢萩にきつく言われていた。
というわけで、ほとんど車のいないアスファルトの道を俺はノロノロと走り続けた。 風を切って追い越していく車を時々横目で睨みながら。
余計な物が何も付いていない殺風景な車内にいるとかなり退屈で、 眠くならないように少し窓を開けながらガムを噛み、俺は鼻歌を歌いながらハンドルを握っていた。
俺は、ひどい人間だ。
人を殺す事を仕事にし、簡単にその仕事をこなし、その事に浮かれて鼻歌を歌うなんて……
でも真っ暗な道を走り続け、しだいに空が明るくなってくるのを車の中から見るのはいいものだ。
今日は晴れそうだ。俺の未来は明るい。
徐々に明るくなっていく空を見ていると、どうしてもそう思わざるを得ない。
俺は暗闇を抜け出し、外の風を車内に取り入れ、鼻歌を歌いながら明るい未来に向かって延々と走り続けた。

 午前10時50分。
やっと見慣れた景色が見えてきた。 右手に海。左手には遠くの方に家が並んでいる。この道をもう少し走っていけば、親父の墓の近くだ。
夜通し半日近くもドライブを続けた俺はもうクタクタになっていた。
この辺りへ来ると交通量がしだいに増えてくる。俺は車を左端へ寄せて駐車し、助手席の上に投げ出された 携帯を手に取ってまずは矢萩に電話を入れた。この携帯は新品だが、恐らくこれもすぐに処分される運命だろう。
よく晴れた空の下。右手に見える海の手前を次々と車が走り抜けて行く。
「もしもし!」
矢萩は呼び出し音が1回鳴るとすぐ電話に出た。彼はきっと俺からの報告を待っていたに違いない。
「もしもし、無事に帰って来たよ」
俺はその時、電話の向こうから優しい言葉が返ってくる事を期待した。 俺はたった1人で大仕事をやり遂げ、無事に帰って来たんだ。一言くらい労いの言葉があって当然だ。
なのに、矢萩はいつも俺の予想を裏切った。
「お前何してるんだ? 早く会社へ出て来い」
「はぁ?」
冗談だろ? 俺は一晩中寝ないで車を走らせたんだ。これから帰って休まないと、今度はこっちが死んでしまう。
「俺、昨夜一睡もしてないんだよ」
「だからなんだ? とにかくちゃんと身支度して出て来い。1時までに出勤して来ないとお前はクビだ」
問答無用。矢萩はそれだけ言うと一方的に電話を切った。
「畜生! なんだよ、あいつ!」
俺は携帯を助手席のシートへ叩きつけ、運転席のシートを倒して体を休めた。 携帯が助手席のシートの上で跳ね上がり、あっさりと落下する音を耳で聞きながら。
目をつぶると、誘惑に負けそうになる。ここで1時間でもいいから眠りたい。
でも、矢萩はいつも本気だ。彼は約束を守らないときっと本当に俺のクビを切る。 俺にはそれが分かっていたからおとなしく彼の言う事に従うしかなかった。 だって、俺はまだ矢萩から10億引き出す事に成功したわけではなかったから。

 午後1時3分前。
俺はちゃんとスーツを着て自分専用のオフィスの前に立っていた。
静かな廊下にガチャッと鍵の開く音が響く。冬の太陽が白い廊下に反射して光っている。
見慣れたデスクの上には見慣れたノートパソコンがあり、見慣れた鏡の壁の向こうには 見慣れた都会の空があった。そしてオフィスの中は冷え切っていた。
俺は今までに経験した事のない疲労感を覚え、倒れ込むように椅子に座り、デスクの上に頭を突っ伏した。
"目を閉じろ" という命令が脳へ行き着く前に、あっという間に意識が遠のいていった。


 遠くの方で、ノックの音がした。
俺は重い頭をデスクの上からなんとか持ち上げる。すぐには開かない目の向こう側は明るい。
こんなに疲れているのに、まだ「はい」と掠れた声で返事をする元気があるのはどうしてだろう。
「失礼します」
そう言ってオフィスの中へ入って来たのは、経理課の高野さんだった。
いつものようにブルーのカラーワイシャツ。その胸元には紺色のネクタイが揺れている。
「これ、お願いします」
彼は何の説明もなくそう言いながら山積みの書類をデスクの上にドン、と置いた。 その振動が響いて頭がズキンと痛む。しかも彼の声はよく通るから、そっちの方まで頭に響く。
「じゃあ、よろしく!」
最後まで何の説明もなく、あっさりと俺に背を向けてドアを出て行く彼。
彼の長い髪と細い目とブルーのワイシャツが幻影となって俺の目に残った。
1番上に乗っかっている書類を手元へ引き寄せ、その内容を確認する。 その瞬間、軽いめまいを感じて書類の上に並ぶたくさんの数字が霞んで見えた。
「入るぞ」
その後すぐに俺の所へやって来たのは矢萩だった。今日は来客の多い日だ。
矢萩の悔しいくらいよく似合うピンストライプのスーツのラインがくねくねと曲がって見える。
人は眠らないと頭がおかしくなる。俺はその時初めてそれを知った。
「この書類、たった今経理課から回ってきた。これを全部俺に処理しろって言うのかよ」
俺は矢萩に強い口調で抗議したつもりだった。でもきっとその声は掠れていて、弱々しい物だったに違いない。
俺は矢萩の返事を待たずにまた机の上に頭を突っ伏した。その瞬間、目の前が真っ暗になった。

 「翼、起きろよ」
肩をつかまれ揺り起こされた時、もう鏡の壁の向こうは真っ暗になっていた。そして俺の目の前に、矢萩がいた。
人工的な蛍光灯の光が眩しくて、俺は一瞬目を細めた。 でも目が慣れてくると矢萩の顔がしっかりと見えた。彼はなんだか楽しげに微笑んでいた。
「ほら、これを高野の所へ持って行ってやれ」
欠伸を噛み殺して涙目になっている俺に、彼がケース入りのCDを1枚差し出した。 俺は何がどうなったのか訳が分からず、ただ呆然とそれを受け取った。
「あの書類は俺が全部処理した。お前は自分がやったような顔をして高野にそれを渡せばいい」
少しずつ、記憶が蘇ってくる。
そうだ。まだ明るいうちに高野さんが山積みの書類を持ってきたはずだ。だがあの山積みの書類はもうここにはない。
俺はあの後眠ってしまったのだろうか。きっとそうだ。 だって頭がスッキリしているし、矢萩のスーツのストライプもちゃんと真っ直ぐに見える。
「これ、何?」
俺は右手に持ったCDのケースを2〜3度振って彼に問い掛けた。ケースを振ると、カチャカチャと小さな音が鳴った。
矢萩はいつもと変わらぬ穏やかな口調でこう言っただけだった。
「経理の処理を済ませて、それにデータを保存した」
「そう……」
「頭は回転してるか? 俺の言う事が理解できるか?」
「うん」
「よく聞け。お前の仕事はまだ終わっていない。ターゲットが死亡した事は夕刊記事で確認した。 だが彼女の死に事件性があると疑って警察が動くかどうかはもう2〜3日様子を見ないと結論が出ない。 その間お前は淡々とデスクワークをこなすんだ。 万に一つの確率で警察がお前に辿り着いたとしても、彼女のいる町から昨夜一晩中運転してここへ戻った挙句午後の1時に会社へ出勤してこれだけの仕事をこなす事は普通の人間には無理だ。 万が一お前に疑いがかかった時、嫌疑不十分になる材料を集めておく事は極めて大事なんだ。 俺の言っている事が分かるか? この仕事は、後が大事なんだよ」
俺の頭はその時、すごく冴えていた。
矢萩の言う事がすごくよく分かった。俺の感覚は信じられないほど研ぎ澄まされていた。
この仕事は後が大事。
一度でも自分の手を汚してしまったら、一生気を抜く事はできない。 だから彼にはいつも隙がない。だからいつも肩に力が入っている。
「ご苦労だったな。それを高野に渡したら、帰ってゆっくり寝ろよ。明日からはちゃんといつも通り出勤して来るんだぞ」
「うん」
「じゃあな、お疲れ様」
俺は彼の背中を見送った。彼の肩にはいつも以上に力が入っているような気がした。
矢萩はきっと、俺が戻ってくるまで気が気じゃなかった。 俺がしくじった時。俺に何かあった時。後の処理をするのは彼しかいない。 彼はきっと俺が遺体になって戻ってくるという最悪のシナリオまで頭の中で作り上げ、その時自分がどうするべきかをずっと考えていたに違いない。
矢萩はいったいいつからそうやって生きてきたのだろう。彼はいつこの仕事に手を染めたのだろう。
遠い昔矢萩に今と同じ事を言ったのは、恐らく俺の親父ではないのか。

 俺はオフィスに鍵をかけ、眩しく光る廊下の上を歩き、ワックスの匂いがする階段を下りて1つ下の階のオフィスへ向かった。
曇りガラスのドアから中へ入ると、受付に人はいなかった。
短い廊下を通り抜け、ズラリと並ぶカウンター窓口の手前を通ると、紺色のスーツを着た女子社員が俺に愛想よく笑いかけてくれた。 窓口には融資を受けに来たらしき客が数人いて、その対応に追われている女子社員もたくさんいた。
俺はその時、カウンターの1番奥の椅子に腰掛けて貧乏揺すりをしている客がとても気になった。 まだ20代半ばくらいの若い男。彼は真新しいグレーのスーツを着ていたが、それはまるで借り物衣装のようだった。
ズボンの裾は自分の足の長さに合わせて軽くまつり縫いをしてあるようだが、アイロンがゆる過ぎてきちんと折り目が付いていない。 ピカピカに光る黒い革靴は足のサイズに合っておらず、かかとの辺りに随分隙間がある。 でも髪は七三分けできちんと整い、メガネをかけた小ぶりな顔は品がいい。左腕にはめている銀色の時計はとても高そうだ。
でも、折り目の付いていないズボンの裾と貧乏揺すりがどうも気になる。

 カウンターを通り抜けて更に奥へ入っていくと、高野さんのいるオフィスへ辿り着いた。 そこは四角く囲まれた壁がマジックミラーになっていて、中からはカウンターの様子がよく見えた。 だが二重ドアをしっかり閉めると外の音は完全に遮断される。 という事は、ここで話す事は外には聞こえないという事になる。
カウンターの方を向いて5つ並んだデスクでは高野さんの他に4人の女子社員が仕事をしていて、皆がそれぞれ席に着いて札束を数えたり電話をかけたりしていた。
「高野さん」
1番手前のデスクに着く彼に声をかけると、彼は何かをメモしながら目でちょっと待ってくれという合図をした。
俺は振り返って七三分けの男をもう一度見た。 そこから見ると、カウンター席に座るその男には別に怪しげな雰囲気はない。 ただじっと手を組み、一点を見つめているだけだ。でもそこからは彼のズボンの裾と貧乏揺すりは見えない。
「二宮さん、いいですよ」
高野さんがそう言うので、俺は矢萩から託されたCDを彼に手渡した。 彼はすぐにその中身が理解できたらしく、口許で微笑んで "ありがとう" を表現していた。
彼の白いデスクの上には、まるで置物のように札束が並べられていた。 それは来店している客にこれから貸し出す分なのかもしれない。
俺は腕時計で時間を確認した。もうすぐ午後7時になる。貸し出し窓口は午後7時で閉店だ。
「高野さん、この時間はいつも受付の人がいないんですか?」
「閉店前はいろいろ片付け物があるだろうし、受付の子は奥に引っ込んでるかもしれませんね」
高野さんはもう俺の顔を見てはいなかった。閉店前は彼も忙しいんだ。 彼の目はもうデスクの上のノートパソコンへ向けられ、その指はしきりにキーボードを叩いていた。
閉店間際に融資を待つ客のズボンを見ているような暇人は俺だけなのかもしれない。
「あの客に融資するんですか?」
「ああ、50万ほどね」
彼はパソコン画面から目を逸らさず簡潔にそう答えた。
俺が説明しなくても、高野さんは "あの客" が誰なのかを理解していた。矢萩に雇われているだけあってこの人も優秀なのだと俺は悟った。
「あの人へ融資するのは、やめておいた方がいいですよ」
高野さんの手が止まった。同時に隣で金を数えていた髪の長い女子社員も一瞬手を止めた。 でも彼女は何も聞かなかったフリをしてまた仕事を続けていた。
だが高野さんだけはキーボードに指を乗せたまま微動だにせず、ただ怪訝な顔をして俺を見つめていた。
「きっと回収できなくなりますよ」
高野さんの目は何か言いたげだった。 俺と教習所で話した時のような人を見下す目とは違い、その時の彼は敵を見るような目つきで俺を睨んでいた。 ブルーのワイシャツに包まれた肩には、すごく力が入っていた。
"人の仕事に口を挟むな" 彼が言いたいのは、恐らくそんな事だろう。
「社長にお伺いを立ててみてください。きっと同じ事を言うと思いますから」
俺はそれだけ言うとマジックミラーに囲まれたオフィスをさっさと出た。 徐々に研ぎ澄まされていく自分の感覚を楽しみながら。

 川中ビルを出ると黒い空からポツポツと大粒の雨が落ちてきた。雨の匂いを、微かに感じた。
俺は一つ大きく欠伸をした後、ネオンの下を駅へ向かって駆け出した。
右手に持つかばんの中には経理のデータが詰め込まれたパソコンが入っている。 矢萩から受け取ったCDは、ちゃんとコピーしてから高野さんに渡した。
これから帰ってやるべき事はたくさんある。
極秘データの金の流れ。それがどうなっているのかちゃんと自分で把握しろ。 矢萩が俺にCDを渡した時、彼の目はそう言っていた。

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