月が見ていた  第1部
 13.

 最初の仕事を終えて1週間が過ぎた。今日の午後、俺は社長室へ呼ばれた。
その時矢萩に言われた言葉で1番嬉しかったのは "お前を信用してるよ" という一言だった。
社長室の二重ドア。2枚のドアを開けていつものカーペットの上に立った俺。
矢萩はドアから1番遠いデスクの前に立ち、腕組みをしながら「2枚のドアに鍵をかけろ」と言った。
俺は随分彼らしくない言葉だと思った。いつもの彼は、必要なら自分の手で鍵をかけるはずだ。
「自分でやらないの?」
俺は思いのすべてをその言葉に託した。決して鍵をかけるのが面倒だったわけではない。
その時彼は遠い所で長く伸びた前髪をかき上げ、"お前を信用してるよ" と言ったんだ。

 社長室には苦い思い出がある。以前俺がもっと頼りないガキだった頃、そこでちっぽけなプライドをズタズタにされた。
でも、あれは必要な事だった。あの時より少しだけ大人になった今ならそう思える。
社長室は心地よい暖かさが漂い、あの時とは違って緊迫したムードはなかった。
「中本さんにも同席してもらおうと思ったんだけど、あの人今日は法廷へ出ているんだ」
矢萩はデスクの手前にあるソファにどっしりと腰掛け、ちょっと楽しげにそう言った。 俺は少し遅れて彼の向かい側に座り、やはり笑顔でそれに答えた。
「中本さんは法廷で弁護したりもするの?」
「あの人は優秀なんだぞ。普段は気のいいオッサンだけど、法廷では雄弁家に変身する。彼は法廷じゃ負け知らずさ」
「ふぅん」
俺は最近、いつも矢萩の言葉の真意を考えるようになった。彼が何気なく話す言葉の中にはいつも大事な事が隠されている。
ここに中本さんも同席する予定だったという事は、彼もまたこの仕事にどっぷり浸かっているという事を意味する。 そして俺に万が一の事があった時は優秀な弁護士がバックアップするという事を彼は言っているんだ。
だけど、やっぱり俺にとって1番大事なのは "お前を信用してるよ" という矢萩の言葉だった。

 心地よい空気が流れる蛍光灯の明かりの下。俺たちはしばらく間を置いた。
以前はこの間が死ぬほど怖かった。"園に帰れ" とか "お前はクビだ" と言われる前兆のような気がして、いつも怖かった。
でもその時、矢萩の次の言葉を待っている俺はゾクゾクするほど興奮していた。
彼がちょっとでも表情を崩したり、ちょっとでも指先を動かすたびにいつ次の言葉が聞けるのかとワクワクした。
「ほら、約束通りこれをお前に返すよ」
彼がポケットの中から取り出してテーブルの上に置いた物は2つ。俺の銀行印とマンションの合鍵だ。
俺は銀行印だけを受け取った。銀色に光る鍵はテーブルの上へ置き去りにされ、ちょっと淋しげだった。
「合鍵はいらないのか?」
「うん。鍵を変えたから」
「へぇ。少しは考えるようになったんだな」
「まぁね」
矢萩の声がいつもより優しく感じられた。もちろん彼の目はいつものように優しかった。
俺はきっと、彼を何度もがっかりさせてきた。 "合鍵を返してくれ" という前に自分で鍵を変えるくらいの事ができない俺なんて、がっかりされて当然だと今は思う。
社長室はいつでも日当たりが悪く、昼間から人工的な光が部屋全体を照らしている。 矢萩は太陽の光が苦手なのかもしれない。俺はふとそんな事を考えていた。
「あと1週間待ってくれないか?」
俺はほとんど前置きもなく突然そう言われた。矢萩が俺に頼み事をしたのは、多分それが初めてだった。
本当は知っているのに知らないフリをする。彼に対してそれをするのは、ものすごく快感だった。
「何の事?」
俺は今を楽しんでいた。そして矢萩は俺が楽しんでいる事を知っていた。 だからこそ彼はまたしばらく間を置き、視線を壁際の本棚の方へ向けて黙っていた。
彼もまた今を楽しんでいる。俺にはそれがよく分かった。 分かり切っている言葉をいつ俺に言うのか。彼はそのタイミングを計っていた。
「10億用意するのに少し時間をくれと言っているのさ」
"早く言ってよ" 俺が心の中でそう叫んだ時。彼は絶妙なタイミングできっぱりとそう言った。 いつもと変わらない口調で淡々と。
それは俺の最初の仕事が成功した事を彼が認めた瞬間だった。
その時ちょうどタイミングよく2枚目のドアの向こうでノックの音がした。 俺たちはそれ以上何も話さず黙って立ち上がり、別々な方に向かって歩き始めた。
踏みつけたカーペットがいつもよりフワフワしているような気がした。 それは多分、俺の心が浮ついていたからだ。


 午後6時30分。
デパートが建ち並ぶ大通りには人が溢れていた。今は夜になる寸前。空は青い。
1月下旬の今、デパートでは冬物のバーゲンが始まっているらしい。 どこのデパートにも "バーゲンセール" という看板が掲げられ、女たちは皆吸い込まれるように店の入口へ向かって歩いて行く。
俺はその女たちをしばらく観察していた。
ここの女たちは不思議だ。雪もないのにロングブーツを履いて歩くのだから。でもそれがオシャレという物なのかもしれない。 ロングブーツを履いている女はコートにもバッグにも気を遣っているように見える。
雪もないのにロングブーツを履き、綺麗な色のコートを着て高そうなバッグを持つ都会の女たち。 ナナだって、そんなふうになれる。絶対に。

 ふと立ち止まって見上げたデパートのウインドー。
そこにはライトアップされた金髪のマネキンがいて、彼女もやはりロングブーツを履いていた。 ロングブーツの上には黒いミニスカート。その上にはモヘアの白いセーター。 どれもナナに似合いそうな物ばかりだ。
俺は迷わず女たちに混じってウインドー横のガラスのドアを押し、そのデパートへ入った。
都会の女たちは明るい店内へ入ると皆エスカレーターに乗って上の階へ向かう。 俺も彼女たちを見習って、その列に加わった。 外は風が冷たかったけれど、かと言ってデパートの中は暑すぎた。俺は一瞬コートを脱いでしまいたい衝動に駆られた。
3階でほとんどの女たちがエスカレーターを降りたので、俺もその後をついて行った。
フロアはやけに明るく、あっちこっちの店で店員が呼び込みをしていた。 あるワゴンの前では女たちがひしめき合い、その脇でマイクを持った男が「タイムサービスです」と叫んでいる。
通路も売り場も、どこもかしこも女だらけで床の色さえ見えやしない。 どうもここは気に食わない。ここは明るすぎるし、騒がしすぎる。大体どこの店も人がいっぱいでゆっくり見れやしない。
俺はそこから逃げ出すように再びエスカレーターに乗り、1つ上の階へ向かった。必死に呼び込みする人たちの声が遠のくと、なんだかほっとした。

 偶然立ち寄った4階は下の階とは全く様子が違い、フロア全体が落ち着いた雰囲気だった。 ワゴンに群がる女たちもいないし、呼び込みする声も聞こえない。 俺はその時初めて気が付いた。恐らく3階はバーゲン会場だったのだ。
でもそのフロアは静かで、安心して買い物ができそうだった。俺は一息ついてやっと見えた白い通路の上をゆっくりと歩いてみた。
すると、また金髪のマネキンを見つけた。
白い壁の前に立つ背の高いマネキンは、上品な黒いワンピースを着ていた。 胸の辺りにフワフワした白い毛が付いていて、短いスカートの裾は少しだけ広がっている。
これはナナに似合いそうだ。俺は迷わずその壁の奥へ向かった。
「いらっしゃいませ」
そう言って俺を迎えてくれた20代くらいの店員は細身で髪が短くて、ロングスカートをかっこ良く着こなしていた。 店構えもいい印象だ。ピカピカに光る床と洋服を並べた黒っぽい棚はオシャレな雰囲気だし、照明も落ち着いた 色合いだった。 そしてハンガーにかかっている洋服やコートは、全部ナナに似合いそうな物ばかりだ。
「何かお探しですか?」
細身の店員が笑顔で俺に声をかけてきた。
俺はあっちの棚を指差し、こっちの棚も指差し、それも買うしあれも買うと言い、最後にもう一度店の中をぐるっと見回し、もう面倒だから全部買うと言ってやった。 ほとんど店ごと買い取るような勢いで。

 午後9時。俺はたくさんの荷物を抱えて家へ帰って来た。今テレビの前にはたくさんの紙袋が並んでいる。
今日は銀行から金をおろし、デパートへ寄って散々買い物をした。
ナナに似合いそうな洋服を見つけると次々と買って歩き、そのうち俺は両手にたくさんの荷物を抱えていた。 彼女のために洋服を買い、彼女のために食器を買い、彼女のために歯ブラシを買い……とにかく、狂ったように散財した。
俺は女の洋服の事なんかよく分からない。ただ、ナナに似合うかどうかだけで買うか買わないかを判断した。 でもナナはなんでも似合いそうだから、結局は見る物すべてが欲しくなる。
そして買い物をしている時、俺はふとある事を考えた。それは今まで一度も考えなかった事だった。
家へ帰り、暖房のスイッチを入れ、電気も点けずにガラスの壁の前に立って俺は思う。
今俺が着ているワイシャツは、首周りも袖の長さも体にぴったりだ。スーツのジャケットもズボンの長さもぴったりだ。 パジャマもセーターも靴も、ここに用意されていた物はなんでも俺にぴったり合っていた。
ここには最初から不自由しないほどの洋服がいっぱい置いてあって、俺は今まで当たり前のようにそれらの洋服を身に着けていて、こっちへ来てから自分の洋服を買った事なんか一度だってなかった。
でも、俺が今身に着けている洋服を買いに行った人間が必ずいる。それは矢萩以外に考えられない。
矢萩も以前、今日の俺のように洋服を買いに走った。いったいどんな気持ちで?
俺の身長や腕の長さや靴のサイズはちゃんと分かったのか?
俺はナナのために買い物をしている時、すごく幸せだった。赤い洋服を見ても白い洋服を見ても全部ナナに着せてやりたくて、結局両方買ってしまった。
俺はナナをずっと見ていたから、彼女の洋服のサイズは手に取るように分かる。靴のサイズだって、ぴったりだという自信がある。
矢萩は……いったいいつから俺を見ていたのだろう。

 ガラスの壁の向こうには、いつもの景色が広がっている。 夜空には雲の隙間に散りばめられた無数の星が。そして地上には無数のミニカーが。
ここに足りないのはナナの声だけだ。いつもながらに、ここは静かすぎる。
1週間後、俺はナナを迎えに行く。そしていつも手持ち無沙汰だったこの手で彼女を抱きしめる。 1週間後にはきっとここから彼女と同じ空を見上げ、同じ大地を見下ろすんだ。
雲の切れ間から、月が顔を出した。
真っ暗だった部屋の中にわずかな月明かりが差し込んでくる。暗闇の中に立つ俺は静かな光に照らされた。
俺は月明かりに背を向け、右手に持っている携帯電話を見つめた。
月明かりを頼りに、頭の中に記憶されている電話番号をゆっくりと確実にプッシュしていく。
ずっとこの時を待っていた。この番号はナナとの唯一の接点だ。
部屋の中は真っ暗。わずかな月明かりが俺を照らしているだけ。俺の目の前は闇だ。 でも時がたてばこの部屋に朝日が差し込み、俺の目の前は明るくなる。 俺の未来は朝のように明るい。ナナと2人でいられたら、きっともう夜はやって来ない。

 携帯を耳に当てるとすぐに呼び出し音が聞こえてきた。この電話はナナと繋がっている。 とにかく今はナナが無事である事さえ分かればいい。
「はい。カフェセブンです」
電話を取ったのは、太い声の女だった。
電話の向こうは騒がしい。聞き覚えのないテンポの早い曲が俺の耳に飛び込んでくる。
「裕子さんはいる?」
俺が一言だけ言うとすぐに電話は保留にされた。 今度は聞き覚えのあるピアノ曲が俺の耳に飛び込んできた。
そうだ。思い出した。これは初めて矢萩に会った時、彼の車の中で流れていた曲だ。
「もしもし。だぁれ?」
突然ピアノ曲が途切れ、再びテンポの早い曲と共に甘ったるい女の声が俺の耳に飛び込んできた。
この甘ったるい声の持ち主。彼女が裕子さんだ。 あまり長話はできない。そんな事をしたら、恐らく彼女に迷惑をかける事になる。
「ナナは元気?」
「随分待たせたわね」
「もうすぐ会いに行くから、ナナにそう言って」
「早く来ないと、泣いちゃうわよ」
「ナナに好きだと伝えて」
「その言葉、会った時にもう一度聞かせてね。ばいばい」
電話は切れた。そして月明かりが途絶えた。
俺の耳にまた静けさが飛び込んでくる。俺は再び振り返り、月明かりをふさいだ雲を見上げた。
今のが裕子さん。彼女は甘ったるい声を出す人だった。
"娼婦仲間は皆意地悪だけど、裕子さんだけは信用できる" ナナは以前そう言っていた。 そしてナナは緊急の連絡先としていつも裕子さんがいるカフェを指定した。
裕子さんは今もカフェでお茶をすすりながら客が来るのを待っている。 テンポの早い曲を聞きながら。決して明日を夢見る事はせずに。
他の子とは違って、カフェで客待ちする事を許されている裕子さん。
彼女はいつ自分の運命を受け入れたのだろう。いったいいつ自分に見切りをつけたのだろう。
目を離しても彼女は絶対に逃げたりしない。 組織の人間にそう信じ込ませるまで、彼女は何度組織の男と寝たのだろう。

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