月が見ていた  第1部
 14.

 約束の日の朝。俺は海辺で矢萩と待ち合わせをした。
その朝の俺はとても慎重だった。 マンションを出てから5分歩いた所でタクシーを拾い、待ち合わせ場所からかなり手前でタクシーを降り、その後海風に晒されながら歩く事10分。 海辺の道路からは死角になっている場所に、矢萩の乗った白い車が置かれていた。 それはもちろん、どこにでもあるようなごく普通の白い乗用車だった。
その日の空は雲が多く、海の波は荒かった。歩道からコンクリートの階段を下りて海へ近づくと、潮の香りが俺の鼻をついた。

 俺はすぐに車のドアを開けて運転席に乗り込み、ルームミラーを見ながら風に乱れた髪を手櫛で整えた。 助手席の矢萩はしばらく黙って俺のそんな様子を見守っていた。
「金は?」
俺がそう言うと、矢萩は右手の親指を使って後ろを指さした。
振り返ると後部座席に安っぽいボストンバッグが2つ乗せられていた。だがそのバッグはそれほど大きな物ではなかった。
「この中に、本当に10億入っているの?」
矢萩はちょっと苦笑いをして正面の海を見据えたまま軽く首を振った。
「そんなわけないだろ? 10億の現金は大荷物だぞ。残りはトランクに詰め込んである。不安なら自分の目で確かめろ」
「いいよ。あんたを信じる」
きっぱりとそう言い切った俺の目を見て、矢萩はあからさまに渋い顔をした。でもそれは想像できる範囲の出来事だった。
「簡単に人を信用するなとあれほど言っただろ?」
「じゃあこの風が吹く中で10億もの現金を数えろって言うの? 札束は吹っ飛ぶし、指がつるよ」
たしかにその日は風が強かった。 俺たちの目の前を枯れ葉やゴミが飛ばされて行くのが幾度も見えた。しかも風に煽られ、車もガタガタと揺れていた。
「ハイ、10億払います。と言った後トランクの中身が空だったら、お前の命はないぞ」
「俺は死んでも平気だよ。でもその時は、あんたがナナを助けてやって」
矢萩はその時、俺の覚悟を感じ取ったのだろう。彼はそれ以上面倒な事を言ったりはしなかった。
実際俺はナナをうまく連れ出せるかどうかは五分五分だと思っていた。 でも、組織の連中は俺を殺してもナナは殺さない。 ナナはいい金づるだ。彼女に利用価値がある限り、彼らはナナを殺さない。
万が一俺がしくじったとしても、矢萩は俺の遺言を果たしてくれる。 俺はとっくの昔に覚悟を決め、とっくの昔に矢萩を信じる事も決めていた。

 矢萩が車を降りたら、俺は北の町へ向かって出発する。
俺は荒波を見つめ、彼が車を出るのを待っていた。だけど彼はまだ動こうとはしなかった。
それでも彼は決して俺と目を合わせようとしない。そして俺も彼と目を合わせなかった。
「銃は持ったか?」
「うん」
「連絡用の携帯は?」
「持った」
矢萩は黙ってうなづき、それから少し前向きな話を始めた。
目の前に見える荒波は、俺の前途を表しているかのようだった。
「彼女の名前は何がいい? 中本さんに言って戸籍を用意してもらうよ」
俺は今まで全然そんな事にまで気が回らなかった。でも矢萩はきっと、いつでも先の事を考えている人だった。
「好きな名前にできるの?」
「名字は難しいけど、下の名前は希望通りにできると思う」
さっきとは違って、矢萩はもういつもの優しい彼に戻っていた。優しい目と穏やかな口調。 俺はもう一度この人の所へ帰って来る事ができるだろうか。
「ミキっていう名前がいいな」
「そうか。分かった」
「どうしてその名前がいいかは、帰って来てから話すよ」
「ああ」
それからすぐに矢萩は助手席のドアを開けた。その途端に外の冷たい風が車内へ入り込み、また俺の髪を乱した。
風の中に立つ矢萩の皮手袋をはめた手が今、ドアを閉めようとしている。
本当は死ぬほど怖い。生きて帰って来られる自信なんかない。矢萩と会うのも、これが最後になるかもしれない。
「翼!」
矢萩はドアを閉める直前に一度腰をかがめて俺の顔を見た。彼の胸元で、黒っぽい色のネクタイが風に揺れていた。
「絶対2人で帰って来い」
彼の目は、最後まで優しかった。
俺はドアが閉まった後も彼の背中が見えなくなるまで見送った。そして目の前の荒波を見つめ、1つ大きく深呼吸をした。
弱気は最大の敵だ。"お前を信用してるよ" と言ってくれた矢萩の期待に応えたい。 ちゃんとナナと2人で、ここへ帰って来たい。
車を出すとケツの方がやけに重く感じた。これが10億の重さだ。そして10億の重さは、ナナの命の重さだと感じていた。


 それから俺の孤独な旅は始まった。
また一晩中車を走らせなければならない。金を積んでいる以上、むやみに車を離れる事もできやしない。
弱気は最大の敵。なのに俺はどうしてもユウウツな心を葬り去る事ができずにいた。
俺とナナが育った町へ近付く事は、あまりにも危険すぎた。人を殺す事よりも、もっともっと危険だった。
それでも俺は黙って車を走らせた。風に揺れる街路樹を横目に、時々曇り空を見上げながら。

 車を走らせるたびに、どんどんナナに近付いていく。目の前に見える景色を通り越すたびに、どんどんナナとの距離が縮まっていく。
なのに、俺には全く喜びが感じられなかった。
あの町へ近付くたびに、車が1メートル前へ進むたびに、昔の出来事が鮮やかにフラッシュバックする。
それはしばらく忘れていた感覚だった。 でもウイングファイナンスで仕事を始めた頃はまだ幾度かそんな事があったように記憶している。
皮手袋に包まれた両手がじっとりと汗ばんでくる。
園の暮らしは……あの町での暮らしはもう忘れたはずだった。だけど、潜在意識のどこかに昔の俺が生き残っている。
着物姿の園長が、俺の耳元でこう囁く。
「私に逆らうと、お前は飢え死にするぞ」
もうとっくに消えてしまった体の傷が再び蘇ってきたような錯覚に陥る。 急に肩の傷が痛み始めた。急に殴られた時の腹の痛みが蘇ってきた。
どこかでナナの泣き声が聞こえる。助けなきゃ。早くナナを助けなきゃ。
ハッと気付くと、目の前に赤信号が見えた。あの赤の色。あの色は、ナナが見たニンジンの色と同じだ。
俺はわずかに残っている正気をかき集めて急ブレーキをかけた。
信号機が揺れる。灰色の空も、葉のない街路樹も、すべての景色が揺れる。タイヤが唸りを上げる。心臓がドキドキする。
俺は車のハンドルに顔を埋め、きつく目を閉じた。

 肩で息をしながら、ゆっくりと顔を上げる。俺の乗る車はちゃんと信号の手前で止まっていた。 それを確認してやっと自分が何をしたのか理解できるようになった。 すべての景色が揺れたのは、急ブレーキをかけて車が揺れたせいだ。
赤信号に突っ込まなかったのはいいけれど、急ブレーキに驚いた周りの車の連中が皆して俺を睨み付けている。
だが俺は急に止まった車の衝撃で体が大きく揺れ、やっと我に返った。
ダメだ。こんな調子じゃ、あの町へ着く前に頭がおかしくなってしまう。
決して目立たぬようにごく一般的な白い乗用車に乗ってちゃんと法定速度を守っているのに、こんなふうだと いつか警察に止められてしまう。

 ニンジンと同じ色の赤信号が青に変わってノロノロと車を走らせると、左手に明るい光を放つコンビニが見えてきた。
まだ正午にもなっていない。それでもなんとなく外は暗い。それはきっと、俺の行く先が真っ暗だからだ。
俺はコンビニの前に車を止め、すぐに外へ飛び出し、明るい光を放つその店に向かって走った。
店内へ入ると、煮詰まったおでんの香りが鼻をつく。「いらっしゃいませー」と言うかん高い女の声が耳の奥に響く。 寒さのせいか、俺の体は震えていた。
窓際でマンガの本を立ち読みしている少年の後ろを走り抜け、俺はトイレに駆け込んだ。
便器に顔を突っ込むと、胃の中の物が全部吐き出された。だが吐き出すような物は何もなかった。 俺は2〜3日前から緊張してろくに何も食べていなかった。胃液を吐くのは、ものすごく辛かった。
俺はそれからトイレの床に座り込み、震える自分の体を抱きしめた。
少しは大人になったと思っていたのに、もうなんでも1人でできると思っていたのに……なのに冷たい床の上で震える俺は、園にいた頃の自分と何も変わっていなかった。

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