月が見ていた  第1部
 15.

 夜は不思議だ。延々と車を走らせ、やがて目の前に闇が広がると何故だかほっとした。
俺はやっぱり暗闇の中にいると安心するし、思考が冴える。
昼間はどうしてあんなに弱気になっていたのだろう。 俺は人殺しだ。殺人鬼だ。そんな俺に恐れる者などあるはずがない。 たったそれだけの事が、さっきまではどうして分からなかったのだろう。

 北の町へ近づくと、空から雪が舞い降りてきた。 田舎道にはほとんど光がない。時々薄暗い外灯が立っているだけで、コンビニもパチンコ屋もありはしない。 前後に車も見当たらない。
でも光のない道を走るとなんだかほっとする。この道を明るく照らしているのは、俺の車のライトだけ。 俺はこれからも自分の手で暗闇に明かりを灯せばいい。ただそれだけの事。
今の俺なら、きっとなんだってできる。 ナナは俺だけが頼りなんだ。1週間前に俺からの伝言を聞いて、彼女はきっと希望を取り戻したに違いない。
俺はきっとナナを不安にさせた。3ヶ月も会いに行かず、連絡もせず、彼女を1人ぼっちにした。
俺に罪があるとしたら、それはナナに淋しい思いをさせた事だけだ。他には何も悪い事なんかしていない。 体を売る事だって、人を殺す事だって、それは俺の生きる術だ。 幸せそうなヤツらがうまい物を食ったり抱き合ったりしているのと同じ事なんだ。
ちらっと腕時計に目をやると、その針は午後9時をさしていた。遅くともあと2時間車を走らせればナナのいる町へ辿り着く。
本当はすぐにでもナナを迎えに行きたい。 でも夜に組織と交渉するのは危険だから絶対によせと矢萩に言われていた。彼の言う事には従った方が利口だ。
安っぽいネオンが輝くあの町の手前に着いたら、車を止めて朝まで休もう。 あの町は俺の庭だ。朝まで人目につかずにいられる場所くらい、いくらでも思い当たる。 とにかく今夜はしっかり眠っておかなければならない。人は眠らないと頭がおかしくなるものだから。

 俺は車のライトに照らされて舞い踊る雪の粒を見つめながら頭の中で思い描いているイメージを大きく膨らませ、何度も何度も交渉の仕方をシュミレーションした。
「この子を買い取りたい。金は払うよ」
俺はそう言い、車のトランクを開ける。 その時、どんな事をしても車に積んである金で組織の連中を納得させなければならない。
だけど、本当にうまくいくだろうか。もしも交渉に失敗したら逆らわずに一旦諦めて戻って来いと矢萩は言った。 でもそんなのは気休めだ。そうなった時、生きて帰って来られるかどうかは五分五分だ。
だけど、もし俺が死んでもきっと矢萩がナナを助けてくれる。それでいいじゃないか。

 その後も車を走らせて行くと、やがて懐かしい道へ辿り着いた。
午後10時。真っ暗な、滅多に対向車がやって来ない細い道。ほとんど人が通らない淋しい道。 窓の外には暗闇以外に何もない。道の両側にはただ背の高い樹木がぎっしりと並んでいるだけ。 そこは、俺の運命の分かれ道だった。
矢萩と初めて会った日。彼は俺を車に乗せてこの道を走った。 途中、俺は無謀にも車から飛び下りようとしたんだっけ。俺はあの時、彼に殺されると思っていたんだっけ。
あの時、車の中には静かなピアノ曲が流れていた。あの曲はいったいなんという題名なのだろう。 もしも生きて帰れたら、いつか矢萩に尋ねてみたい。
外の景色は、あの時とは少し違って見えた。
あの時はまだ秋だった。今のように道に雪が降り積もる事もなかったし、道の両側にぎっしり並ぶ背の高い樹木に綿帽子がかぶる事もなかった。
重い荷物を積み込んだ車に乗ってもう一度ここへ帰って来るなんて、あの頃の俺には想像もつかない事だった。
両側に綿帽子をかぶった樹木が並ぶだけの退屈な景色が延々と続く。
あの時俺が車の中で眠ってしまった後、矢萩はこの退屈な道をずっとずっと運転し続けた。
今度は俺があの時の矢萩と同じ役目を果たす番だ。 明日は必ず生きてこの道を逆進してみせる。安心し切ったナナの寝顔を時々横目で見つめながら。


 ここは音のない世界。疲れ切った俺の脳を目覚めさせた物は、樹木の隙間から雪を照らす太陽と、太陽に照らされて反射する白い雪明り。
でも車のシートを倒して眠る俺の体を目覚めさせた物は、どうしようもないくらいの寒さだった。
「うわ、寒い」
俺は体を起こして車のエンジンをかけ、すぐにカーヒーターのスイッチをオンにした。 真冬に一晩中車のシートで眠るのは相当きつかった。足腰が痛むし、体は凍りつきそうだった。
だが絶え間なく続く樹木は俺に味方してくれた。 少し道を外れて樹木の影に隠れると、林の奥に車がいる事などまず分からない。 だいいちこの辺りは滅多に人も車も通らないから、尚更だ。
「いい天気だな」
俺は窓の外の景色を見つめて、そうつぶやいた。
俺が眠る寸前に雪は止んだけれど寝ている間にまた少し降ったようで、樹木の枝には新しい雪が降り積もっていた。
地面に降り積もったぼたん雪がキラキラと輝いて眩しい。ボンネットの上の雪にも太陽が当たって、更に眩しい。
腕時計を見ると、その針は8時50分をさしていた。
俺は毛布代わりにしていた皮のハーフコートのポケットから携帯を取り出し、すぐ裕子さんに電話を入れようとした。 だけど田舎道のはずれは圏外だった。
しかたがない。もう少し町の方へ車を走らせよう。そのうち電波の届く地域に出るか、もしくは公衆電話が見つかるはずだ。
俺は皮手袋をはめた冷たい手でハンドルを切った。幸い樹木の間を突っ切って運命の道へ出ても、周りに車は見当たらなかった。

 もう知り尽くしている道を迷わず走り続けると、そのうち周りに民家や商店が見えてくるようになった。
ナナのいる町はこの辺りでは1番の都会で、園の所在する町とは少し離れている。 この時間はよほど運が悪くない限り俺の知っている誰かと出くわす心配はない。
早いところカタをつけて家へ帰りたい。遅くなればなるほど、ここに長くいればいるほど危険度が増す。
俺は出来るだけ目立たない裏道を通り、わりと民家の少ない線路脇に車を止めた。 右を見ると線路。左を見ると廃屋。あと1キロも走れば電車の駅へ辿り着く。この辺りなら、携帯電話が使えるはずだ。
思った通り、1週間前と同じ番号に電話をかけるとすぐに耳の奥で呼び出し音が鳴った。 俺は左手で小さくガッツポーズした。
「はい、カフェセブンです」
電話に出たのは、前と同じく声の太い女だった。そして俺も前と同じ事を彼女に言った。
「裕子さんはいる?」
まただ。電話はいきなり保留にされた。だけど今日はピアノ曲の保留音が流れる前にすぐ裕子さんの声がした。
「もしもし、だぁれ?」
その甘ったるい声を聞いて俺は安心した。だがその声が聞こえた途端にすぐ横の線路の上を電車が走り抜け、その騒音をやり過ごすために俺は少しだけ間をおいた。
「もしもし、ナナは今仕事中?」
俺は小さくなっていく電車の姿を目で追いながらやっと言葉を発した。
俺は真っ直ぐナナに会いに行く事は避けた。昔はナナが仕事中の時ずっと彼女を待ち続けたけれど、なんといっても今日は特別な日だ。 確実にすぐナナを外へ連れ出し、それからすぐに組織の人間をできるだけ人の多い所へ呼び出して交渉したい。
ところが、その時の裕子さんは意外な事を口走った。 俺は彼女の言っている事を呑み込むのに数秒の時間を要した。
「いつもの所で待ってたのに、どうして来てくれなかったの?」
「え……?」
「しらばっくれないで。丘の上のあのホテルよ。302号室で待ってると言ったでしょう?」
「えっと……何?」
「絶対許さない。もう二度と電話してこないで。今度電話してきたら、病院送りにしてやるから!」
裕子さんは俺の耳元で怒鳴りまくり、一方的に電話を切った。
俺は再び線路の上を行く電車を見つめながら考えた。 今のは何だろう。きっと何かの暗号だ。 裕子さんは側で話を聞いている声の太い女に不振を抱かれないためあんな言い方をしたに違いない。 彼女は今、何と言った?

いつもの所で待っていた。
丘の上のホテル。
302号室。
病院送り。

走り去る電車の向こうに小高い丘が見えた。俺は閃き、それからすぐに線路沿いの道を引き返した。
丘の上には確か病院があった。内科と外科の病院だったような記憶がある。
いつだったか園のガキが電車に轢かれて救急車で運ばれたのがその病院だ。あの時園長は渋々治療費を払っていた。
ここからあの病院へは、多分10分くらいで行けるだろう。 302号室。俺のカンが当たっていれば、ナナはきっとそこにいる。
だけど、どうして? 彼女は病気になって入院したのだろうか。
俺は雪明りの眩しさに目を細めながら急いで車を走らせた。 もう法定速度を守っているような場合じゃない。
いったいナナに何があったのだろう。彼女は無事なのだろうか。

 線路脇の道を引き返し、しばらく行くと踏切が見えてきた。 その踏切を渡ってから右へ曲がって坂道を上ると丘の上に建つ白い病院が見えてくるはずだ。
ところが俺が踏切へ差し掛かると急に遮断機が下りてきた。今日は電車に邪魔されてばかりだ。
早くナナの無事を確かめたいのに。早くナナの所へ行きたいのに。
俺は車の中でジリジリしながら電車が通り過ぎるのを待つしかなかった。
目の前の線路の上を電車が通過すると、その振動が伝わって車がガタガタと揺れた。

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