月が見ていた  第1部
 16.

 ものすごく胸騒ぎがした。 ナナが病気になったり怪我をしたりする要素はいくらでも頭に浮かんだ。
幼少期に満足な食事を取れなかった事。売春組織へ売られた後いつも思い悩んで食欲がない事。 そして、乱暴な客に何をされるか分からないという事。
馬力のない乗用車で雪の降り積もる坂道を上ると全くスピードが上がらず、本当にもどかしかった。
やっとなんとか病院の白い建物の前へ辿り着くと俺は急いで駐車場に車を止め、エンジンを切った。 すぐ目の前に病院の白い壁が見え、すぐ横の窓の向こうには忙しそうに動く事務服の女たちが4〜5人見えた。
俺は気が変わり、もう一度エンジンをかけて車を病院の裏側へ回した。
四角い箱のような建物の裏側には錆び付いた非常階段があり、その向こうには高い煙突がそびえ立つ焼却炉があった。 そして病院の敷地内はその奥の高いブロック塀で囲まれている。 この時間はちょうど病院の裏側の方が太陽の通り道になっているため、目に付く窓のほとんどにブラインドが降ろされていた。
俺は一度病院の敷地内を出てブロック塀の後ろに無理矢理車を突っ込み、エンジンを切った後今度こそ外へ飛び出した。
塀の後ろ側に人が入り込む事は皆無のようでその辺りには雪かきした跡もなく、人が歩くための道ももちろんなく、外へ一歩踏み出すと足首の辺りまでが雪に埋まった。 靴の中に雪が入り込んでひどく冷たい。でも、そんな事に構ってはいられない。
俺は体勢を低くしてブロック塀の裏側をズボズボと雪に埋まりながら歩き続け、塀が途切れると何食わぬ顔をして病院の入口へ向かった。
病院の自動ドアは常に開いたり閉まったりと忙しい。時々足を引きずった人やマスクをした人が中から出て来る。
ナナはいったいどうして病院送りになったのだろう。彼女は無事なのだろうか。
俺は不安に駆られながらも表情を崩さず、自動ドアの前に立った。

 その病院は規模が大きいせいもあってか随分流行っているらしく、中へ入ると受付の前や薬局の前に並べられたベンチにぎっしり人が座っていた。
受付横の大きな窓は大パノラマで、丘の上から見下ろす町の景色が1枚の絵のようだった。
白衣の医者や看護婦はとても忙しそうに動き回っている。誰も俺の事なんか見やしない。でも俺にとってはその方が好都合だ。
俺は入口を入って真っ直ぐ左へ続く廊下を歩き、上の階へ行くために階段を探した。 廊下の突き当たりには外科の受付窓口があり、その広い待合室のベンチもやはり診察を待つ患者で埋まっていた。
やっと見つけた。いくつも並ぶベンチの後ろにはトイレのドアが2つ並び、その横に木の手すりがついた階段を発見した。
本当は駆け出したい。階段を駆け上がって早くナナの無事を確かめたい。
だけど、とにかく目立たないのが1番。印象に残らないのが1番。俺は辛抱してゆっくりとベンチの並ぶ待合室を通り抜け、それから足を踏み外さないように消毒液の匂いがする階段を一歩一歩上がった。
その途中、松葉杖を突く人や腕を吊っている人とすれ違い、ものすごく不安になる。 ナナは怪我をしたのだろうか。それとも悪い病気にかかったのだろうか。 もしも彼女が重症でとても動かせない状態だったら……その時、俺はいったいどうしたらいいのだろう。

 3階へ辿り着くと、そこはやはり外科病棟のようだった。
階段前のホールには大型テレビが置かれ、その手前のベンチには体の一部を失ったパジャマ姿の入院患者が何人かいた。 俺は思わず右の拳を力強く握り締めた。
そして俺は左右へ続く廊下を交互に見つめ、右手に見える薄暗い廊下を歩き出した。
最初に見つけた病室が312号室。その次が311号室。このまま真っ直ぐに行けば、恐らく302号室へぶち当たる。
通り過ぎる病室の中を覗き込むと、ほとんどの入院患者がベッドに入って本を読んだり編み物をしたりしていた。
どうやらこの辺りの病室は女の患者ばかりのようだ。時々静かな廊下に女たちの笑い声が響く。 でもそれ以外はコツコツと鳴る自分の靴音以外に何も聞こえなかった。


 やがて俺の目の前に302号室と書かれたプレートが見えてきた。
俺はその病室の前で一度足を止めた。そして、そっと中を覗いてみる。
302号室には2台のベッドがあった。 だけど手前のベッドは使われていないようで綺麗にシーツが張られ、白いカバーのついた掛け布団は折りたたんでその上に置かれていた。
病室の中は廊下と違ってとても明るく、窓ガラスの外につららが見えた。 手前のベッドの向こうには白いカーテンが引かれている。そのカーテンには見覚えのあるシルエットが映し出されていた。
俺はゆっくりと病室の中へ足を踏み入れた。靴音に気付いたカーテンの向こうのシルエットが微かに動く。 俺は高鳴る心臓を右手で押さえ、カーテンの向こうの彼女へ近づいた。

 3ヶ月ぶりに会うナナは長い髪を首の後ろで1つに束ね、シルクのパジャマ姿でベッドの上に腰掛けていた。
「ナナ……」
俺がベッドの傍らに立つと、彼女の透き通るような灰色の目から涙が零れ落ちた。 俺は久しぶりに化粧をしていないナナの顔を見た。
彼女の隣に腰掛けて肩を抱いてやると、ナナは両手で顔を覆って声もたてずに泣き続けた。
「ナナ、体は大丈夫なのか?」
彼女は頬に零れ落ちる涙を両手で拭いながら黙ってうなづいた。
「どこが悪くて入院したんだ?」
「人が来るといけないから、ここじゃ話せない」
「人って?」
今の今まで顔を覆って泣いていたのに、ナナはいきなり俺の右手首を掴んで立ち上がった。 俺は明るい病室の中を彼女に引きずられるように歩き、廊下の手前までそれは続いた。
俺はきびきびと動くナナの姿を見て安心した。彼女はひとまず歩く事に支障はなさそうだ。
ナナは病室の入口から顔を出してそっと廊下を見回し、周りに誰もいない事を確認すると強引に俺の手を引っ張って廊下へ出た。 俺のコツコツと鳴る靴音とナナのパタパタと鳴るスリッパの音がやけに大きく耳に響いた。
廊下の1番奥には左側に女子トイレが、右側には男子トイレがあった。ナナは迷う事なく男子トイレの白いドアを引いて俺をその中へ連れ込んだ。
広い病院だけあって、男子トイレの中には個室が縦に10個くらい並んでいた。 ナナは俺をぐいぐいと引っ張って1番奥の個室の中へ連れ込み、それからすぐドアに鍵をかけると、いつもそうしていたように俺の肩に両手を回して抱きついてきた。その時ナナは、消毒液の香りがした。
「洋輔、ずっと会いたかった」
俺の耳元でナナの涙声がそう囁いた。久しぶりに抱きしめた彼女の体は、以前よりだいぶ細くなっていた。
消毒液の香りがするナナの温もり。彼女の肩の向こうにはトイレの白い壁があった。なんともムードのない再会だ。 でもとにかく今抱きしめている彼女の温もりを永遠に俺の物にしたい。 そのためには、乗り越えなければならない壁がある。
俺は一旦ナナを抱きしめていた手を離し、泣きじゃくる彼女の頬に手を当てて顔を突き合わせた。 ナナの両手は彼女の頬に当てた俺の手をきつく握り締めていた。
「ナナ、どうして入院したんだ?」
「乱暴な男にホテルの部屋で殴られたの。私、その時ベッドの角に頭をぶつけて倒れちゃって……それを見た男がびっくりして救急車を呼んだの」
「お前、大丈夫だったのか?」
「うん。本当はもう平気なんだけど、お医者さんにはまだ頭が痛いって嘘ついた。だって、ここにいると安全だから」
俺はそれを聞いてやっと安心した。脱力して、思わずまたトイレの床に座り込んでしまいそうになった。 だけど今はこんな所でゆっくりしている場合じゃない。
「ナナ、よく聞いて。俺とずっと一緒にいたいだろ?」
「うん」
「俺もお前とずっと一緒にいたい。だから、これからお前の雇い主と話しをつけに行く」
その時、彼女の顔色が変わった。彼女は真剣な目で俺を見つめ、もう涙を流すのをやめた。
「お前の雇い主はどこにいる? 下っ端じゃなくて、ボスに会いたいんだ」
「ダメ……あの人に会っちゃダメ」
「だってちゃんと話をつけないと後々まで尾を引くだろ? 心配するな。相手に文句を言わせないだけの金は用意してあるんだ」
「お金でカタがつく問題じゃないよ。あの人、へたすると洋輔を殺すかもしれない」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよ! 前に裕子さんを買い取りたいという男の人が来たの。その人がどうなったか知ってる?」
「知らないよ」
「そんなの知らない方がいい。私とずっと一緒にいたいなら、今すぐここからさらって行って」
ナナはそう言ってまた俺に抱きついた。俺は彼女の温もりを受け止め、トイレの白い壁を見つめながら死ぬほど迷った。
このまま彼女をさらって行ったら、それこそ組織の連中は怒り心頭で、血まなこになって俺たちを探すだろう。 できればちゃんとお互い納得した上でナナを連れ去りたい。 でも今のナナの話を聞くと、とても簡単にカタがつくとは思えない。
わざわざ相手の所へ出向いて行って痛い目に遭うか、それともリスクを承知でナナをこのままさらって行くか。 選択肢はこの2つしかない。

 俺が決断するまでにかかった時間は2〜3秒だった。 今を逃すと、本当に永遠に彼女を手放す事になるような気がした。 俺はナナの肩越しにトイレの白い壁を見つめたまま自分でも驚くほど冷静な声で彼女に尋ねた。
「ナナ、非常階段はどっち?」
「女子トイレの向こう」
ナナは俺の決意を感じ取ったのか、顔を上げてじっと俺の目を見つめた。 人形のように透き通る灰色の目に思わず吸い込まれそうになる。だけど、今は即行動だ。
「ちょっと様子を見てくる。長旅になるから、トイレを済ませておけ」
俺はそれだけ言うと彼女の視線を振り切り、ドアの鍵を開けて個室の外へ出た。 ナナは用を足すために再び個室のドアを閉め、中から鍵をかけた。

 腹をくくった俺はとても強気になっていた。耳に聞こえる自分の靴音が、さっきよりも力強く響くような気がした。
男子トイレの入口のドアをゆっくり押すと、薄暗い廊下に人影のない事を確認する。 静かに廊下へ出ると、すぐ向かい側には女子トイレのドアがある。 この辺りは女の入院患者ばかりだから、ここを出た時に誰かと鉢合わせするリスクがないわけじゃない。
ナナの言う通り、女子トイレの横を奥へ進むと重たいドアがあった。 そのドアの鍵を開けてゆっくりと外側へ押す。すると錆び付いた非常階段の手すりが目の前に現れた。 外の風は緩やかで冷たい。階段に目をやると、所々に氷のかたまりがこびり付いていた。 そこからブロック塀の向こうを見下ろすと、非常階段から最短距離の位置に俺の車が止めてあった。
「俺って天才かも」
俺は天を仰いでそうつぶやいた。太陽が眩しい。 今ならまだ、こちら側の壁のほとんどの窓にブラインドが降ろされているだろう。
すべてを確認すると鍵は開けたままで静かに非常階段のドアを閉め、俺は再び薄暗い廊下を渡って男子トイレに入った。
手を洗う水道の蛇口の上に、四角い鏡が貼り付けてある。その時俺は自信満々な自分の顔を鏡に映してそっとウインクしてみた。 その時、1つだけドアが閉まっている1番奥の個室の中で水の流れる音がした。
「ナナ、もう行くぞ」
俺は彼女に小さく声をかけ、もう一度男子トイレの入口のドアを開けて廊下を覗いた。 すると急ぎ足でこちらへ向かってくる人影が見えた。 それは全身黒っぽい洋服を着た背の高い男だった。彼はどう見ても病院関係者ではなかった。
「洋輔、私……」
その声に振り向くと、ちょうどナナがのんびりと個室の中から出てくる所だった。
俺は靴音をたてないように彼女に駆け寄り、さっきのお返しとばかりに強引に彼女の手首を掴んでもう一度個室の中へ押し込んだ。 俺たちが個室に入ったのとトイレに入って来た誰かの靴音が天井に響いたのとはほとんど同時だった。
俺もナナも、緊張して息を殺していた。 革靴を履いているような靴音がだんだん側へ近づいてくる。俺はナナを抱き寄せ、耳をその靴音に集中させていた。
とその時、すぐ近くで突然携帯の着信音が鳴り出した。そのメロディーはよくテレビで耳にする楽曲で、びっくりするような大音量だった。ナナがその音に驚いてハッと息を呑むのが分かった。
「もしもーし」
携帯の持ち主は、個室のドアの向こうにいた。 だがその声には緊張感のかけらもなく、彼が俺たちの敵じゃない事はすぐに分かった。
「俺今病院にいるんだ。祖母ちゃんの見舞いに来ててさ……」
男の声の聞こえてくる方向が微妙に変化した。彼は用を足すために隣の個室へ入ったんだ。
「もうすぐ帰るよ。これから行く所もあるし」
その声と共に、白い壁の向こうからベルトをはずすような音が聞こえてきた。 俺は念のために便器のフタの上に立ち、上からそっと気付かれないように 隣の個室を覗いた。すると真っ赤な髪をした男が携帯を耳に当てたまま便座に腰掛けているのが見えた。 俺はトイレの水を一度流し、それからナナには動くなと合図をしてもう一度男子トイレの入口へ向かって歩いた。 今度こそ、廊下に人影はない。俺は手を洗う水道の蛇口をひねって水の音を響かせ、奥からこちらの様子を伺っているナナに向かって手招きをした。 ナナは利口で、俺が何も言わなくてもスリッパを脱いで足音をたてないよう気を遣いながら俺に近づいた。

 そこからは、夢中だった。
ナナと2人で非常階段のドアへ走り、凍った階段の上は危ないから俺はナナを抱えて階段を駆け下りた。
途中でナナは手に持っていたスリッパを落としてしまったけれど、そんな事は気にしない。
2人して雪の降り積もる地面に下り立った後、次に俺たちは自分の背よりも高いブロック塀を乗り越えなければならなかった。
俺はまずナナをブロック塀の前に立たせ、自分が先に塀によじ登って1番高い所へしゃがみ込み、両手で地面に立つナナの手を引っ張った。
その時はナナが裸足だった事が幸いした。ナナの足は全く滑る事なくブロック塀にまとわりついた雪の中にうまくはまり、彼女はいとも簡単に塀の上へ乗る事に成功した。
俺はブロック塀の裏側へ飛び降り、その後に続くナナの体を両手で支えた。俺の目の前へ飛び降りたナナの足は、やはり足首までが雪に埋もれていた。
「足が冷たい」
「もうちょっとだ。がんばって」
俺は自分に言い聞かせるようにナナを励ました。雪の中へズボズボ埋りながら車へ辿り着いても、まだ安心はできなかった。
「ナナ、頭を低くしてて」
俺は助手席に乗り込んだ彼女に頭を伏せるよう指示し、ずっと着ていた皮のハーフコートを脱いで彼女の肩に掛けてやった。
それから俺は法定速度を守って運転を続け、矢萩と走った運命の道を目指した。
病院の敷地内を出ても、線路沿いの道へ出ても、俺たちは一言も口を利かなかった。 お互いにそんな余裕はなかったんだ。俺はその間に通り過ぎた景色をほとんど覚えていない。 そんな事を頭に記憶する余裕もなかったからだ。
ただ太陽に照らされる雪明りが眩しかった。俺が覚えているのは、たったそのくらいの事だけだった。

 俺が一晩過ごした樹木の奥へ車を止めるまで、どのくらいの時間走り続けたのか。それは誰にも分からない。 ただ俺にとってもナナにとっても長く重苦しい時間だったという事だけは確かだ。
決して誰も来ないその場所に車を止めた時、俺はずっと頭を伏せていたナナにやっと声を掛けた。
周りに立ち並ぶ樹木の枝に乗っかった綿帽子が、俺とナナを優しく見つめていた。
「ナナ、もう平気だよ」
シートを倒してうずくまるようにしていたナナが、恐る恐る頭を上げた。そして体を起こした。
彼女はブカブカな皮のハーフコートを羽織っていて、その両手は袖の奥に隠れて全く見えなくなっていた。 両手の空いている俺は、両手の効かない彼女をしっかりと抱きしめた。 その瞬間に俺は人形のように透き通る灰色の目を永遠に手に入れた。
もうその時俺は、トランクの中に入っている金の事なんかすっかり忘れていた。

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