月が見ていた  第1部
 17.

 ナナは今、助手席のシートを倒して眠っている。昨日1人で来た道を、今日はずっと2人で走り続けて来た。
ナナは安心し切った顔をして熟睡中だ。ブカブカのハーフコートを着て。俺のすぐ隣で。
今朝ナナを病院から連れ出し、今はもうすっかり夜になってしまった。 車を南へ向かって走らせると、いつしかもう雪は見られなくなっていた。 今俺たちは乾いたアスファルトの上を快調にドライブしている。
右手上空に見える月は、そんな俺たちをずっと追いかけて来た。 都会の町へ近づくと、歩道の上にはロングブーツを履いた女たちが目に付くようになった。
午後8時。真っ黒な空にはたくさんの星に囲まれた丸い月が浮かんでいた。

 右手に月とは別な明るい光が見えてきた。昨日お世話になったコンビニの光だ。
俺は車を右に寄せてウインカーを上げた。この辺りは交通量が多い。右折するにも対向車が次々とやって来てなかなかハンドルを切る事ができない。二車線だから尚更だ。
だがそのうち対向車は途切れた。恐らく昨日急ブレーキを踏んだ交差点の信号がその色を変えたのだろう。
コンビニのドアの前には1台の軽自動車が止まっていた。俺は店のドアから1番遠い所に車を止めた。
車が止まった気配を感じたのか、それともコンビニの放つ光が眩しすぎたのか、その時ナナが目を覚ました。
ナナは眠そうに目を擦りながら体を起こした。明るい光に照らされるナナ。鼻筋の通ったその顔はとても美しい。 彼女の寝起きで乱れた髪を見るのはいったい何ヶ月ぶりだろう。
彼女の灰色の目に幸せそうな俺の顔が映し出される。 今までは道行く人たちが皆幸せそうに見えた。俺とナナ以外は皆幸せそうだった。 でも今日からは俺たちもその人たちの仲間入りだ。
「洋輔、ここはどこ?」
俺はここでは洋輔ではない。世界中どこへ行っても俺は翼だ。だけど、その話は後にしよう。
「おはよう。よく眠れた?」
「うん。こんなふうに熟睡したのは久しぶり」
たしかにナナはぐっすり眠っていて、ここへ来るまで一度も目を覚ます事がなかった。彼女はたっぷり1日分睡眠を取った。 きっと疲れていたのだろう。でもその自覚のないナナ本人は、外が暗いので驚いているようだった。
「今何時? これからどこ行くの?」
俺は矢萩に貰った腕時計をちらっと見てから髪の乱れた彼女の質問に答えた。
「今は夜の8時。これから俺たちの家に帰るんだよ」
「家?」
コンビニの光に照らされたナナの顔は口を開けてぽかんとしていた。 彼女は今まで一度も自分の家を持った事がない。いきなり家に帰ると言われても、きっとどこへ帰るのかさっぱり分からないんだ。
俺はその時まだ彼女に何も話していなかった。ナナはずっと眠っていたから、今まで話す機会がなかった。 でももう焦る必要はない。時間はたっぷりある。時間はいくらでもある。 だから俺はその時1番大事な事だけを彼女に話した。
「ナナ、これからいっぱい驚く事があると思うけど、何も聞かないで」
彼女はしばらく緊張した面持ちで俺の顔を見ていた。だがやがて昔から変わらない柔らかな笑顔を見せ、俺の左手をぎゅっと握った。 俺の左手を握ったナナの手は、相変わらず冷たかった。
「洋輔、お腹がすいたでしょう? 私、帰ったらすぐご飯を作るね」
ナナは俺の言った通り、何も聞かなかった。きっと彼女は何も分からなくて不安だったはずだ。 それでも彼女はただ俺だけを見つめ、俺の手の温もりで自分の手を温め、不安そうなそぶりなど決して見せなかった。
「オムライスが食べたいな」
俺が夕食をリクエストすると、ナナは黙ってうなづくだけだった。
「材料を買ってくる。ちょっと待ってて」
俺はそう言ってからゆっくりとナナの手を離し、車を降りた。
外の風が生温かく感じる。北の町ではもっと風が冷たかった。
コンビニの店内へ入ると昨日と同じように煮詰まったおでんの香りが鼻をついた。 でも「いらっしゃいませ」と俺を迎えてくれたのは、昨日とは違う男の声だった。

 俺は卵と鳥肉とナナの好きなレモンジュースを買った後店を出てナナの目が届かないコンビニ横の物置の前に立ち、携帯から矢萩に電話を入れた。夜空を見上げると、丸い月と目が合った。
「もしもし」
矢萩は1回目の呼び出し音が鳴り終わる前に電話に出た。彼はきっと今日も俺の報告をずっと待っていたに違いない。
「矢萩? 俺だよ。今ナナを連れてそっちへ向かってる」
「そうか」
彼が安心したような声を出した。最初の "もしもし" はいつも緊張しているのに。
「後で車を返しに行くよ」
「10億でカタがついたんだな?」
矢萩の声と、道路を走り抜ける車の音が重なった。
俺はその時まで、トランクに積んである金の事を本当に全く忘れていた。 後から考えると矢萩にウソをつくなんて無謀すぎたけれど、その時の俺にはそうする以外に方法がなかった。
俺は矢萩に、決して組織に無断でナナを連れ出したりするなときつく言われていた。 組織のネットワークはあなどれない。 そんな事をしたらいつか痛い目に遭う。だからちゃんと金でカタをつけて堂々と彼女を連れ帰って来いと、何度も彼に言われていた。
「うん。ちゃんと10億で話をつけたよ」
「そうか。だったらいい。疲れているだろうけど、明日はいつも通り出勤して来いよ」
「分かってる」
「今日はゆっくり休め。お疲れ様」
「ありがとう」
しばらく外にいると、生温かく感じていた風がどんどん冷たくなっていくような気がした。 背中の後ろにある物置のドアが都会の風にカタカタと揺れていた。
歩道の上をロングブーツの女たちが次々と歩いて行く。道路の上を車が次々と走り抜けて行く。 道路沿いにはマンションが建ち並んでいる。マンションの窓には明るい光が差している。
やっとここへ帰って来た。これで本当にあの町から解放された。過去から解放された。 今日からずっとナナと一緒にいられる。俺は都会の街並みを見つめてふつふつと喜びが込み上げてきた。


 「すごい」
リビングへ入った時、ナナの最初の言葉はこれだった。
俺には彼女の気持ちがすごくよく分かる。きっとここは一般的には特別豪華なマンションというわけではない。 でも、園で育った俺たちにはまるでお城のように見えるんだ。
いつもならリビングの明かりは点けないが、今日はナナがいるからちゃんと部屋を明るくした。 ナナはフローリングの床の上を裸足でペタペタ歩き、ブカブカのハーフコートを脱いでからソファの上に乗って飛び跳ね、その後広いキッチンをちらっと覗いてにっこり微笑み、最後はいつも俺がそうしているようにガラスの壁の前に立った。
俺にはガラスの壁の前に立つナナの気持ちもすごくよく分かる。 この部屋にいる自分はそこから見えるすべての景色を手に入れたような、そんな気分になるんだ。 リビングも、キッチンも、この部屋に続く空も星も月さえも、全部手に入れたような気分になるんだ。
俺はリビングの明かりを消した。その方が夜景が綺麗に見えるからだ。
ナナはガラスの壁に両手をついて夜空を見上げていた。首の後ろで束ねていた髪はついさっきほどかれ、真っ直ぐな長い髪が彼女の背中に振りかかっている。
俺はナナに近づいて、彼女を背中から抱きしめた。彼女は俺に身を任せ、夜空を見上げたまま無数に広がる星を指さした。
「見て。星が近いよ」
「うん」
「あんなにいっぱい」
「あの星は全部ナナの物だよ」
「本当?」
ナナがクスッと笑って振り返った。彼女がいつものように俺の肩に手を回す。 俺は彼女の肩越しにたった今ナナにプレゼントしたばかりの星を見つめていた。
今夜はずっとこうして彼女を抱きしめていたい。だけど、俺にはまだやる事が残されていた。

 俺はマンションの前に駐車した車と部屋を何度も往復して、トランクに詰め込まれたボストンバッグを全部運び出した。
たくさんのボストンバッグはとりあえずバスルームの向かい側にある使っていない部屋へ入れた。 そこは8畳ほどの広さで、フローリングの床の上には最初から何も物が置かれていなかった。 俺は埃っぽいその部屋の床に次々と重たいボストンバッグを置き、ドアには鍵をかけておいた。 ここはナナの部屋にしようと思って空けておいたのに、しばらく金庫の役目を果たしてもらう事になりそうだ。
持ち帰った金をどうにかしなければならない。だけど、それはもう少し後で考えよう。
俺にはまだ他にもやる事がある。車を昨日受け取った場所へ戻さなければならない。ナナを1人にするのは不安だったけれど、どうしても行かなければならない。
俺はキッチンで料理の仕込みをしているナナに近づき、"ちょっと出かけてくるから" と告げた。
案の定彼女は不安そうな目をした。銀色のボールの中に溶いた卵を俺に見せ、もうオムライスの用意はできているんだよという事を無言で示されたりもした。
ナナを不安にさせるのはいつも俺だ。連絡もせずに彼女を3ヶ月も1人にして、やっと会えたと思えば突然の逃避行。 ナナにしてみたら、俺が持ってくる物はいつも不安材料ばかりだ。 なのに……彼女は俺に聞きたい事が山ほどあるはずなのに、俺は質問する事すら許さない。 ちょっと出かけてくると言う俺の "ちょっと" がいったいどれくらいなのか。ナナは俺との約束を守るためにそんな簡単な事すら聞けずにいる。
「ごめん。絶対に1時間で戻ってくるから。約束するよ」
ナナはフォードアの冷蔵庫のドアに寄り掛かって銀色のボールを持ったまま不安そうな目でじっと俺を見つめた。 キッチンの明かりがナナのシルクのパジャマを光らせ、そして彼女の潤んだ目も光らせていた。
俺は彼女が泣き出す前に急いで玄関へ向かった。ナナは俺を見送るためにペタペタと足音を立てて後ろをついて来たけれど、俺は一度も振り向かずに玄関のドアを出た。

 外の風はさっきより各段に冷たくなっていた。セーター1枚では寒くてたまらない。
道行く人たちも、皆肩をすぼめて歩いている。時々首に巻いたマフラーを風に揺らしながら。外灯に道を案内されながら。
俺は外へ出るとさっさと車へ乗り込み、海辺を目指した。途中、すれ違う車の中で談笑している若い男女を何度も見かけた。
その途端に不安そうなナナの目を思い出す。 彼女は俺が家を空けるたびに潤んだ目をして不安な1人の夜を過ごすのかもしれない。
こうするのが1番いいと思ってナナを連れ出したのに、俺はもう迷い始めていた。
俺が仕事へ行く時、俺が人を殺しに出かけて行く時、ナナの目が足かせになりはしないだろうか。 俺はその汚れた手で、何食わぬ顔をしてナナを抱きしめるのだろうか。 俺はそれで平気なのか。ナナはそれで幸せなのか。
自分の信じていた事が全部間違っているような気がして、ものすごく不安になる。 でもそれは、きっと外が暗いせいだ。俺は暗闇だと何故か思考が冴える。余計な事にまで気が回ってしまう。
さっきから空に浮かぶ丸い月がずっと俺を追いかけて来る。
今日は最良な日のはずなのに、嫌な事なんか考えたくないのに、今宵の月は俺の味方をしてくれなかった。

 「お帰り!」
俺が出て行く時は不安そうだったナナの目が、俺が帰った時には喜びに満ちあふれていた。 玄関を入った途端、彼女の輝くような笑顔に目がくらむ。
俺があれこれ考えている間、きっとナナもいろんな事を考えたのだろう。 彼女は利口だし、本当は強い。 今まで辛い人生を生き抜いてきた自信が、今の彼女を輝かせているのかもしれない。
家へ帰って誰かが出迎えてくれるのはいいものだ。ナナはきっとこれから毎晩こうして俺を迎えてくれる。 そして俺に "お帰り" と言ってくれる。そしてこの幸せは2人でいる限りきっと永遠に続く。
「ねぇねぇ、来て」
俺が靴を脱いで廊下へ上がるとナナは俺の手首を掴んで真っ直ぐにチッキンへ連れて行った。その時にはもう廊下やリビングにまでおいしそうな揚げ物の香りが充満していた。
キッチンには、幸せな光景が広がっていた。 まな板の上には使い終えたばかりの包丁。流し台の上には汚れたボールや箸。 そして四角いダイニングテーブルの上には豪華な料理。
白い皿の上には、ケチャップのかかったオムライス。 黄色い皿の上には、鳥の唐揚げ。そして水色のマグカップの中からは白い湯気が見えていた。
「座って。ご飯が冷めちゃうよ」
ナナはそう言って俺のために椅子を引いてくれた。 硬めの椅子に腰掛けてすぐ目の前のオムライスを見つめる。 鮮やかな黄色の卵はほどよく焼けて綺麗な楕円形となり、チキンライスを包み込んでいた。 その上にはケチャップで "ナナ" という文字が書かれている。
これが、2人の家で食べる記念すべき最初の食事だ。そう思うと、なんとなく手をつけるのが惜しくなった。
今まで広すぎると思っていたキッチンが、2人だとすごくしっくりきた。2人分の食事が並ぶとダイニングテーブルもサマになるという物だ。 でも冷蔵庫はちょっと背が高すぎる。ナナは1番上のドアを開けるのに背伸びしなければならないだろう。 多少解決しなければならない問題はあったとしても、ナナと2人きりで時間を気にする事もなく明るい光の下でゆっくり食事をするなんてこの上ない幸せだ。今はとにかくこの時を楽しみたい。
「もったいないけど、いただきます」
俺は最初にスプーンで割ったオムライスを一口食べた。最高にうまい。卵はトロトロだし、チキンライスの味も絶妙だ。
「ナナ、すごくおいしいよ」
向かい側に座って俺の反応を待っているナナに、即座にそう伝える。
するとナナはほっとしたような笑顔を見せ、やっと自分も食事に手をつけた。
俺は食べ物の大切さは人一倍分かっているつもりだ。それは園にいた頃学んだ事の中で唯一良かった事だと思っている。 ナナはオムライスの出来を気にしていたようだが、俺はたとえ彼女が料理を失敗しても今と同じように "すごくおいしいよ" と言ってあげる自信があるし、どんなに腹がいっぱいでも出された物は残さず食べる自信がある。
ナナは何も心配しなくていい。俺はちゃんとその事を彼女に言ってあげなければならないと思った。

 俺が鳥の唐揚げを1つ口に入れると、ナナは遠い昔の事を話し始めた。 それは本当に、遠い遠い昔の話。もう2度と帰る事のない園の想い出だ。
「洋輔、私より1年早く小学校へ上がったでしょう? 洋輔が学校へ行っている間、すごく淋しかったよ」
俺だって淋しかった。ナナと離れて学校へ向かう時、自分よりもずっと背の高い木を見上げて涙が零れ落ちないように我慢していた。
「洋輔が小学校へ上がって間もない頃、給食に出た鳥の唐揚げを持って帰ってきて私に食べさせてくれたよね。覚えてる?」
「ああ、うん」
そんな事もあったな、と俺は思う。今となっては懐かしい想い出だ。 でも園の話をするのはこれで最後にしたい。
「ティッシュに包んで持って来たお肉をズボンのポケットから出して、私にくれたよね」
「ティッシュが肉にくっついて、しかたがないから一度水で洗った」
「そうそう。誰にも見つからないようにね」
ナナは黄色い皿の上で山積みになっている唐揚げを見つめながら右手に持つスプーンを無意識に動かし、ケチャップを黄色い卵の上に塗ったくっていた。 鼻筋の通った綺麗な顔にさっきまでの笑みはなく、ピンク色の薄い唇はきつく噛み締められていた。ナナの真っ直ぐな長い髪が彼女の動きと共に軽く揺れていた。
「あれは、私が最初にお肉を食べた時の想い出なの」
そうだ。そうだった。園のガキは小学校へ上がるまで肉を知らない。 それまでは園の敷地内で作った野菜だけしか食べる機会がない。 小学校へ上がって給食に肉が出た時は、この世にこんなうまい物があったのかと誰もが驚くんだ。
「洋輔がくれた唐揚げ、すごくおいしかったよ」
「給食は、ご馳走だったよな」
「自分が小学校へ通うようになって、給食の唐揚げは1人1つずつしか貰えないって分かった時、洋輔にすごく悪い事したなと思った」
「そんな事、もう忘れろよ」
「洋輔、ごめんね」
「もう忘れろって」
ナナの右手はスプーンを持っていた。そして左手は所在なさげにテーブルの上に置かれていた。 俺はテーブルの上でナナの左手をきつく握り締めた。その手はやはり冷たかった。
彼女の手を氷のように冷たくしたのは組織の連中に違いない。でもこれからは、俺がこの手でナナの手を温めてやれる。
「いっぱいいっぱい食べて」
ナナはそう言いながら俺の食べかけのオムライスの皿にどんどん唐揚げを積んでいった。自分は1つも口をつけずに。
彼女がそんな小さな事を引きずっているなんて、今まで知らなかった。 でももうこんな事はやめにしたい。今の俺ならナナになんだってしてやれる。 欲しい物はなんでも買ってやれるし、好きな物はなんでも食べさせてやれる。 もう過去の事は完全に忘れるんだ。今宵限りで。俺もナナも、2人とも。

 食事の後、ナナは風呂へ入った。 彼女はガラスのシャワーブースを見てすごく喜び、ジェットバス付きのバスタブを見て更に喜んだ。 きっとナナは、しばらくバスルームから出て来ない。
シャワーの音が聞こえてきた事を廊下で確認し、俺は再び鍵がかかっている空き部屋へ向かった。
真っ暗な部屋の床は、とても冷たかった。1つしかない窓にはぶ厚いカーテンが引かれ、部屋には月明かりさえ入り込む余地がない。
俺はドアを半開きにして廊下の明かりを部屋の中へ少し取り入れた。
部屋の中には安っぽいボストンバッグがズラリと並んでいる。さぁ、これをどうしようか。
俺は冷たい床の上に座り込み、ボストンバッグを1つ開けてみた。 その中には帯の付いた札束が無造作に入れられていた。 2つ目のボストンバッグにも、3つ目のボストンバッグにも、同じように札束が入っていた。
その札束を1つ手に取って重なった1万円札をパラパラめくってみる。 すると自分の手の中にある物が金だという感覚が薄れていった。俺の手は、まるでトランプをめくっているかのようだった。

 俺がその事実を知ったのは、すべてのボストンバッグを開けてみた後の事だった。 俺は数字に強い。決して金勘定をしくじったりはしない。たとえ真っ暗闇の中にいてもだ。
「1億足りない……」
俺は体の力が抜け、膨らんだボストンバッグを枕にし、床の上へ大の字になって寝た。
目を閉じると、言葉では説明できないほど複雑な思いが何度も頭をよぎった。 それが怒りなのか恐怖なのか、自分でもよく分からなかった。
誰かがトランクをこじ開けて金を盗んだとは到底思えない。車には傷1つ付いていなかったし、俺はほとんど車を離れなかったのだから。
真実はただ1つ。車を受け取った時から……最初から1億不足していたという事だ。
矢萩のヤロー。あいつ、絶対殺してやる。
俺がそう決心した時、廊下の向こうでシャワーの音が止んだ。

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