月が見ていた  第1部
 18.

 次の朝。俺はいつも通り会社へ向かった。右手に持つ黒いかばんの中に銃を入れて。
俺は昨夜疲れているのにほとんど眠れず、今日は朝から意識が朦朧としていた。
いつもの道を駅へ向かって歩いたが、途中で自分がどこにいるのか分からなくなる。
きっと歩きながら眠ってしまいそうになったんだ。その証拠に俺の意識は時々飛んでいた。 歩いている間に冬の太陽の光や灰色のアスファルトが視界から消え、目の前が真っ暗になる感覚を何度も味わった。 いつもの美容室の前やエステティックサロンの看板の前を通り過ぎた記憶もないし、外の寒さを体感した記憶もない。
ただそろそろ駅へ着くかな、と思った時突然大きな手が俺の右腕をひねり上げた事はちゃんと覚えている。俺はその時の腕の痛みでやっと視界がクリアになったのだから。

 「痛いよ!」
「少しは目が覚めたか?」
ビシッとスーツを着こなしている矢萩がいきなり俺の目の前に現れた。 その低い声はもうとっくに聞き慣れていた。嘘っぱちな優しい目も、もうとっくに見慣れていた。
いつもこうだ。矢萩はいつも俺の予想を裏切った。まさか彼が駅前で俺を待ち伏せしているなんて考えもしなかった。 殺しのターゲットが向こうからやって来るなんて、想像もしなかった。
矢萩は車道にいつもの黒い高級車を止めていた。 俺は彼に腕を掴まれたまま歩道の上を引きずられ、かなり強引に車の助手席へ押し込まれた。
矢萩の動きはあまりに早くて、俺は自分の身に何が起こったのかよく理解できていなかった。 ただ彼に掴まれた腕があまりにも痛くて顔をしかめていただけだ。
気付くともう矢萩は運転席にいて、車は猛スピードで走り出していた。 俺にはいつも法廷速度を守れと言っているくせに彼の運転はひどく荒かった。 矢萩は前を見たままで俺の抱えている黒いかばんを剥ぎ取り、それを乱暴に後部座席へ放り投げた。
「財布と同じ感覚で銃を持ち歩くのはよせよ!」
声を荒げる彼に対してふつふつと怒りが沸いて来た。 本当ならここで今すぐ頭を吹っ飛ばしてやりたい所だ。
俺は太陽がさんさんと降り注ぐ車の中に矢萩の脳みそが飛び散る様子を連想した。
でも、彼はどうして俺が銃を持っている事に気付いたのだろう。 もう1人の俺はやたらと冷静にそんな事を考えていた。
周りの景色はあまりにも早く過ぎ去った。それはもちろん矢萩が猛スピードで車を走らせていたからだ。
あっという間に通り過ぎていく樹木やガードレールの幻影が目の奥をグルグルと駆け巡り、ひどく胸がむかついた。

 矢萩の家へ来るのはこれが2度目だった。
今朝の彼はとにかく俺を手荒に扱った。 俺は彼の部屋へ来るまでに何度も頭を小突かれ、そのたびに彼を睨み、腕を掴まれるたびに彼の手を振りほどいた。
彼が俺を家へ連れ込むのは、どう考えてもやばい時だ。 だって、以前ここへ来たのは最初の仕事の説明を受けた時だったはずだ。
「早く入れよ!」
俺は玄関へ着くなり矢萩に強く背中を押され、前へつんのめりそうになるのを必死で堪えた。 背後で矢萩が玄関のドアに鍵をかける音がした。

 リビングへ入るとそこには以前来た時とは違った景色があった。 きっと前に来たのは夜だったから一瞬そんなふうに思ったんだ。 よく見ると部屋の中は以前来た時とそう変わりはなく、特に模様替えをした様子もなかった。
ガラスの壁の前にリクライニングソファが2つ。その前には小さなテーブル。 そして暖炉型ストーブには大きく火が灯されていた。それは全部俺が知っている景色ばかりだった。
ただガラスの壁の向こうに見える空が明るい。よく見ると俺が感じた違いはただそれだけの事だと分かった。
「座れよ!」
俺はまた矢萩に腕を掴まれ、ガラスの壁の前にあるリクライニングソファに叩きつけられた。 すると一瞬辺りに埃が舞い散った。冬の太陽の光の中で埃が踊っていた。
俺は自分がどうしてこんな目に遭わなければならないのかまるで理解できなかった。 でも何も理解できないうちに俺をここへ連れてくるのが矢萩の目的だったのかもしれない。
「何するんだよ!」
俺はすぐ横のリクライニングソファに腰掛けた矢萩に向かってそう言った。 だけどその時決して彼の目は見なかった。 嘘っぱちな優しい目を見てしまったら、殺さないまでもぶん殴りたくなってしまいそうだったからだ。
「お前、どこへ行くつもりだった?」
「会社だよ」
「何?」
「あんたが出て来いと言ったんだろ?」
矢萩に挑発されると俺は少しずついつもの調子が戻ってきた。
俺はその時、ガラスの壁の向こうに見える海を見つめて気持ちを落ち着かせようとしていた。 矢萩がその時何を見ていたのかはよく分からなかった。

 矢萩がしばらく間を置いた。彼はきっと何かを考えていたのだろう。 俺はその間遠くの海を見つめたまま次に何を言われるのかとビクビクしていた。
俺は人から手荒く扱われる事に慣れていた。だけど矢萩に手荒く扱われる事には慣れていなかった。 彼は園長とは違う。何もしていない人間を殴ったり蹴ったりするようなヤツとは違う。 いつも穏やかな彼を怒らせる人間がいたとしたら、きっとそっちのヤツに非がある。 俺はその事を理解していたから、もしかして自分がとんでもない間違いを犯したのかと怯えていたんだ。
「お前、相変わらずバカだな」
俺は遠くの荒波を見つめながらその声を聞いた。
矢萩の声のトーンは落ちていた。 俺はきっとまた彼に言い負かされる。それはもうその時想像がついていた。 彼が本当に怖いのはこういう穏やかな時だと知っていたからだ。
「お前はもう出て来ないと思っていた。女を手に入れ、金を手に入れ……俺ならすぐに女と2人で逃げるぞ」
俺は彼が何を言おうとしているのか全然理解できなかった。 彼は俺が組織に金を渡さなかった事を知っている。俺が理解できたのはたったそれだけの事だった。
「そのつもりで金を持ち帰ったんじゃなかったのか?」
俺はその言葉に敏感に反応し、思わず彼の顔を真っ直ぐに見てしまった。 彼と目が合った時、彼がガラスの外の景色ではなくずっと俺を見ていたんだという事に初めて気がついた。
矢萩の嘘っぱちな優しい目はその時笑っていた。
しばらく考えるとやっと矢萩の言いたい事が理解できた。 彼は俺が金と女を手に入れて逃亡するために組織との交渉を避けたと思い込んでいたんだ。
「それとも、俺を殺してから逃げるつもりだったのか?」
それを言う時の矢萩は怒るでもなく笑うでもなく、表情のない目で俺を見つめていた。 俺は彼の目から視線を逸らす事ができなかった。表情のない彼の目は俺にそうさせない何かを持っていたんだ。
体が熱い。この部屋は暑すぎる。汗でワイシャツが背中に引っ付き、とても不快だ。
俺がそう思っていた時、矢萩はテーブルの上に置かれたリモコンを使ってストーブの火を緩めた。 彼には何も言わなくても全部俺の事が分かってしまう。それがすごくしゃくに障った。
矢萩の肩越しに大きな観覧車が見えた。以前矢萩と2人で行った水族館の側にある観覧車だ。
彼が1番大事な話をここでするのは、きっとあの観覧車を俺に見せ付けるためだ。 あの日水族館の中でスイスイと泳ぎ回るペンギンを見ながら俺たちが交わした約束。 俺はあの観覧車を見るとどうしてもあの時の事を思い出してしまう。 今の仕事を引き受ける事は自分で決断したのだという事を嫌でも思い出してしまう。

 矢萩を欺く事は自殺行為でしかない。
俺は金と女を奪って逃げようなんて考えもしなかった。 俺に金を提供したのが矢萩以外の人間だったらそういう事を考えたかもしれないが、矢萩の事を少しでも知っている人間ならそんなバカな事は考えないだろう。 彼はそういう肝心な所を分かっていない。 矢萩は頭がいいくせに、自分の恐ろしさをよく理解していないようだ。
俺はどうしても誤解を解いておかなければならないと思った。 俺は身を乗り出し、しっかりとした口調でその事を彼に告げた。
「俺は逃げるつもりなんかなかった。もうそういうのに疲れたんだ。ちゃんと仕事はするよ。もう抜けられないのはよく分かってるから」
「そうか」
「俺は何かと引き換えじゃないと金を受け取らない主義だ。あれは俺の金じゃない。まだあんたの金だ」
矢萩の手首に銀色の腕時計が光っていた。その光が俺の目に入り、とても眩しく感じた。
彼はずっと俺の表情を観察していた。俺の言う事にウソがないかどうかを自分の目でたしかめるために。 彼は他の何よりも自分のアンテナが1番優れている事をきっと知っているから。
やがて俺の言葉にウソがないと判断した彼は涼しげな顔をして俺をあっさり受け入れた。
「お前の言う事はよく分かった。あの金は報酬の前払いとして受け取っておけ」
「冗談言うな。あんな大荷物を家に置いておく事なんかできないよ」
「家に置いておけなんて言ってないさ。適当に銀行へ預けろよ。裏口座はいくらでも用意してやるから」
「……」
「それから、これだけは言っておくぞ。金にならない殺しは絶対にやめておけ。復讐なんて虚しいだけだ。 後には何も残らない。残るどころかリスクが増すだけだ。俺を殺したり園長を殺したりすれば間違いなくお前に疑いがかかるぞ」
今度は矢萩の方が身を乗り出してそう言った。俺を心配そうに見つめる目が本物なのかどうか、俺の鈍いアンテナでは判断ができなかった。
黙っていた方が利口だという事は、重々承知していた。だけど俺は沈黙を守る事ができなかった。
俺は昨夜やっと眠れそうだと思った瞬間に何度も飛び起きた。 組織の連中と取り引きをするシーンがいつも頭の中に浮かび、トランクを開けた瞬間金が足りなくて頭を吹っ飛ばされる夢を何度も見た。 俺が汗だくになって飛び起きるたびにナナは心配そうな目をして俺を見つめていた。こんな悪夢を見るのは全部矢萩のせいだ。 俺は目が覚めるたびにそう思い、また枕に頭を押し付けた。それを繰り返しているうちにあっという間に夜が明けてしまったんだ。
俺にそんな思いをさせた彼を簡単に許したくはなかった。ナナに余計な心配をさせた彼を簡単に許したくはなかった。 だけど、それよりもいつも彼のペースに乗せられてしまう自分が1番許せなかった。
俺は皮肉たっぷりに次の言葉を口にした。だけどそれは、彼の予想範囲を超えないものだったようだ。
「命乞いしてるの?」
「別に。俺を殺すなら殺せ。ただし、銃を使うと後始末が大変だぞ」
「そんなの平気だよ」
「お前が捕まったら彼女はどうなる?」
「捕まらなきゃいいんだろ?」
「そうだな。じゃあ俺を殺してみるか?」
矢萩が弾むような声でそう言った。冬の太陽の光の下で。俺の目をじっと見つめながら。
命知らずとは彼の事を言うんだ。彼は死ぬのが怖くないらしい。俺にはそうとしか思えなかった。
だって彼はなんだか楽しそうで、まるで本当に殺してほしいみたいで、俺は正直言ってそんな彼が怖かった。

 「俺が死んじゃえばいいと思った?」
よせばいいのに、俺はまだ彼にものを言うのをやめなかった。 だけど俺にはまだ話をつけておきたい事があったんだ。
「死んでも平気だと言ったのはお前だぞ」
「車の中には9億しかなかった。どうしてそんな事するの? あんたを信じた俺がバカなんだって、またそう言うの?」
「お前、その事をいつ知った?」
俺が挑発に乗った事で、矢萩の反撃が始まった。その口調は怖いくらい穏やかだった。 切れ長の目はいつも通り優しく、前髪をかき上げる仕草もいつも通りだった。
彼は俺が言葉に詰まる事を確信していたに違いない。その通り、俺はその質問には何も答えられなかった。
これは俺の問題であって彼の問題ではない。ナナを助ける事は仕事でもなんでもなく、ただ俺が望んだ事でしかない。 この事についての責任は結局全部俺にある。
「俺に報告の電話をくれた時はまだ知らなかったんだろ? お前はあの時はっきり10億でカタがついたと言ったんだからな」
「……」
「彼女を連れてこっちへ来るまで、一度も金を確認しなかったのか?」
「それは、あんたを信じてたからだよ」
「じゃあ聞くけど、どうして俺にウソついた?信用している相手にどうしてウソついた? あれほど言ったのに、ちゃんと話をつける事ができなかったんだろ?だったら何故そう言わない?」
「あんたのウソの方が先だろ?」
「自分を信じてほしかったら、決してウソは言うな。一度ウソをつくと信頼を取り戻すのに長い時間がかかる。分かるだろ?」
それはまるで子供に言い聞かせるような言い方だった。
矢萩は簡単に人を信じるなと何度も俺に言った。 俺が矢萩を信じたのは俺の勝手なんだ。結局、そういう事なんだ。
その時、矢萩が遠く感じた。矢萩はいつもながらに、見事なくらい落ち着いていた。 彼が身に着けている着心地良さそうなスーツがあまりにも似合いすぎて、彼があまりにも大人で、そして俺があまりにも子供で、彼と向き合っているのがとても耐えられなかった。

 俺は自分が責められるのは分かっていた。 だけど俺が帰って来るまでトランクの中の金を数えなかった事と、矢萩が最初から不足した資金を俺に持たせた事では絶対に矢萩の罪の方が大きいと信じて疑わなかった。
俺は殺さないまでも、絶対矢萩に謝らせたかった。 でもそうは思っていても自分の甘さを指摘されるとなかなかうまく言い逃れができなかった。 俺にも非がある事は自分が1番よく分かっていた。そこが俺の弱みである事もよく分かっていた。 それでも俺は矢萩のした事が許せなかった。 これは俺だけの問題ではない。ナナの身の上にも関わる問題なのだから。
だが矢萩はその後とても信じられないような事を口にした。その言葉は俺の予想範囲をはるかに超えていた。
俺は彼の言い草に唖然とし、閉口するしかなかった。 白く光るフローリングの床が眩しくて、頭がクラクラした。
「昨夜車を取りに行ったら、後部座席の下に1億残されたままだったよ」
「……」
「金が10億あったら交渉は5億からだ。そうすれば大抵は間を取って7〜8億でケリがつく。 だけどトランクを開けた時その中に10億あったら相手は全部寄こせと言ってくるだろ? 全額トランクに入れておくのはシロウトのやり方だ」
「……」
「俺はお前が電話してくるのを待っていた。1億足りないと言ってくるのを待っていた。 その時は後部座席の下にあるからと言うつもりだった。でも電話がこなかったから、お前はちゃんと自分で金を見つけたんだと信じていたよ」
「……」
「まさか帰って来るまで一度も金を数えていないとはな」
「……」
「交渉に7億かかるか8億かかるか分からなかったけど、残った金はお前に渡してやるつもりだったんだ」
頭の中が真っ白になった。矢萩の目はそんな俺をじっと見つめていた。
矢萩の手首に巻かれた銀色の腕時計が鋭い光を放ち、やがて目の前が真っ白になった。
「さぁ、言い訳を聞かせてくれ。俺を納得させてくれ。どういうわけで金を持ち帰ってきたんだ? そんな事をしても組織の連中が黙って見逃してくれると思った理由はなんだ?」
矢萩に容赦のない言葉を浴びせられ、俺はまた言葉に詰まってしまった。 彼はもう俺に考える隙を与えてはくれなかった。
「……」
「ずっとそうやって黙っているつもりか? また泣いて帰れば中本さんが迎えに来てくれるとでも思っているのか?」
彼が言葉を発するたびにリビングの空気が震えた。そして俺の手も震えた。
本当は最初から分かっていた。ここへ来た瞬間からもう俺の負けは決まっていた。 でも、簡単に負けを認めたくはなかった。俺は掌に滲む汗を拳の中に封じ込め、最後の悪あがきをした。
「ウソだ。車の中に1億残っていたなんて、絶対に信じられない」
「そうか。じゃあちょっと来い」
矢萩は立ち上がり、すぐ隣の寝室へ俺を招いた。

 でかいベッドの脇にある重そうな本棚が矢萩の手によって右へ移動する。 するとその奥には巨大な金庫の扉があった。 そのグレーの扉は俺の背丈より尚高くそびえ立ち、横幅は2メートル近くあった。
「ナンバーを覚えても無駄だぞ。鍵は毎日変えているからな」
矢萩はそう言いながら扉の左端に付いている丸いダイヤルをカチカチと鳴らしながら幾度か回した。
ダイヤルの周りには時計のように0〜9までの数字が並んでいた。 彼はダイヤルに付いている小さな矢印を 1、8、9、0、5 と順番に数字に合わせ、ゆっくりと扉を手前に引いた。 3段になっている金庫の真ん中の棚には見覚えのあるボストンバッグが2つ並んでいた。
「中身をたしかめろ」
矢萩が金庫の前から身を引くと、俺はすぐにボストンバッグの中を覗いた。
2つのバッグの中には帯の付いた札束がぎっしり詰まっていた。それを全部合わせると、どうやらちょうど1億ありそうだった。
だが俺は振り返り、矢萩にこう言い放った。こんな事をしたってなんの意味もない。俺はその時、そう思っていた。
「だから何? これが車の中にあったっていう証拠はどこにもないだろ? この金はずっとここに置いてあったんじゃないのか?」
矢萩の口許が緩んだ。この人はどうしてこんな時に笑っていられるのだろう。
「甘いな翼。この金が車になかったという証拠もないだろ?」
「……」
「それはお前がちゃんと金を確認しなかったからだ」
悔しい。悔しいけれど、俺の負けだ。
俺はしばらく金庫の前から動けなかった。 安っぽいボストンバッグの中から顔を出した札束が俺をあざ笑っているかのように見えた。 冷え切っている寝室の空気は決して俺の味方をしてはくれなかった。


 リクライニングソファに戻った俺は放心していた。昨日の朝から今日までの時間はあまりに濃密すぎた。 俺はとてつもない疲労感に襲われていた。
ストーブの温かさと冬の太陽の温かさでさっきまでは汗をかくほど体が熱かったのに今は寒気さえ感じる。 俺は自分が遠くに見える荒波に呑まれてしまったような錯覚に陥った。
「お前、自分のやっている事をちゃんと理解しているか?」
俺はそう言われて隣へ戻って来た矢萩の顔を覗き見た。もう何を言われても言い返す元気なんかなかった。
「今朝のように寝ながら外を歩くのはよせ。睡眠は十分に取れ。それも仕事のうちだ。 お前は組織に追われる身なんだぞ。この先10年は特に用心しろ。それを過ぎたらもう恐らく組織はお前を追ったりしないだろう。10年もたてばボスが変わるからな」
「……」
「分かったか?」
「分かった……」
「よし。じゃあ、次へいこう。仕事の依頼が入ったんだ。これから説明するよ」
疲れきっている俺の耳に次から次へと聞こえてくる矢萩の声。
矢萩の手にはビニール袋に入った注射器が握られていた。
今日はなんてハードな朝なんだろう……

 矢萩はその後、何もなかったかのように淡々と仕事の説明を始めた。
俺は前と同じようにターゲットの情報を見せられ、写真を見せられ、殺しの道具となる薬を渡された。
こんなに疲れているのにちゃんと仕事の情報を記憶する事ができる自分には正直驚いた。
俺は薬の詰まった注射器を太陽にかざして、その向こうに見える海の荒波をじっと見つめた。
それから後はもう仕事の話はしなかった。 お互いに気を取り直すためなのかどうか分からないが、その後俺たちは目線を合わせずにひどくつまらない会話を交わした。
「ねぇ、今度ナナに会ってくれる?」
「ミキだろ?」
「あ、うん。そうだった」
「嫌だよ。会いたくない」
「どうして?」
「お前の女に会ってもつまらないよ」
矢萩の声はさっきまでよりずっと優しくなっていた。
彼の手が何やらゴソゴソと動いている様子なので、俺はちらっと横目で彼の手元を見た。 するとその手はターゲットの情報が書かれた書類で紙飛行機を作ろうとしていた。
俺は彼の肩越しに見える観覧車を指さし、またもやつまらない会話を始めようとした。 黙っていると間が持たなかったからだ。
「あの観覧車、乗った事ある?」
矢萩は一瞬顔を上げてゆっくりと回転する観覧車に目をやった。そしてまたすぐに視線を落とし、紙飛行機を作り上げようとしていた。
「1回だけ乗った事があるよ」
「誰と?」
「もう忘れたよ」
矢萩はそれからまたすぐ顔を上げ、完成した紙飛行機をガラスの壁に向かって飛ばして見せた。 すると紙飛行機は空中でクルクルと3回転し、最後は俺の手の中に落ちてきた。
「すごい。これどうやって作るの?」
「そのうち教えてやるよ」
矢萩は笑いながら俺の手の中にある紙飛行機を取り上げ、ゆっくりと立ち上がった。

 矢萩は暖炉型ストーブの前にしゃがみ込んで俺に見せた写真と紙飛行機を火の中へ放り込み、それらが完全に燃え尽きるまでじっと炎を見つめていた。
本当はそれをするのは俺の役目だったのかもしれない。だけど彼はそんな事も言わずにスッと立ち上がり、黙ってストーブの側へ移動した。 それは彼が俺を信用できないと思ったからなのか、それとも俺が立ち上がれないほどのダメージを受けている事を見抜いたからなのか。その辺りはもう考えたくなかった。
俺は遠く見える彼の大きな背中を見つめて考えていた。
矢萩はどんなふうに仕事を片付けるのだろう。どんなふうに人を殺してきたのだろう。 きっと彼なら予測不可能な事態に遭遇しても冷静沈着に最善の解決方法を見つける事ができるんだ。 恐らく彼は失敗なんかした事がない。 矢萩はきっと、俺なんかより何倍も頭を使っている。そして彼は俺の何倍も頭がいい。
この人は完璧だ。彼はあまりにも完璧で、だからこそ一緒にいると自分がすごくバカな人間に思えて自信を失う。
俺はいつになったらこの人を超えられる?
10年後? それとも100年後?
余計な物が何もない矢萩の部屋を見回して、俺は思う。 彼には失う物が何もない。もしかして失うのが嫌だから何も持たないのかもしれない。
彼はガラスの向こうから入り込む太陽の光さえ疎ましく感じるのかもしれない。 彼は命を失う事さえ落し物をするのと同じように考えている。
俺はナナを連れ帰ってきた時、喜び以上に迷いが生じた。
人は何かを得ると何かを失う。
矢萩も何かを失って今の地位を手に入れたのだろうか。今の地位が彼の欲しかった物とは到底思えないけれど……
殺風景な部屋の中を一周した俺の目線は再び矢萩の背中へ戻った。
彼の真っ黒な髪は太陽の光があたって白く光っていた。そしてストーブの炎は彼の体を温めていた。
俺はその時、どうしてそんな事を言ったのだろう。
「ねぇ、あんたは女を好きになった事がないの?」
矢萩は俺の言葉を笑い飛ばし、何も答えようとはしなかった。きっとあまりにもつまらない質問だと感じたからだろう。
でも彼の背中はどことなく淋しそうで、俺はとても笑う気になんかなれなかった。

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