月が見ていた  第1部
 19.

 俺は矢萩の家を出た後タクシーに乗り、そのまま家へ帰った。 今日は休んでいいという社長さんのお許しを得たからだ。
乗り込んだタクシーの中には太陽の光が注がれ、とても暖かく感じた。 ナナが待つリビングにもきっと同じ光が注がれているだろう。 俺と彼女は今同じ光を浴びている。それを思うと少しだけほっとした。
昼前に家へ帰るとナナはびっくりして俺を出迎えた。 それもそのはずだ。俺は今朝彼女に「夜にならないと帰れない」と告げて家を出たのだから。
「洋輔、早かったね」
"洋輔" と呼ばれるとなんだか変な気がした。俺をその名前で呼ぶ人間はここにはいない。 18年間も使ってきた名前なのに、もう今の俺は自分は"翼" だという意識の方がずっと強かった。
リビングへ続く廊下はナナと並んで歩くとすごく狭く感じた。

 リビングへ行くとナナはガラスの壁の前に立ち、クルッと1回転して見せた。
彼女はこの時デニムのワンピースを着ていた。 彼女がターンすると膝丈のスカートがフワッと舞い上がり、同時に自慢の長い髪も太陽に照らされながら舞い上がった。
「この洋服、どう?」
「似合うじゃん」
「ありがとう」
ナナはくったくのない笑顔を見せて俺の側へ寄ってきた。 俺はその時、彼女を必ず幸せにしなければならないと改めて感じていた。
ナナの透き通るような灰色の目がキラキラと輝いていた。 彼女とはもう長い付き合いなのに、その目で見つめられると未だにドキドキしてしまう。
だが次の瞬間すぐに彼女の目の色が曇った。彼女は心配げに俺の顔を見上げている。
「洋輔、目が赤いよ。少し寝たら?」
俺の目は相変わらず充血していたようだ。だけど寝るのはもったいない。 俺は明日から南の町へ出張だ。だから今はナナと2人の時間を大切にしたい。 それに、今のうちに彼女と話しておかなければならない事がある。
「なぁ、ちょっと座ってくれ」
俺はかばんとコートを床の上に投げ捨て、ナナの背中を押して彼女をソファへ座らせた。
ソファの前のテーブルにはピンク色のマグカップが置かれ、その中には飲みかけのコーヒーがまだ少し残っていた。 俺は一瞬最初の仕事の時の事を思い出し、マグカップをそっとテーブルの隅へ追いやった。
ナナは俺のそんな仕草を不思議そうに見ていたが、俺が隣に座って肩を抱いてやるとにっこり微笑んで俺の目を見つめた。
ナナの細い肩に手を置くと、彼女の長い髪が俺の指をくすぐった。 俺は3ヶ月間このくすぐったい感触を味わえずに過ごしていた。 部屋の中は矢萩の家と違って心地よい気温に保たれていた。 でもすぐ側にナナがいると気温に関係なく体が熱くなるのが分かった。
電源の入っていないテレビの画面にはソファに座る俺たちの姿が映し出されていた。 テレビに映るナナの左手は無意識に自分の髪をなでていた。
「名前を変えるのは慣れてるよな?」
俺がテレビに映る彼女に向かってそう言うと、ナナも真剣な目をしてテレビに映る俺を見つめた。
彼女には恐らく名前に対する執着などなかった。 彼女には由利からナナへと名前を変えた過去があるが、最初の名前を付けたのは園長だったし、次の名前を付けたのは売春組織のボスだった。 そんな名付け親ばかりでは自分の名前に誇りを持てるわけがない。
「お前は今日からミキだ。分かったな?」
その時も彼女は俺に何も聞かなかった。彼女が自分の名前を変えることに対して異論がない事は分かりきっていた。
「私、ミキちゃんみたいになれるかなぁ……」
彼女はテレビに映る自分の姿を見てそう言った。彼女が昔の事を思い出しているのは明らかだった。

 彼女は園にいる頃いつも鏡と向き合って現実逃避をしていた。それは彼女のとっておきの1人遊びだった。
彼女は誰かが拾ってきた大きな鏡を薄汚れた子供部屋の壁に立てかけてその前に座り込む。 床は冷たいけれど、そんな事は全然気にする様子がない。 そして彼女は湿気の多いその部屋で鏡の中のミキちゃんとお喋りするんだ。
鏡の前に座り込んでいるのはたしかにナナだった。でも彼女にとって鏡に映る女の子は親友のミキちゃんだった。
ナナは鏡の前の自分と鏡の中のミキちゃんを一人二役で演じる。 でも当時の彼女は演じているとは思っていなかった。もしかして今でも彼女はミキちゃんの存在を信じているのかもしれない。
2人の女の子が話すのはたわいのない事ばかりだった。昨日見た夢の話とか、天気の話とか、好きな人の話とか。 それでも大親友の2人は延々と向かい合ってお喋りを続けていた。
鏡に映るミキちゃんの後ろにはロープに吊るされた洗濯物や傷だらけのドアがあった。 でもナナにはそれが全く別の物に見えていた。
「ミキちゃんのお部屋、カーテンが変わったね」
ロープにかけられた洗濯物の色が変わるたびにナナはいつも鏡の中のミキちゃんにそう言った。 ミキちゃんの家は金持ちだから、しょっちゅう部屋の模様替えをするんだ。
きっとそんな遊びは他の人から見ればバカみたいだったかもしれない。
でもナナには俺とミキちゃん以外に話し相手がいなかったんだ。きっと彼女は俺にも言えないような事をミキちゃんへ打ち明けていたに違いない。
ナナはとても優しいミキちゃんという女の子を自分の頭の中で作り上げていた。 彼女は子供なりに必死で自分の精神を保とうとしていたのかもしれない。

 彼女は他の皆と少し違う物を持っていた。人形のような灰色の目がそれだ。
ナナの灰色の目はいじめの恰好の材料になった。 園の子供たちはどこへ行っても人に見下されていて、きっとそのストレスを発散させる1番手っ取り早い方法が近くにいる人間をいじめる事だったのだろう。
髪を引っ張られたり、裸のまま外へ置き去りにされたり、食事を取り上げられたり。ナナは毎日毎日そんなひどい目に遭っていた。
俺は強い力で引っ張られた彼女の髪の毛がごっそり抜け落ちるのを何回見ただろう。 畑の隅に裸でうずくまる彼女の姿を何回見ただろう。 夜中に食堂の裏へ行って生ゴミをあさる姿を何回見ただろう。
俺が彼女の抜け落ちた髪の毛をかき集めて掃除した時。 裸でうずくまる彼女の背中に毛布を掛けた時。 少しでも食べられる物を探すために一緒になって生ゴミをあさった時。 あの時いつもナナは泣いていた。
あの頃ナナの泣き声を聞かない日はなかった。 ナナの目は涙を流すためだけに存在していたようなものだった。
ナナが突然園から去った後も、しばらく彼女の泣き声が耳について離れなかった。


 彼女はまだテレビに映る自分を不思議そうに見つめていた。 自分がミキちゃんと1つになる感覚は彼女にとって不思議そのものだったのかもしれない。
俺はもう彼女に昔の事を忘れてほしかった。由利やナナとして生きた自分をすっかり忘れてほしかった。 もう彼女が過去に戻る事は決してないのだから。
今は俺の隣に座っている人もテレビに映っている人もどちらも同じミキだ。 時間がかかってもいいから、彼女にはちゃんとその事を理解してもらいたかった。
「ミキ、どこか出かけよう」
彼女の肩に置く手に力を入れてそう言うと、ミキはやっと俺の顔を見てくれた。 彼女の灰色の目は渇いていた。その渇いた目の中に映っているのは俺だけだった。
ミキと呼ばれた彼女はとても嬉しそうだった。
俺たちはコートを羽織ってすぐに外へ飛び出した。

 繁華街へ行くとミキはその人の多さにまず驚いた。 都会の広い道路の両側には飲食店や本屋などがどこまでも続き、店の中にも歩道の上にも大勢の人たちがいた。
都会の人たちは歩く速度が早い。 後ろから追い越していく人たちが何度もミキにぶつかり、彼女の着ているベージュのハーフコートがそのたびに揺れた。
「なんだか人に酔いそう」
彼女は俺にぴったり寄り添いながら不安そうな声を出した。俺は彼女の歩幅に合わせてできるだけゆっくりと歩いた。
「ここは空が灰色だね」
次に彼女はビルの谷間の空を見上げてそうつぶやいた。
彼女は空を見ていたけれど、俺は彼女の目を見ていた。しばらくすると彼女はやっと俺の視線に気付いた。
「どうしたの?」
「今、ミキの目に映る空を見てた」
「え?」
「ミキの目は空の色と同じだね」
彼女はもう一度自分の目と同じ色の空を見上げた。そして長い髪を揺らしながら「この町が好き」と小さくつぶやいた。

 あてもなくブラブラ歩いて行くと、ミキはある店の前で突然立ち止まった。 そこは最近できたばかりの店らしく、店舗の白い壁の前にたくさんの花輪が並んでいた。
ミキは花輪の数を指折り数えながらゆっくりと店舗の前を歩き、最後にガラスの自動ドアの前へ行き着いた。
「何のお店かな」
ミキは中を覗いてそうつぶやいた後すぐにドアの前から立ち去ろうとした。 だけど俺は彼女の手を引いてすぐにその店の中へ連れて行った。
そこは携帯電話を取り扱う店で、壁一面の白い棚には所狭しと商品が並べられていた。 店内には客が10人くらいいて、皆それぞれが棚に並ぶ商品を見つめたり手に取ったりしていた。
「どれがいい?」
「買ってくれるの?」
俺と彼女の声が重なった。俺たちは顔を見合わせ、お互いに声を殺して笑った。
「何も聞くなと言っただろ?」
「そうだったね」
ミキはあまり商品を物色する事もなく、自分の1番近くにあった物を手に取ってすぐに「これがいい」と言った。
彼女はご機嫌だったが、俺は複雑な心境だった。
俺は明日から出張へ行く。きっとこれからもしょっちゅう家を空ける事になる。 俺がここへ来たのは彼女にプレゼントを贈ろうとしたわけではなく、離れている時の連絡手段として彼女に携帯電話を持たせるためだった。 でも、きっと彼女はまだそんな事を理解してはいない。
「お決まりでしたら、こちらへどうぞ」
髪をひっつめた若い女の従業員が近づいてきてそう言うので、俺たちは彼女の案内で奥のカウンターへ向かった。
従業員はカウンターの向こうに座って一通り商品説明をしていたが、ミキはそんなものには全く興味を示さなかった。
彼女はその時俺がカウンターの椅子に腰掛けて携帯電話の契約書を書くのを隣の席からじっと見つめていた。 契約者名は "二宮翼" それはもちろん彼女の知らない名前だ。
「免許書をお持ちですか?」
契約書を書き終えると、カウンターの向こうに座ってパソコンのキーボードを打ちながら従業員が俺にそう言った。
ミキは今度は俺が財布の中から免許書を取り出すのをじっと見つめていた。 免許書の写真は明らかに俺であり、名前の欄には "二宮翼" としっかり記述されていた。 彼女は黒いカウンターの上に置いた免許書を身を乗り出して覗き込んだ。

 白いボディーの携帯電話を受け取り、背中で「ありがとうございました」という声を聞きながらガラスのドアを出てもミキはしばらく何も言わなかった。
ただ外へ出てまた人の波に呑まれ、大きな本屋の前を通り過ぎた時、初めてポツリとこう言われた。
「翼ってかわいい名前だね」
それは道行く人たちのざわめきにかき消されてしまいそうな小さな声だった。
俺はいつかこの町を彼女と2人で歩きたいと思っていた。 上品な香りを漂わせて歩く都会の女たちに囲まれながら。
今、その夢が叶ったんだ。その時やっとその実感が沸いてきた。
1人でこの町を歩くのと彼女と2人で歩くのとでは周りの景色も自分の気持ちも全然違った。 空の色も都会の景色もいつもよりずっと色鮮やかに見える。 背の高いビルに圧倒されてしまうような事もない。
以前は彼女とこうして2人並んで歩いている時、周りにいる連中が皆幸せそうに見えた。 だけど今はそんなふうには思わない。 ブラブラと町を歩く人たちの中で1番幸せなのはきっと俺たち2人だ。俺は今確信を持ってそう言える。
少し遠慮がちに伸ばした手の先にはミキの小さな右手があった。遠慮せずにきつく握った彼女の手はとても温かかった。
ここはあのハキダメのような町とは違う。 次から次へと見えてくるのは都会的な景色ばかりで、俺たちの周りを歩く人たちは間違いなく都会の人間ばかりだった。
きっと夜の帳が下りても、この辺りにケバケバしいネオンは見当たらない。
「ねぇ、あれ何?」
大きな交差点に差し掛かった時、ミキが突然目の前に現れた白いタワーを指さした。 俺は彼女の目線を追いかけ、冬の空に向かって真っ直ぐに伸びるタワーを見上げた。
「上は展望台だな。きっとこの町が一望できるよ」
タワーの先端は尖っていて、そのすぐ上には薄い雲があった。 そしてほんの少し目線を落とすと窓ガラスが確認できた。そこが展望台だ。
「あそこへ行ってみない?」
ミキはそう言って俺の左手を強く握り締めた。それは彼女がこっちへ来てから初めて望んだ事だった。

 展望台へ行く高速エレベーターに乗り込んだのは俺たち2人と紺色のスーツを着た案内係の女だけだった。
ミキは終始笑顔だった。 エレベーターが動き出すと案内係があれこれ観光案内をしてくれたが、俺たちはそんなものに耳を傾けたりはしなかった。 俺たちは観光客ではなく、この町の住人なのだから。
エレベーターの中は壁の色も照明も暗かったが、展望台へ着いてドアが開いた瞬間にその効果が発揮された。
ドアの向こうの光が眩しくて俺もミキも思わず目を細めた。 エレベーターの中が暗いのは外の景色をより明るく見せるための仕掛けだったようだ。
ミキは子供のようにはしゃいでタイル張りの床を駆け出した。そして窓ガラスへ辿り着くとそこに引っ付いて離れなくなった。
そこから見下ろす都会の町はまるで小人の国のようだった。 俺は大きな怪獣が現れてビルや車を踏み潰す様子を想像してみた。
天気は快晴で、遠くの方の景色がよく見渡せた。 タワーから近い所にはビルが目立つが、少し目線を遠くへ向けると多少の緑が見えた。
「ねぇ、私たちのマンションはここから見える?」
ミキは少し暑いと感じたらしく、ベージュのハーフコートを脱ぎながらそう言った。
私たちのマンション。俺はその言い方がすごく気に入った。
「ここからじゃ見えないよ」
「じゃあ一周してみようよ」
俺が彼女のコートを持ってやると、身軽になったミキは飛び跳ねるように歩き出した。 途中ですれ違った3歳くらいの男の子に「ばいばい」と手を振る彼女の姿を後ろから見ていると本当に幸せな気分になれた。
展望台は360度の景色が見渡せるようになっていたので、俺たちはその後ゆっくりと歩きながら角度の違う景色を堪能した。 平日だったせいか展望台にはあまり人がいなくて、俺たちは静かに今を楽しむ事ができた。
時間を気にせず誰にも邪魔されずに彼女と過ごす時間は俺にとってすごく大切だった。

 エレベーターのちょうど裏側へ辿り着いた時、ミキは急に足を止めた。 窓ガラスの向こうを見つめる彼女の灰色の目には遠くの海が映し出されていた。
「海が見えるよ」
俺たちは2人して窓ガラスに張り付き、青い海を見つめた。
俺たちは今まで海水浴に行った事が一度もない。子供の頃から人並みな遊びなど全く知らずに育った。 でもこれからはどこへでも行けるし、なんだってできる。
「夏になったら泳ぎに行こう」
俺たち2人は真っ直ぐに海を見つめていた。でも俺がそう言うと隣でミキが微笑むのが分かった。
「ねぇ、観覧車」
海だけを見つめていた俺の目に、今日2度目の観覧車が映し出された。彼女の指の先。遥か遠くに今朝矢萩の家から見た観覧車があった。 俺は今までわざとそっちを見ないようにしていたんだ。
「あれに乗ってみたい」
「いつでも乗れるよ」
俺は窓ガラスに背を向けてそう言った。もう今日は観覧車を見たくなかったからだ。
「私、もう自由になれたんだよね?」
「うん」
「好きな時に好きな所へ行けるんだよね?」
俺は興奮気味な彼女の声を背中で聞いていた。自分の両手をじっと見つめながら。
しばらく忘れていたのに、また水族館の中で矢萩と交わした約束を思い出してしまう。 彼女に触れる自分の手がひどく汚れている事をまた思い出してしまう。
俺は自由を手に入れた。金も女も手に入れた。 でもそのために大きな物を失った。俺の手は汚れてしまった。この手に染み付いた汚れは二度と洗い落とす事ができない。 もう絶対に後戻りはできない。
きっとこの思いは一生付いて回る。 俺はいつも心配し、いつも緊張し、いつも警戒しながら生きていかなければならない。 きっといつどこへ行ってもこの思いに縛られ、決して解放される事はない。

   TOP  NOVELS  LONG STORIES  COVER  BACK  NEXT