月が見ていた  第1部
 20.

 翌日の金曜日。午後2時。
俺はすでにアジトに潜伏していた。ただしアジトといってもただのボロアパートだ。
屋根も階段もすっかり錆びているほとんど廃屋に近い木造2階建てアパートの一室。 朝9時に家を出てからずっと車を走らせてここへ辿り着いたのは午後1時頃の事だった。
擦り切れた畳の上に座り込んでとにかく待つ。今俺がやるべき事はそれしかない。
6畳の部屋には窓が1つだけあるが、黒いブラインドで外の光は閉ざされている。 ざらついた壁に寄り掛かって見つめる畳の上にはブラインド1枚1枚とその隙間から入り込む太陽の光とで縞模様の影ができていた。だがこの部屋にはその影以外に何もない。
膝をついてブラインドの隙間から外を覗くと、右下の方に青い屋根の家が見える。ここから見えるのはその家の裏側だ。
青い三角屋根のてっぺんには風見鶏。1階には出窓があって、2階には大きなバルコニーが付いている。
山の斜面に建つ青い三角屋根の家は1軒だけではない。家と家との間隔はかなり広いけれど、とにかくそこには似たような家が5軒も並んでいた。
だが1番左側の家以外は全部空家だ。近くから窓の中を確認して歩いても部屋の中には何もなかった。ただ日に焼けて色褪せてしまったフローリングの床が露になっているだけだ。
だが唯一買い手が付いた1番左側の家だけは違っていた。 1階の出窓の奥には柔らかそうなローソファがあるし、2階のバルコニーの向こうには大きなベッドと薄型テレビがある。 ここから見下ろすと部屋の中の様子は丸見えだった。
裏側から見ると5軒の家はほとんど区別がつかないほど似通っているが、正面へ回ると多少違った顔が見えた。 玄関のドアが少女趣味なピンク色だったり空色だったりと皆バラバラで、買い手が付いた家に至っては白い観音開きのドアになっていた。だがそれ以外はほとんど違いが見当たらない。
5軒ともそう大きな家ではないが、これらの家は最初の計画通りに事が進んでいればセカンドハウスとして最高の物件だっただろう。
だがこの辺りに造られるはずだったガーデンとゴルフ場は計画倒れになったらしい。 現在ここはまるで離れ小島のように寂れた土地だ。 夢のリゾートアイランド計画はバブルと共に消え去った。
この辺りは閑散としている。 山の斜面に数軒の家があるだけの土地に近づく者などまずいない。いつぞやの台風で山の斜面に植えられていた樹木が根こそぎ倒されたらしく、ここは緑の多い田舎という印象も薄い。そんな所ではドライブコースにもなり得ない。 月に何度か建物を管理している業者が空家のメンテナンスにやって来る以外人が立ち寄る要素が何もない。
このアパートの前も広大な土地がフェンスで囲まれているだけで何もない。 ただ枯れ草の上に大型ゴミが放置されているだけだ。
リゾートアイランド計画を聞きつけて唯一あの家を買った男はこの現状を目の当たりにして騙されたと思っているだろうか。 いや、きっとそうでもないだろう。62歳の家の主は毎週末ひと時の夢を見るために愛人と2人きりでここへやって来るのだから。

 ここは退屈だ。寒くて静かで、退屈極まりない。
今はまだ少しだけ部屋の中に太陽の光が入ってくるけれど夜は真っ暗な中で過ごさなければならない。 日が沈んでも明かりを点けるのは禁物だ。誰もいないはずのアパートに人が潜んでいる事を相手に気付かれては何もならない。
今夜は曇りの予報だし、月明かりすら頼りにならないかもしれない。 でも俺は暗闇が嫌いではなかった。だからそんな事は気にならなかった。
俺は頭の中でターゲットの情報を思い返していた。
今夜あの家に姿を見せる初老の男は相当な金持ちだ。 都会に大豪邸を持ち、国内と海外に合わせて30も別宅を持っているらしい。 恐らくそんな金持ちはつまらない物件を1つ掴まされた事くらいなんとも思わないのだろう。
世の中は不公平だ。一部の金持ちが何もかも根こそぎ持っていってしまう。この世はそういう仕組みになっているらしい。 でも、だからこそ金持ちを殺しても苦にならない。いつでも命を狙われるのは金持ちと決まっている。 どうせ殺すのならたらふく富を抱えているヤツの方がいい。そういう人間が死ねばそいつの独り占めしている財産が世間に出回りそうなものだから。

 俺は今日、リサーチの目的でここへ来た。最初の仕事の時も事前に二度リサーチへ出かけた。
ただ、今朝矢萩は「チャンスがあったら仕事を済ませて来い」と俺に言った。 言い換えれば「このくらいの簡単な仕事はさっさと片付けろ」という事だろう。 つまり、矢萩ならこの仕事を一晩で片付けられるという意味だ。
俺はまた試されているのかもしれない。 そんなプレッシャーをかけられたら、やっぱり今夜やるしかないだろう。
頭に入っている情報通りに事が進めば、今夜きっとやれる。
でも焦りは禁物だ。失敗は絶対に許されない。とにかく、いつも通り慎重にやるだけだ。


 真っ暗な部屋の中。ざらついた壁に寄り掛かってウトウトしていた俺は車が近づく気配を感じて目を覚ました。
暗闇の中でパッと目を開け、耳を車の音に集中させる。数秒後、俺は間違いなく今日のターゲットが側へやって来た事を確信した。
俺は体制を低くしたまま音もなくそっと窓に近づき、ブラインドの隙間に目を置いて右下の家の窓に明かりが灯るのを待った。 やがて車のエンジンの音が止み、しばらくするとまず1階の出窓の向こうが明るくなった。
柔らかそうなローソファには久しぶりに人工的な光が浴びせられた。そこへ2人の人間が腰掛けた時、俺は遂にその男の顔を見た。 趣味の悪いオレンジ色のセーターを着た白髪頭の男。そいつが今日のターゲットだ。
彼の隣にいる女は間違いなく愛人だろう。光沢のある白いブラウスに包まれた大きな胸とタイトスカートの下に伸びる細い足がここからはっきりと見える。 今夜仕事が完了するかどうかはこの女に懸かっていると言っても過言ではない。
俺は畳の上に放り出してある携帯を手に取って今の時刻をたしかめた。 暗闇の中で眩しく光る液晶画面には午後9時40分という表示が浮かんでいた。
俺は寒さを回避するために皮のハーフコートを羽織って再び窓の向こうを見つめた。 するとローソファに腰掛ける2人が缶ビールをぶつけ合って乾杯しているのが見えた。
俺はこれから何時間彼らの様子を観察する事になるのだろう。 その間緊張を保ち続ける事ができるだろうか。だけど今は、待つしかない。

 1階のローソファから2人の姿が消え、2階の寝室に明かりが点いたのは午後11時を回った頃の事だった。
それから5分後。白いバスローブを着た男がベッドに横になり、たばこを口にくわえて火をつけた。 男が口から吐き出すたばこの白い煙が俺の目にはっきりと映し出された。
女の姿が見えたのはそれから更に5分後の事だった。
女は何も身に着けておらず、濡れた長い髪を頭の上で1つにまとめ、ベッドの脇に立って男を見下ろしていた。
ベッドの上で2人が重なり合ったのはそれから5秒後の事だった。 床の上には男が脱ぎ捨てたバスローブが転がっている。それはどこかで見た事がある光景だった。
「最悪だな……」
男は大きく出っ張っている腹を華奢な女の腹に乗せ、彼女の濡れた髪を引っつかんだ。
きちんとまとまっていた女の長い髪がバラバラになって白いシーツの上に散らばる。 そして何かを叫んでいる女の喉によく日焼けした男の両手がからみつく。
とても見ていられない……
俺は目線を1階のローソファへ向けた。主人の去ったソファはとても退屈しているように見えた。 主人は週に一度しかやって来ないが、ソファよりもベッドの方がお好みらしい。

 2人がぐったりしてベッドの上へうつぶせになったのはそれから数分後の事だった。
男は思いを遂げるともう全く女に構う様子はなく、枕に顔を埋めて眠る体制に入っていた。
女の方は変な格好のままビクともしない。右腕はベッドの下へダラッと垂れ下がり、長い髪は乱れたままだ。 そして右足はかっこ悪く折れ曲がっているし、左足は真っ直ぐに伸びている。
俺はもしかして女が死んでしまったのかと心配した。女だけでなく男の方もそうだ。 2人は人工的な明るい光の下で死んだように眠っていた。 しばらく見ていても寝返りをうつ様子はないし、少しも体を動かす事はなかった。

 そのまま刻々と時間は過ぎていった。
午前3時。2人は相変わらずうつぶせになって眠っている。
男はいいとしても、俺は早く女の方に起きてほしかった。そうしないと仕事が始められないからだ。
この女は男が熟睡している間に家を抜け出して1人でドライブに出かける習性がある。 その後気分転換を果たした女は朝方何食わぬ顔をしてベッドへ戻るのだが、男の方は一度寝付いたらなかなか目を覚まさない性質で女がベッドを離れていた事にさえ気付かない。
矢萩が紙飛行機にして飛ばしたA4サイズの書類にははっきりとそう書かれていた。
外はまだ暗い。だが4時を過ぎると少しずつ空が明るくなってくるはずだ。 その前に仕事を済ませたい。だが、女はビクともしない。
俺がイライラしながら裸の女を見つめていたその時、突然真っ暗な部屋の中に携帯の着信音が鳴り響いた。
心臓が止まるかと思うほどびっくりした。 俺は部屋の中で鳴り響く音が窓の向こうの2人に聞こえてしまいそうな気がして、慌てて畳の上の携帯を掴んで耳にあてた。
「も、もしもし?」
自分の声が震えていた。俺は相手もたしかめずに電話に出てしまった。 でも、たしかめなくてもこんな時間に電話をしてくるのは矢萩くらいしかいないと勝手に頭の中で決め付けていた。
「もう寝てた?」
「ああ、お前か」
電話の向こうから聞こえてきたのはミキの声だった。 俺は脱力し、右手で心臓を押さえて気持ちを落ち着かせようとした。
「ごめんね、こんな時間に」
「いや、いいよ。まだ起きてたから」
俺は窓の向こうに横たわる2人から目を逸らさず、耳だけを電話に集中させていた。
「どうした? 眠れないのか?」
「うん。全然眠れなくて……」
ミキの声は少し掠れていた。 眠れない俺たちとは裏腹に、俺の目の前では2人の人間が熟睡していた。
「声が聞きたかったの」
「俺の声を聞くと少しは眠れそう?」
「うん。電話って便利だね」
ミキが電話の向こうでそう言った時、待っていた瞬間がやってきた。 死んだように眠っていた女がいきなり顔を上げ、ベッドの上に起き上がったんだ。俺は決して女の動きを見逃すまいとした。
「今日ね、美容室へ行ったの」
「ああ、そうなのか?」
「うん。髪を切ったんだよ」
女はベッドの上に座ったままで乱れた髪をまた1つにまとめた。 彼女は出かける用意を始めるだろうか。立ち上がってシャワーを浴びに行くだろうか。
「ねぇ、いつ帰って来るの?」
女は右手を口に当てて欠伸をした。 しかしベッドを下りる様子はなく、それどころか本格的に眠る用意を始めた。 女は壁に手を伸ばして部屋の照明を少しだけ落とし、それから枕に頭をつけてシーツにくるまったんだ。
「まだしばらく帰れないの?」
「ごめん。今日はまだ帰れそうにない」
今夜は空振りだ。
俺は電話の向こうのミキにそう言いながら窓を離れ、擦り切れた畳の上に横たわった。
女というヤツは気まぐれなものだ。思った通りに動いてくれないのが女というものだ。 俺は今まで様々な女の相手をしてきたからそういう事がよく分かっていた。 だから一度くらい空振りしても落ち込む事はなかったし、長期戦になる事も覚悟していた。
まぁ、しかたがない。今はミキにおやすみを言って少し寝よう。

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