月が見ていた  第1部
 21.

 俺はそのまま眠ってしまったらしい。ミキにちゃんとおやすみを言った記憶もない。
俺はブラインドの隙間から入り込む太陽の光と寒さで目が覚めた。その時俺が最初に 見た物はシミだらけの茶色っぽい天井だった。俺の左手はまだちゃんと携帯を握り締めていた。
1つクシャミをして縞模様の畳の上で寝返りをうつ。そして俺は自分がここへ何をしに来たのかようやく思い出し、ガバッと起き上がってブラインドの隙間に目を置いた。
するとそこからは俺が眠る前と全く同じ光景が見えた。 ベッドの上でうつぶせになっている男とシーツにくるまって横向きで寝ている女。朝の太陽はそんな2人を明るく照らし出していた。
俺はすぐに携帯の液晶画面を見て今の時刻をたしかめた。
午前8時20分。これから俺の長い1日が始まろうとしていた。

 まず先にベッドを抜け出したのは女の方だった。頭の上で1つにまとめられている彼女の髪には多少の乱れがあり、うなじに覆いかぶさる後れ毛までもがはっきりと見えた。
女は裸のままでベッドを下り、床の上に放り出されている白いバスローブを拾い上げて身にまとった。その瞬間に形のいい胸と腰から足にかけての綺麗な曲線が俺の視界から消え去った。
午前10時10分。やっと男が枕から顔を上げた。
女は1時間前にベッドを抜け出して1階へ移動し、ジーパンとセーターというラフな服装に着替えてソファに腰掛けていた。彼女は太陽の日差しを浴びながら何かの本を読んでいるようだったが、それがいったいどんな本なのか俺には分からなかった。

 男が目覚めた後は2人とも1階の部屋で時間を過ごしていた。
男は落ち着きがなく、ソファへ腰掛けていたかと思うと突然立ち上がって俺の視界から消え、またすぐに戻ってくるのを何度も繰り返した。
男の右手には携帯が握られていて、彼は電話が鳴り出すたびにどこかへ移動してその相手と話をしている様子だった。
趣味の悪いオレンジ色のセーターは俺の目の前を何度も行き来した。 だが女は男のそんな行動に全く興味がないらしく、ただソファに腰掛けてぼんやりしているようだった。
午前11時20分。2人は車で出かけた。
だが寝室のベッドは乱れたままだったし、女がついさっきまで読んでいた本はソファの上に置きっぱなしだった。俺は彼らが再びここへ戻ってくる事を確信していた。
この辺りは静かだから、外へ出てきた2人分の靴音がちゃんと俺の耳に届いた。その靴音が消えた後はすぐに車のエンジンの音が聞こえてきたが、それはしだいに遠ざかっていた。
「はぁ……」
走り去る車の音が聞こえなくなると、俺は縞模様の畳の上に仰向けになってきつく瞬きするのを何度も繰り返した。
天井のシミが涙で滲む。彼らの動きを見逃すまいとしていた俺の目は終始緊張し、だいぶ疲れていた。
だが、まだ夜はやって来ない。しかも夜になって男が熟睡したからといって女がベッドを抜け出し1人でドライブに出かけるという確証はない。データとは、所詮その程度のものだ。
「殺し屋って、もっとかっこいいものかと思ってた」
俺は両手で目を擦りながら独り言をつぶやいた。

 午後2時30分。2人はようやく戻ってきた。恐らく隣町へ行って昼メシを食って来たのだろう。
それから2人はのんびりとした午後の時間を過ごしていた。
女がソファに腰掛けると、男は彼女の太ももを枕にして機嫌良さそうに微笑んだ。 太陽に透ける白い髪も目尻に刻まれた年輪も俺の目にはっきりと映し出されていた。
女の方はそんな男を見下ろして何やら話しかけている。セーターの袖口から見える女の手首には金色のブレスレットが輝いていた。 彼女が手を動かすと時々ブレスレットに太陽の光が反射して俺の目に突き刺さった。
2人にとっては静かな休日の午後。だが俺にとっては最悪な午後。
日当たりのいい部屋でくつろぐ2人は自分たちが監視されている事になど気付きもしない。 そしてもう二度とこんな時を過ごせなくなるなんて思いもしない。
男は時々彼女の頬に手を伸ばしてキスを求める。よく見ていると女は3回のうち1回はそれをうまくかわしている。
彼女は彼が死んでもあまり悲しまないかもしれない。俺はその時漠然とそんなふうに思っていた。


 彼らの夜は長かった。2人とも前の晩ぐっすり眠ったせいだろう。 2日目の夜、彼らは夜遅くまで酒を飲んでいた。
女の方はソファに寄り掛かってフローリングの床に座り、缶ビールを片手にとにかく喋り続けていた。 そして男の方はソファに寝そべって彼女の髪をなで、ずっと聞き役に徹しているようだった。
女の足元には封を切ったスナック菓子が4つも5つも置かれていて、その横にはビールの空缶が数え切れないほど散乱していた。 そして2人が寝室へ移動する様子は全く見られなかった。

 午前1時を回った時、俺はもう今日は無理だと判断した。
彼らは午後9時頃から酒を飲み続けていた。もう2人とも体中にアルコールが回っているだろう。 そんな状態で女がドライブに出かけるとはとても考えられなかった。
「また空振りか……」
俺は窓から離れ、小さなボストンバッグの中から手探りでミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。 その中身を喉へ流し込むと、真っ暗な部屋の中にゴクゴクと喉の鳴る音が響いた。
いったい彼らはいつになったら眠ってくれるだろうか。
今夜はもう仕事にならない。だがそう判断したところで今すぐここを飛び出して帰るわけにはいかない。 いくら酔っているとしても、俺が車にエンジンをかければその音は必ず彼らの耳に届くだろう。
誰もいないはずのこの場所でいきなり人の気配を感じたら彼らが変に思うのは目に見えていた。 だが今は絶対におかしな気配を感じさせてはいけない。
今がダメでもいずれはターゲットに死んでもらう事になる。 相手に妙な警戒心を与えては仕事がやりずらくなるだけだ。そんな事は絶対に避けなければならない。
いずれにせよ、彼らが熟睡するまではここにいなければならない。 本当は早く帰りたいけれど、我慢するしかない。
俺はミキの温もりが恋しくてたまらなかった。2日もの間ずっと彼らのイチャついている姿を見せつけられていたからだ。

 俺はミネラルウォーターを飲み干した後、またブラインドの隙間に目を置いた。
すると2人の姿が見えない事に気付いた。1階のローソファの前には封を切ったスナック菓子がそのまま置かれ、ビールの空缶がいくつも転がっていた。だがそこに2人の姿はない。2階の寝室も真っ暗なままだ。
「どこ行ったんだろう……」
俺が独り言をつぶやいた時、2階の寝室にパッと明かりが灯った。 ベッドは乱れたままだった。2人が今朝起きた時のままだ。
寝室が明るくなると、そこにすぐ2人が現れた。 俺はまた2人がベッドの上で戯れるのを見せ付けられるのかと思ってうんざりしたが、そうではなかった。
彼らはやはり酔っていたんだ。男の方はベッドの端に腰掛けてセーターとズボンを脱ぎ、下着姿でさっさと布団をかぶってしまった。女の方も似たようなもので、洋服を脱いだ後青いガウンのような物を羽織ってやはり布団をかぶった。男は仰向けで寝ていたが、女は男に背を向けて寝ていた。
俺は2人が動かなくなるまでずっと見守るつもりだった。 恐らく1時間もすれば2人は深い眠りに陥るだろう。そうすればやっと車に乗って帰れる。
早く温かい部屋へ帰りたい。俺は逸る気持ちを抑えてじっと窓の向こうの2人を見つめていた。

 彼らがベッドに入って1時間と20分が経過した。
2人は全く動かなくなった。そろそろ車にエンジンをかけてもいい頃だ。 彼らが眠っているうちに、明るくならないうちにここを離れよう。
俺は窓から離れ、暗闇の中で立ち上がった。 だが立ち上がった瞬間にフラついた。ずっと真っ暗闇の中にいたせいか平行感覚が狂っていたようだ。 それにずっと緊張していたし、今日はろくにメシも食っていなかった。
しかもずっとブラインドの小さな隙間から一点を見つめていたせいで視野が狭くなり、目がひどく疲れていた。 俺は真っ直ぐに立っていられなくて思わず壁に両手をついてしまった。
「まいったな」
畳の上にしゃがみ込み、再び何気なくブラインドの隙間に目を置くと窓の向こうの状況が一変していた。
俺が見た時、下着姿の女が床の上に立ってセーターを着ようとしていた。 彼女が羽織っていた青いガウンはベッドの上に無造作に置かれていた。
やがて彼女は寝る前と同じようにセーターとジーパンを身につけ、ピクリともせずに眠っている男の顔を上から見下ろした。
そしてすぐに彼女の姿は見えなくなった。俺は静かな部屋の中で高鳴る心臓の音を聞いていた。
だがやがてその音は外へ出てきた女の靴音にかき消され、その靴音も車のエンジンの音にかき消された。
俺は耳で遠ざかる車の音を聞きながら目はじっとベッドに取り残された男を見つめていた。

 車が走り去って10分が経過した。
もう俺の耳には何も聞こえない。そして俺の目には相変わらずベッドの上で眠る男の姿が映し出されている。
そろそろ行くか。
俺は両手に皮手袋をはめ、もう一度暗闇の中で立ち上がった。 不思議な事にもう二度とフラつくような事はなかった。
足の裏に擦り切れた畳の感触を味わいながらボロアパートの玄関へ向かう。 靴を履いた後手を伸ばして歪んだ木の扉をそっと押すと、ギシッと軋むような音がした。
外の空気を味わうのは久しぶりだった。夜の凍てついた風が俺の前髪を揺らす。
扉の向こうにはフェンスに囲まれただだっ広い土地。 そしてフェンスの向こうには大型ゴミの山が見えた。
外へ出るとまず最初に夜空を見上げた。その時、雲の切れ間から半分だけ顔を出している月と目が合った。
俺はアパートの裏手に回って山の斜面を駆け下りた。
ズボンの後ろのポケットにはおもちゃのような拳銃。そして前ポケットに透明な液体を詰め込んだ注射器をしのばせて。

 ターゲットが眠る家の前へ着くと、俺はまじまじと観音開きのドアを見つめた。
寂れた土地にある建売りの小さな家なのに、玄関のドアだけはやたらと高級感がある。 夜の闇の中でもその重厚なドアはピカピカと光っているように見えた。 この家の持ち主は金持ちだから、こんなドアを取り付けて他の家と差別化を図ろうとしたのだろうか。
「やるならここしかない」
俺は矢萩にそう言われていた。 ターゲットの本宅はセキュリティが万全で猫1匹近づけないという。 その他の別宅にしても同じだ。矢萩の調べではここの主が持っている別宅は普段使わないからこそ尚更厳重に管理しているという事だった。 それなのに、ここだけは信じられないほど隙だらけだ。
誰もいない寂れた土地の小さな家。彼にとっては、ここが本物の隠れ家なんだ。 ここで愛人と過ごす時間が彼にとって至福の時なんだ。
ここでは誰の目を気にする事もなく好きな女とゆったりした時間を過ごせる。カーテンも引かず、電気もつけっ放しでいられる。 いつだってここに来るのは2人だけときまっているのだから。
だけど、ちょっと油断しすぎだね。
俺はコートの内ポケットからこの家のマスターキーを取り出した。 彼らがここへ来る前に試してみたから、俺はこの鍵でドアが開く事をちゃんと知っていた。
マスターキーを鍵穴へ突っ込むと、カチ、と小さな音をたてて鍵の開く音がした。 俺はその音をたしかめた後すぐにまた鍵を内ポケットの中に入れ、それからゆっくりと観音開きのドアを引いた。
狭い玄関へ入ると、暗闇に目が慣れるまでじっと待つ。 数秒後、俺は細い廊下をまっすぐに歩いて奥の階段へ向かった。
ここはあまり建てつけが良くない。2階へ上がる木の階段は1段上がるごとにギシギシと音をたてた。
やっと2階へ辿り着いた時、俺は1つ大きく深呼吸をした。
暗闇の中、ポケットから例の注射器を取り出す。そして、いつでも銃を取り出せるようにその位置をポケットの上から確認する。

 俺は左手にあるドアをゆっくりと開けた。すると廊下に細い光がなだれ込んできた。
ベッドに目をやると、煌々と光る明かりの下で男が眠っていた。 彼はものすごく大きないびきをかいていた。 なるほど。いつも夜中に女が抜け出すのは、きっとこのいびきを回避するためなんだ。
それにしても、不用心だな。
たらふく富を抱えた金持ちが失脚するのを待っている人間はゴマンといる。 なのに大酒を浴びた後明るい部屋で両足をベッドの上に投げ出し、いびきをかいて眠るなんて、不用心にもほどがある。
俺はその部屋にアパートの窓から見えなかった物を発見した。 ベッドの横には小さな棚があり、そこには雑誌や小説などが詰め込まれていた。そしてその奥には大きな姿見があって、その裏側はクローゼットになっているようだった。 寝室は思っていたより奥行きがあって広かった。だけど週末しか使われていないだけあって最低限の物しか置かれていなかった。
ベッドの上でいびきをかいている男がこの家のセキュリティに無頓着なのは、きっと盗まれて困るような物が何もないからだ。
俺は3歩前へ進み出てベッドの脇に立った。男は人が近づく気配に全く気付いていない。 ただ大きなベッドに仰向けになり、大口開けていびきをかいている。
真っ白な髪は煌々と光る明かりに照らされている。 目尻に刻まれた皺は多少老いを感じさせるが、よく日焼けした褐色の肌は艶がいい。
こんな季節に日焼けしているという事は、この人は暖かい土地へ行く機会が多いのだろう。
部屋の中は暑くもなく寒くもなく、ちょうど心地いい気温に保たれている。 俺が潜んでいたボロアパートとは大違いだ。
彼は胸まで薄い布団をかぶっていた。腹が出っ張っているため、胸の下あたりは布団がもり上がっている。 そしてもっと下の方には毛むくじゃらなふくらはぎがあった。都合のいい事に左のふくらはぎだけが布団からはみ出していた。
白いシーツの上に真っ黒な足が1本。これは、おあつらえ向きだ。
俺は仕事を行う際、部屋の明かりを消そうかどうしようか迷った。
万が一仕事の様子を誰かに見られたらもうアウトだ。 だけどここはできる限り自然な状態にしておきたかった。 女が戻って来た時、ここへ第三者がやってきた気配を悟られるのはまずい。 男はあくまで自然死したように見せかけなければならない。
だが面倒な事に、白い壁に取り付けられている電気のスイッチは左右に回して明るさを調節するタイプの物だった。 一度スイッチを動かしてしまったらもう二度と今と同じ明るさに調節する事は不可能かもしれない。
女というヤツは妙に鼻が利くものだ。ほんのちょっとの異変に気付いてここへ誰かが侵入した事を悟るかもしれない。 俺はそっちのリスクの大きさを考え、この部屋を覗いている人間がいない事に賭けた。

 皮手袋をはめた手で注射器を持つ。
不思議と俺は落ち着いていた。手が震えるわけでもないし、心臓がドキドキするわけでもない。
「恐らくこの男は虫に刺されても気付かずに眠り続けるだろう」
頭の中に矢萩の声が響いた。
俺はもう迷わず、何も考えず、白いシーツの上に投げ出されたふくらはぎに注射針を突き刺した。

 矢萩の言う通りだった。
ふくらはぎに注射針が刺さってその中の液体が体に吸い込まれても男はピクリともしなかった。 彼は相変わらず大口開けていびきをかいている。
これで本当に男は死ぬのだろうか。一瞬そう思ったが、ぐずぐずしてはいられない。
俺はゆっくりと後ずさりした。部屋の中にはまだ男のいびきが響いている。彼はまだ、ちゃんと息をしている。
だが俺が後ろ手にドアの取っ手を掴んだ時、突然大きな音が部屋中に響き渡り、定期的に聞こえていた男のいびきがかき消された。
その時はさすがに驚いて口から心臓が飛び出しそうになった。
プルルルと鳴り響く大きな音は携帯の着信音だった。俺はその音がいったいどこから聞こえてくるのか全然分からなかった。
早くここから立ち去らなければ。耳をつんざくほど大きな着信音に気付いて男が目を覚ますかもしれない。 もしも彼が死ななかったら……それを考えると今ここで顔を見られるのは非情にまずい。
俺は素早く部屋を出てドアを閉めた。 だけど明るい部屋から急に真っ暗な廊下へ出ると周りがよく見えなかった。
ドアの後ろではまだ携帯の着信音が鳴り響いている。
暗闇に目が慣れてほんの少し階段のシルエットが見えた時、俺はすぐにそこを駆け下りた。

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