月が見ていた  第1部
 22.

 心臓のドキドキが治まるまで、どのくらいの時間がかかっただろう。
俺はまだ夜の明けない空の下、皮手袋をはめたままの手でハンドルを握っていた。 皮手袋に包まれた両手はびっしょり汗をかいていたが、手袋をはずす知恵さえ思い浮かばなかった。
ほとんど外灯のない一車線の道。左右に見えるのは暗闇だけ。そんな中をしばらく走り続け、初めて対向車とすれ違った時、やっと少し冷静さを取り戻す事ができた。
俺は車のライトに照らされるでこぼこなアスファルトの道を漠然と見つめながら、自分が今どうしてここにいるのかを思い返してみた。
頭の中に明るい部屋のベッドでいびきをかいている男の姿が浮かぶ。 真っ白な髪が人工的な明かりの下で光り、大口開けて眠っている男の姿だ。
白いシーツの上には布団からはみ出している日焼けしたふくらはぎがあった。俺は間違いなくその真っ黒な足に注射針を突き刺した。
仕事は完璧にやり遂げた。だけど、その後が良くない。 携帯の着信音に驚いてこんなにもドキドキするなんて、どうかしている。
俺は仕事をやり遂げた後の自分の行動を振り返った。
真っ暗な階段を駆け下り、1階の廊下を走り抜け、狭い玄関でスニーカーを履き、そして俺はちゃんと観音開きのドアに鍵をかけただろうか。
コートの上から内ポケットを触ってみると、そこにちゃんとあの家の鍵があるのが分かった。
大丈夫だ。俺はきっとドアに鍵をかけた。俺は自分にそう言い聞かせた。
あの家を飛び出し、山の斜面を駆け上がった時は何度も石ころにつまづきそうになった。 俺はあの時相当慌てていた。
でも、大丈夫だ。助手席のシートの上には俺が持って来たボストンバッグがあるし、連絡用の携帯もバッグの上に乗っかっている。
俺は仕事を完璧にやり遂げ、忘れ物もせず、ちゃんと車に乗ってアジトを離れた。 絶対に抜かりはない。大丈夫だ。

 だんだんと空が明るくなり、都会の町が近づいてくるとほっとした。空には雲が少ない。今日はいい天気になりそうだ。
午前6時を過ぎた頃にはもう外はすっかり朝の景色に変わり、すれ違う車の数も少しずつ増えてきた。
道の両側にマンションや一軒家が増えてくると、犬を連れて散歩している人やジャージ姿でジョギングしている人を何人も見かけた。
ああ、そうだ。今日は日曜日だった。会社は休みだ。
俺は犬を連れてのんびりと歩く中年の男を見てその事に気付いた。 そして俺は空き地に車を止めて矢萩に電話をかけた。いくらなんでも今日は会社へ出て来いと言われたりしないだろう。 だったら、やるべき事は早めに済ませてしまいたかった。
「もしもし」
矢萩は相変わらず1回目の呼び出し音が鳴り終わる前に電話を取った。いつも通り、最初だけ彼の声は緊張していた。
「俺だよ。仕事は片付けた。車を乗り捨てたら家へ帰って寝るよ」
「ご苦労だったな」
そう言う時の矢萩の声は、もうリラックスしていた。
「たいした事ないよ」
「元気そうじゃないか」
「うん、元気だよ」
「じゃあ、一眠りしたらちょっと出て来てくれ。今日は退屈なパーティーがあるんだよ」
「はぁ?」
パーティー。そんな聞き慣れない単語を聞くとこめかみにズキンと痛みが走った。 今日はせっかくミキと2人でゆっくりしようと思っていたのに……
矢萩は俺の思いを知ってか知らずか、滑らかな口調でこう付け足した。
「夕方6時にRホテル。会場は最上階のホールだ。ちゃんとスーツを着て来いよ」
「何だよ、パーティーって……」
「ボスの古くからの知り合いが娘の婚約パーティーを開くのさ」
「そんなの行きたくないよ」
「これも仕事だ。うまいメシが食えるから、彼女と2人で来い。じゃあな」
矢萩はいつものように言いたい事だけ言って電話を切ってしまった。
1つため息をついて前方に目をやると、鉄骨で四角く囲まれた土地の前に "マンション建設予定地" と書かれた看板が光っていた。
「まぁ、いいか」
俺は看板に向かって独り言をつぶやいた後、また車を走らせた。
俺は矢萩にミキを紹介したかった。でも彼はミキに会いたくないと言った。 でもさっきの言い草だと、矢萩もその退屈なパーティーに招待されているようだった。 これは矢萩にミキを紹介するチャンスだ。
俺はこの仕事を引き受けた時から覚悟を決めていた。 仕事をしくじった時、自分が命を落とす危険性は十分にある。 その時のために、ミキの事を矢萩によく頼んでおきたい。
俺には他にそんな事を頼める人がいなかった。矢萩なら、きっと俺が死んだ後もミキの面倒を見てくれる。俺はそう信じて疑わなかった。

 しばらく車を走らせると、大きな交差点に差し掛かった。 信号が赤だったので、俺はゆっくりとブレーキを踏んだ。
俺の右横に止まった車は紺色のRV車だった。そのボディは朝日が当たってピカピカと光っていた。 ハンドルに手を置きながらその助手席の窓を見上げると、そこから真っ白い大きな犬が顔を出してパチパチと瞬きしながら俺を見下ろしていた。
仕事の報酬で車を買おう。
耳がピンと立った賢そうな犬と目が合った時、俺はそう決意した。

 俺の頭の中に桁の多い数字が浮かぶ。
経理のデータが入ったCD。いつだったか俺は矢萩にそれを受け取り、その中身を見てじっくり会社の実態を調べた。
俺の親父は頭のいい人だったらしい。親父はもしかして自己資金ゼロの状態で会社を興したのかもしれない。
親父が決めた人間の命の値段。それは1億だ。
殺しの依頼主は最低でも1億という大金を用意しなければならない。 だがそのくらいの金を自由に動かせる人物は意外に多いという事なのかもしれない。
矢萩は仕事の報酬については何も語らなかったが、俺はちゃんと知っている。 俺の仕事の報酬は一度で5千万だ。依頼主が用意した残りの5千万は企業への貸し付け金に回される。 親父はずっと昔からこうして報酬の半分を客へ貸し付けしていたようだった。
ウイングファイナンスは企業へ貸し付ける際の審査が甘い事で有名だ。 親父は回収が危うい企業へもわりと簡単に貸し付けを行っていた。 周りの連中から見れば、親父の仕事ぶりは冒険に見えたかもしれない。 でも、親父はそうやって会社を大きくしていったに違いない。
それはまるでボランティアに近かった。ウイングファイナンスは傾きかけた企業の駆け込み寺のような物だ。 実際、そんなふうに貸し付けした額の4割が回収不可能になっている。 だけど親父はそれでも構わないと思っていたのだろう。残りの6割はすべてが利益なのだから。
それらの貸し付け金は元々依頼主のポケットから出ている。全額回収できなかったとしても こっちの腹は痛まない。 その金を使って多くの連中に恩を売っておけば、彼らはいつか自分の役に立ってくれる。 親父はきっとそう考えたに違いない。 人の家の鍵が簡単に手に入れられるのも、全国各地にアジトを用意できるのも、協力者があっての事だ。俺にだってそのくらいの事は分かる。
矢萩が俺に預けた極秘データはその金の出所を暗号化した物だ。 あのデータを握っている限り、一度でも殺しの依頼をした人間は決して俺たちを裏切る事はできない。 殺しの実行犯がこっちにいたとしても、金を積んでそれを依頼した人間もやはり同罪だからだ。
人を殺して稼いだ金を使って英雄を気取り、人助けするような顔をしながら相手を利用する。 俺の親父はそんなヤツだ。
人を殺して稼いだ金で車を買おうとしているのが今の俺。
やっぱり血は争えないという事なのだろうか。


 家へ帰ったのは午前8時だった。
玄関へ入るとすぐにコーヒーの香りが鼻をつき、それは自分が1人じゃないという事を再確認した瞬間だった。
下駄箱の上には見た事もない花瓶が置かれ、その中には白い花が10本くらい飾られていた。 だけど今は花の香りよりコーヒーの香りが俺をほっとさせた。
廊下を真っ直ぐに歩いてリビングへ行くと、ピンク色のパジャマを着たミキがキッチンから顔を出した。 腰のあたりまで伸びていた彼女の髪は、肩の少し上あたりで綺麗に切り揃えられていた。
「帰って来てくれたの?」
彼女はいつもそうしているように俺の肩に両手を回して抱きついてきた。 きつく抱き寄せた彼女の髪はほんのり甘い香りがした。
少し前まではこうしているのがつらかった。彼女がまだナナだった頃、この瞬間は刹那な幸せでしかなかった。
「髪を切ったんだろ? もっとよく見せて」
俺がミキにそう囁くと、彼女は俺の肩に回していた両手をそっと離し、少し頬を染めながら探るような目で俺を見上げた。
よく見ると彼女の柔らかい髪は淡い茶色に染められていた。 そして透き通るような灰色の目は朝日を浴びてキラキラと輝いていた。
幼い頃彼女を苦しめた人形のような灰色の目。でも、俺はちゃんと知っている。 彼女をいじめた連中はこの綺麗な目に嫉妬していたんだ。 自分たちが絶対に手に入れられない物を彼女が持っているから、悔しくてたまらなかったんだ。
「前よりかわいいよ」
俺はいつもこんなふうに言って灰色の目を手に入れた。
俺は皆より少し賢かっただけだ。俺だけはこの灰色の目を手に入れる簡単な方法を知っていた。 ただそれだけの事だった。
「ありがとう」
彼女の透き通る目が微笑んでそう言っていた。
俺はその目に見とれ、数時間前に人を1人殺してきた事などもうすっかり忘れていた。

 「お腹すいてない? ご飯食べる?」
ミキはそう言ったが、俺はとにかく柔らかいベッドで眠りたかった。 ボロアパートではほとんど眠らずに窓の外を見ていたし、わずかに眠った場所は擦り切れた畳のベッドの上だった。
俺は風呂にも入らずすぐに寝室へ行き、洋服を脱ぎ捨ててさっさと布団に潜り込んだ。
枕に頭を乗せて仰向けになり、ゆっくりと目を閉じたが、窓から入り込む朝日がひどく眩しかった。 でもミキがカーテンを引くシャーッという音が聞こえた後、ちゃんと目の前が真っ暗になった。 気を利かせてカーテンを閉めてくれる人が側にいる事は素晴らしい。
「こっち来て」
俺はすでに目を開ける元気がなかった。でも彼女は俺の言う事をちゃんと聞いてくれた。
数秒後。ベッドが軽く揺れた後すぐ隣に彼女の気配を感じた。 柔らかいベッドと彼女の温もり。これさえあれば安心して眠る事ができる。
「俺が眠るまで側にいて」
そう言った時、すでに頭の半分は眠りに就いていた。だけどミキはすぐに俺を寝かせてはくれなかった。
「ねぇ……何も聞くなと言うけど、私にも知る権利があると思うの」
彼女はきっと俺のすぐ側で囁いていた。でも意識が朦朧としている俺にはその声がとても遠く感じた。
「翼は何をしてるの?」
その声は更に遠く感じた。
「ここの家賃や食費はいったいどこから出てるの? 何か危ない事をしてるんじゃないの?」
「俺、ちゃんとした会社で働いてるんだよ。今日社長に会わせてやる。そうすれば安心だろ?」
「社長さんに?」
あまりにも激しい睡魔に襲われ、話す口が重かった。
ミキはその後何か言ったのかもしれないが、俺の耳はもうすっかり機能しなくなっていた。

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