月が見ていた  第1部
 23.

 目が覚めた時、もうカーテンの向こうに太陽の眩しさは感じられなかった。
寝室を抜け出してリビングへ行くと、今度はミキがソファに腰掛けてウトウトしていた。
音が小さく絞られているテレビに目をやると、画面の左上の方に16:10という表示があった。 その時はグルメ番組が放送されていて、アップになった鍋料理が食欲をそそった。
ガラスの壁の前に立って空を見上げると、黒い雲が一面に広がっていた。 朝は晴れていたのに、今は雨が降り出しそうな気配だった。

 「ミキ、用意して。出かけるよ」
俺はソファでうたた寝する彼女に声をかけた。
彼女は立ち上がって小さく欠伸をした。 もう外は暗くなりかけていて、テレビのチカチカする光がネオンのごとく彼女の顔を照らしていた。
「どこ行くの?」
彼女はぼんやりした目で俺を見つめた。俺は今夜のパーティーの事をまだ彼女に説明していなかったのを思い出した。
「うまいメシを食いに行こう。それから社長に紹介するよ」
俺はそれだけしか彼女に伝えなかった。俺も矢萩に言われたパーティーの事をそのくらいにしか認識していなかったからだ。
「この格好でいい?」
ミキはトレーナーにジーパンというスタイルだった。
俺は別にそれでも構わないと思ったが、そういうわけにもいかないので彼女にタイトなベルベットのワンピースを着るように勧めた。

 タクシーに乗ってRホテルの前へ着いた時、俺は今夜のパーティーがかなり盛大なものであるとすぐに気がついた。
俺たちの他にもそれらしい服装をした人たちが次々とホテル前でタクシーを降り、そのたびにドアボーイが忙しく動き回っていたからだ。
Rホテルは真新しい高級ホテルだった。 入口の回転ドアの横にはホテルの名が刻まれた石碑があり、それはオレンジ色の光でライトアップされていた。
ゆったりとしたロビーへ入ると右手にヨーロッパ風なソファが並び、高い天井を見上げるとシャンデリアがキラキラと輝いていた。 大理石の床の上を歩くと、人々のざわめきと共にミキのハイヒールの音がロビーにこだました。
「ねぇ、こんな所でご飯を食べるの?」
ミキは落ち着かない様子で不安げに辺りを見回していた。
エレベーターへ向かって歩く人たちは金持ちそうな連中ばかりで、俺たちはその場にどうにも不似合いだった。
「私、帰りたい」
「いいよ。社長に会ったらすぐに帰ろう」
ミキは力なくうなづいた。彼女はエレベーターに乗って最上階へ着くまで俯いたままだった。


 パーティー会場は思ったよりずっと広かった。
俺たちが会場へ着いた時は午後6時を少し過ぎていた。そのせいか、60代くらいの男が少し高くなっているステージの上に立ち、マイクに向かって何やらスピーチを始めていた。
「今夜はお忙しい中お集まりいただきましてどうもありがとうございます」
マイクを通したその声は広い会場全体に響き渡っていた。 ステージは遠くてよく見えなかったが、その真ん中に金色のびょうぶが置かれている事だけはよく分かった。
会場には丸テーブルがいくつも並べられ、その上にはでかい皿に乗ったオードブルと白い取り皿が用意されていた。どうやら今日は立食パーティーのようだ。
各テーブルの周りには招待客たちが大勢いた。 女たちは赤や黄色のドレスをヒラヒラさせていて、まるでそこいらじゅうに花が咲いているかのようだった。 そこにいる人たちはグラスを片手に持ち、皆一様に遠くのステージに注目しているようだった。
「翼、遅かったな」
どうしたらいいのか分からず入口付近で立ち尽くしていると、中本さんが俺たちを見つけて声をかけてくれた。 彼はシャンパングラスを手に持ち、いつも通りにこやかに微笑んでいた。俺は彼の顔を見てほっとした。
だが中本さんは俺の事は一瞬見ただけで、すぐにミキに注目した。
「あなたがミキさん?」
「え?」
ミキは突然見知らぬ人に名前を呼ばれ、当惑している様子だった。 彼女はなんと答えていいのか分からず、俺の顔を見上げた。彼女は何も知らないのだから、戸惑うのも無理はない。
「紹介するよ。副社長の中本さんだ」
俺がミキにそう言うと、中本さんはさっと名刺を取り出して彼女に手渡した。 ミキはしばらくその名刺を見つめ、やっと安堵の表情を見せて中本さんにしっかりと挨拶をした。
「こんばんは。ミキです」
中本さんは持っていたグラスを近くのテーブルの上に置き、俺に初めて会った時と同じように両手で彼女の手を握ってにっこり微笑んだ。
「中本です。よろしく」
ミキは紳士的な彼が俺の上司と知って安心したようだった。中本さんの笑顔には人を和ませる力があるようだ。

 高い天井にはロビーと同じように豪華なシャンデリアがぶら下がり、床には柔らかいカーペットが敷き詰められていた。 ミキが着ている紺色のベルベットのワンピースはシャンデリアの光が当たって時々白く光っていた。
会場の中には相変わらずマイクを通して話す男の声が響いていて、大勢の招待客はまだその声の主に注目していた。 だが俺たち3人だけは会場の片隅で立ち話をしていた。
しばらくすると黒服に蝶ネクタイという出で立ちの若いウエイターがグラスを乗せたトレイを持って俺たちに近づいてきた。 銀色のトレイにはシャンパンの入ったグラスやジュースの入ったグラス等が並んでいた。 すると中本さんはすかさず2つのシャンパングラスを掴み、それを俺とミキに手渡した。
「中本さん、酒はやばいよ」
俺はそう言って受け取ったシャンパングラスをトレイに戻したが、中本さんは再びそのグラスを俺に持たせた。
「弁護士が未成年に酒を勧めるなんて……」
俺が呆れ顔でそう言うと、彼は苦笑いをした。
「お前、意外と保守的だな。酒くらいどうって事ないさ。それとも俺を訴えるか?」
中本さんのその声は途中でかき消された。突然会場内に怒涛のような拍手が巻き起こったからだ。
ステージに目をやると、金色のびょうぶの前に水色のドレスを着た女とタキシード姿の男が立っていた。 俺はその時やっとこれが誰かの婚約パーティーである事を思い出した。
「あの人たちは誰?」
拍手が止むと、ミキが小声で俺にそう言った。だけど俺は首をかしげる事しかできなかった。

 乾杯が済むと会場は和んだ雰囲気になり、招待客たちはそれぞれ料理を食べたり立ち話を始めたりした。 中本さんは「楽しめよ」と言い残して俺たちの前から消えてしまった。
俺とミキはざわめく会場の中をしばらくうろつき、とりあえずメシを食おうという事になった。
「あの人、弁護士さんなの?」
ミキは取り皿の上に生ハムを盛り付けながらそう言った。"あの人" とは、もちろん中本さんの事だ。
「未成年に酒を勧める悪徳弁護士さ」
「ふふ……でも、優しそうな人ね」
ミキは笑いながら俺に料理の乗った皿を手渡した。俺はその時大勢の人たちの中に矢萩の姿を探したが、彼の影すら見つけられずにいた。
ミキは俺の持っている皿の上のサラダをつまんで食べていた。俺は会場内をグルリと見回してから彼女に目線を戻し、力なく微笑んだ。
「ここ、すごく豪華だね」
今度はミキが会場内をグルリと見回した。彼女は煌くシャンデリアを見上げてため息をつき、金色のびょうぶを見て「お雛様みたい」と言い、それから会場内にいくつテーブルが並んでいるのかを指折り数え始めた。
「何人招待されてるの?」
「さぁ」
俺はその時、カーペットの上に落ちている小ぶりなエビを見ていた。 それはチリソースに塗れた真っ赤なエビだった。昔の俺なら人目も気にせずそれを拾ってすぐ口に入れただろう。 さすがに今はそんな事はしないけれど、昔の癖で食べ物が落ちているとどうしても気になってしまう。
「テーブル、いくつあった?」
目線を上げてミキに問い掛けると、彼女はもう指を折るのをやめていた。 俺は一点を見つめている彼女の目線を追いかけた。するとそこには人ごみをかき分けてこっちへ向かってくる矢萩の姿があった。
「あの人、こっちへ来る……」
ミキは彼から目を逸らさずにそうつぶやいた。

 「探したぞ」
矢萩は俺に近づき、感情のない声でそう言った。 彼は相変わらずピンストライプのスーツを着て、いつものように長い前髪をかき上げていた。 だけどその時の彼はなんとなくいつもとは雰囲気が違って見えた。 それはきっと、彼の目に優しさが感じられなかったからだ。
「紹介しろよ」
再び感情のない声でそう言われ、俺はミキにお決まりのセリフで彼を紹介した。その時はミキもなんとなくいつもと違った様子だった。
「ミキ、社長だよ」
「よろしく」
矢萩はミキが何か言おうとしたのを遮り、そう言って彼女に右手を差し出した。だがミキはその手を握ろうとはせず、笑顔も見せず、ただじっと矢萩の顔を見上げていた。
「休みの日に悪かったな。適当に帰っていいぞ」
矢萩は空振りした右手を引っ込め、俺の目を見て早口でそう言い、それから俺たちに背を向けてあっという間に立ち去ろうとした。 俺は彼の後を追いかけようとしたが後ろからミキに腕を掴まれ、動き出すのが困難になってしまった。
「ねぇ、あの人が社長さん?」
「え? ああ、そうだよ」
俺はそう言いながら立ち去って行く矢萩の姿を目で追ったが、人ごみに紛れてその姿はすぐに見えなくなった。
「本当にあの人が?」
ミキは何故だかとても動揺しているようだった。だが俺にはその訳が全く分からなかった。
「ミキ、どうした?」
彼女の顔を見ていると、思わずそんな言葉が口をついて出た。 その透き通るような灰色の目は泳いでいたし、彼女は明らかに何か言いたげだった。
「なんだ? 言ってみろよ」
薄い口紅を塗ったその唇が微かに動いた。だが、彼女はすぐに口をつぐんだ。 その時彼女の頬はピンク色に染まっていた。 ミキはその時、本音を心の中にしまい込んでいた。俺にはそれがすぐに分かった。
「どうしたんだよ」
「社長さんがあんなに若い人だなんて思わなかったから、びっくりしたの」
「それだけじゃないだろ?」
「ちょっと酔ったみたい。トイレに行って来るね」
彼女はそれを言い終わる前にもう俺に背を向けて歩き出していた。 俺は矢萩に立ち去られ、ミキに立ち去られ、その場に1人取り残された。 なんだか分からないけれど、おもしろくなかった。 周りの連中が楽しそうに談笑しているのを見ると、ますますおもしろくなかった。

 俺はミキを待つ間に琥珀色したウイスキーの水割りを2杯も飲んでしまった。 だがその味は水とほとんど変わりがなかった。 昔は大人がどうして酒を飲むのか全然理解できなかったけれど、今ならその気持ちが少しだけ分かるような気がした。
「君、三代目だろ?」
ふて腐れて突っ立っている俺に突然声をかけてきたのは見た事もない男だった。
彼は恐らく矢萩と同じくらいの年齢だ。 背は低いが体はがっちりしていて、顔だけはやたらと小さい。 黒い髪は七三に分けられ、小ぶりなその顔には子供っぽい微笑が貼り付けられていた。 彼もピンストライプのスーツを着ていたが、矢萩とは全く正反対な印象の男だった。
「突然声をかけて失礼だったかな?」
そう言われてハッとした。俺はその時心穏やかとは言えず、知らず知らずのうちに彼へ不機嫌な顔を向けていたに違いない。 俺は自分の子供っぽさを反省し、気を取り直して笑顔を作った。 すると彼はほっとしたような顔をして俺に自己紹介をした。
「僕は智也の知り合いで、山崎といいます」
「山崎さんですか。俺は……」
「君の事は知ってるよ。翼くんだね?」
彼はそう言って、手に持っているグラスの中のウイスキーを飲み干した。
「随分綺麗な子を連れていたね。花嫁が霞むよ」
彼は苦笑いしながら来客に挨拶をして回る今夜の主役に目をやった。 もうすぐ花嫁になるその人は細身でわりと美人だった。
俺はそれよりもこの山崎という男に興味を持った。 俺は矢萩の事を何も知らない。彼がどんな人と付き合っているのかも全然分からない。 そんな俺が彼の知り合いだという人に会えた事はとても貴重だと思った。
彼は新しいグラスをウエイターから受け取り、冗談めかしてこんな事を言った。
「智也の下で働くのはきついだろ?」
「分かってくれますか?」
「君は正直だな」
彼はニコニコ顔で俺の目を見つめた。だけどその目からしだいに笑いが消え、彼の顔からも笑いが消えた。
なんだろう。俺は不思議に思って彼の目を見つめた。すると彼は俺の想像しなかったような事を口にした。
「君はもしかして、川中さんの親族なのか?」
彼の言う "川中さん" とは明らかに親父の事だ。 まさかここで親父の事が話題に上るとは思ってもみなかった。
俺は大急ぎで頭を回転させた。 矢萩は会社の皆にさえ俺が親父の息子だとは言わなかった。 という事は、今ここでうなづくのは得策ではないという事だ。
「いいえ。違います」
答えるまでに少し間が空いてしまった。だけど山崎という男が俺に不審を抱いた様子はなかった。
「そうか。そうだよな」
「どうしてそんなふうに思ったんですか?」
俺はそんな質問をして、彼に何を答えてほしかったのだろう。
「君の目が絵理とよく似ているから……」
「絵理?」
「君は絵理を知らないのか?」
彼はまだ俺の顔をまじまじと見つめていた。
なんとなくドキドキした。俺は絵理という女の事がずっと心に引っかかっていた。 それはもちろん絵理という名前が親父の墓に刻まれていたからだ。
「名前だけは知っていますけど、絵理って誰なんですか?」
「川中さんの娘だよ」
「娘……?」
「彼女が亡くなってもう8年くらい経つかな」
急に頭の中が熱くなり、思考が停止した。もう何も考えられないし、何も話せなくなった。
「君は何も知らないのか?」
「……」
「智也は、絵理と婚約していたんだよ」

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