月が見ていた  第1部
 24.

 この雨はいつ降り出したのだろう。
外はいつの間にか大雨が降っていて、ワイパーはフロントガラスの上を忙しく動き回っていた。
タクシーの運転手は濡れた路面でタイヤがスリップする事を警戒しているらしく、ちょっと無理をすれば突っ切れそうな黄色信号の手前でブレーキを踏む。
窓の外は暗く、オレンジ色の外灯が薄く路面を照らしているだけだ。 ミキは緊張から解放されて安心したのか、ホテルを出てタクシーに乗り込むとすぐに眠ってしまった。 雨音は彼女にとってちょうどいい子守唄になってくれたようだ。
静かな車内で目を泳がせるとルームミラーに映る自分と目が合ってしまい、俺はもう見慣れているはずのその目に釘付けになった。
それほど大きくはない2つの目。山崎という男は俺のこの目が絵理によく似ていると言った。
俺は初めて会った男の言う事を鵜呑みにするほどバカじゃない。 だけど彼がどんな男であれ、俺にくだらないウソをつく理由はどこにもないように思われた。
俺はルームミラーに映る自分の目に吸い込まれてしまいそうな気がした。 矢萩が俺に向けるあの優しい目は、本当は俺を通して絵理を見つめていたのかもしれない。
俺は今まで自分の生い立ちに興味を持った事なんかなかった。
俺にとって親は鬼のような存在でしかなかった。その鬼がどんなふうに俺を誕生させ、いかにして子供を捨てたのかという事なんか、知りたくもなかった。
でも、絵理の存在は俺の心を揺るがせた。 自分に姉さんがいるなんて、今まで考えた事もなかった。
もしも絵理が生きていたなら……一目でいいから会いたかった。 だって、絵理は俺を捨てた親とは違う。鬼のような親の元で育った彼女は同志だ。
俺は一瞬目を伏せた後、窓の外を降りしきる雨を見つめた。 そして目の焦点を窓ガラスに合わせると、再びそこに映る自分と目が合った。
俺はすぐに窓ガラスを見つめるのをやめて車のシートへ寄り掛かり、そっと目を閉じた。 今夜は酒を飲んだせいか、車が揺れるたびに胸がムカムカした。
窓ガラスをたたきつける雨の音が、すぐ近くで聞こえた。


 翌日の朝は寝覚めが悪かった。
仕事へ行きたくない。そんなふうに思ったのはこの日が初めてだった。 だがこんな日でもちゃんと出社しなければならない。週末に本物の仕事を済ませてきたから、尚更だ。

 俺は重い足取りで家を出た。昨夜の雨はすっかり上がり、アスファルトはもう乾いていた。
外は、春の匂いがした。朝の日差しも、緩やかな風も、すべてが昨日と違っていた。
とても不思議だった。昨日はまだ冬の風を感じたのに、今日はもう春の風を感じる。 昨夜の雨が冬を連れ去り、春を運んで来てくれたのだろうか。
「翼!」
歩道の上を数メートル歩いた時、聞き覚えのある声が突然俺の耳に響いた。 それと同時に、まだ酒の抜け切らない頭がズキズキと痛んだ。
しかたなく声の聞こえた方向に目をやると車道を走る矢萩の車が減速してすぐ目の前に止まった。
黒い高級車の窓は全開だった。矢萩はどうやら運転席から大きな声を出して俺を呼び止めたらしい。
俺は胃に軽い痛みを感じ、大きく息を吐きながら乾いたアスファルトの上に視線を落とした。 すると春の風に吹かれて歩道の上を舞う新聞紙が俺の足元をすり抜けてどこかへ飛んでいった。
「乗れよ!」
矢萩は続けてそう言った。そう言われてしまうと、断る理由が見つからない。
どうしていつもこうなんだろう。 今日は矢萩に会うのがユウウツだったのに、こんな日に限って朝から彼に会ってしまうなんて。
俺は気乗りしなかったが、結局は矢萩に言われるまま彼の車に乗り込んだ。そうするしかなかったからだ。
「ちょっと付き合え。これから客の所へ行く」
俺が助手席に乗ると矢萩は早口でそう言いながら車を発進させた。

 俺はすぐに目を閉じて寝たフリをした。 矢萩と目が合うのが怖かったし、何を話せばいいのか分からなかったからだ。
車の中は静まり返っていた。でも矢萩が先を急いでいる事はよく分かった。
俺の視界は決して真っ暗ではなかった。その時俺は瞼の向こうに眩しい朝日を感じていた。
「疲れているのか?」
5分後。先に沈黙を破ったのは矢萩の方だった。彼は俺が眠っていない事をもちろん知っていたのだろう。
「平気だよ」
俺はそう言いながらパッと目を開けた。眠ったフリをする事にさえ疲れたからだ。
「朝刊読んだか?」
矢萩にそう言われるまで全然気付かなかった。 今日は仕事を終えた翌日の大事な朝なのに、新聞に目を通す事をすっかり忘れていた。でも、矢萩はそんな俺を責めなかった。
「仕事はとりあえずうまくいったみたいだな。ただし、ターゲットは自宅で倒れた事になっていた」
「え? どうして?」
「あの男は地位も名誉もあるヤツだ。別荘で愛人に看取られたとは発表できないのさ。 これであの別荘での事は闇に葬られる。成功おめでとう」
矢萩は淡々と人の死について語りながら、海の方へ向かって車を走らせていた。 ユウウツな俺とは違って、彼はいつも通り頭が冴えている様子だった。

 俺の目にはさっきから前を走る赤い乗用車が映し出されている。恐らく矢萩も同じように前の車を見つめているだろう。
俺たちはまだ一度も目が合っていない。
その時、ふと思い出した事がある。たしか前にもこういう事があった。
そうだ。あれはたしか初めてウイングファイナンスへ行った日の事だ。 俺たちはあの日、オフィスの鏡の壁の前に立って大事な話をした。 それは親父の話だった。俺の親父がもうすでにこの世にいないという事を、あの時彼から告げられたんだ。
あの時矢萩はなんとなくそわそわして、俺と視線が合うのを避けていた。 俺はちゃんと目を合わせて話したかったのに。
あの時俺は、こう考えた。矢萩は親父の死をどうやって俺に伝えようか考え、戸惑っていたのだと。
でも本当にそうだろうか。今になって考えると、どうしても別な理由が思い浮かぶ。
あの時矢萩は俺に絵理の事を話すかどうか迷っていたのではないだろうか。 俺が親父を恨んでいる事は彼にも容易に想像がついたはずだ。親父の死は俺にとってどうでもいい事だ。 俺がそう思う事も、容易に想像がついたはずだ。
でも、絵理の事になるとちょっと違う。絵理は俺を捨てた親とは全然違う。 あの時矢萩が絵理の存在を俺に告げていたら、俺は絶対彼女に会いたいと思ったはずだ。 矢萩は頭がいい男だから、きっとそこまで分かっていたに違いない。 そして絵理が死んでしまった事を知ったら俺がショックを受けるという事も、きっと分かっていたに違いない。
だから矢萩はあの時俺に絵理の事を話さなかったんだ。今の俺にはどうしてもそう思えてならない。

 「お前、運転席に乗ってろ。俺が戻ってきたらすぐに車を出してくれ」
俺が考え事をしていると、矢萩がそう言いながら突然車を止めた。 彼が減速せずにいきなりブレーキを踏んだので、俺の体は前に大きくつんのめった。
「お前は絶対車を降りるなよ」
矢萩が車を止めたのは潰れた商店の前だった。 彼は交通量の多い道路から急ハンドルを切ってシャッターの下りている商店の前に車を止め、それからすぐにドアを開けてさっさと車を降りてしまった。
「どこ行くの?」
俺の声と、車のドアの閉まる音が重なった。俺の素朴な疑問は矢萩の耳には届かなかったようだ。
「どうなってるんだよ……」
俺は助手席に座ったままでルームミラーに映る矢萩の姿を目で追った。 彼は車の後方へ急ぎ足で歩いて行った。ダークなジャケットを羽織った彼の背中は見る見るうちに小さくなっていった。
車の中は微かに潮の香りがした。もう海が近い。 矢萩が車のドアを開けた時、風に乗って潮の香りが運ばれてきたのだろう。

 しばらくするとルームミラーに映る矢萩の背中が一瞬消えた。 でもそれは本当にほんの一瞬だけで、再びミラーに彼の姿が映った時、彼は他にもう1人男を連れていた。 その中年男は矢萩よりいくらか背が低く、ガリガリに痩せていた。 茶色のスーツがやけにダボダボだ。
ルームミラーに映る2人の姿がどんどん大きくなってくる。彼らは間違いなくこっちへ向かって歩いて来ていた。
俺は矢萩に言われた事を思い出し、慌てて運転席に移動した。

 矢萩は後部座席のドアを開けてまずは客人を車に乗せ、それから自分もその隣に乗り込んだ。
その時、ルームミラーの中で今日初めて矢萩と目が合った。俺は黙って車を発進させた。
朝日を浴びながら海沿いの道を走るのはちょっとしたドライブ気分だった。 俺は時々ルームミラーを見て後部座席に座る2人の様子を伺っていた。 矢萩はシートに深くどっしりと腰掛け、しばらくの間横を向いて窓の外の景色を見つめていた。 だがもう1人の男はただ俯いたまま黙って座っていた。
そのまま20分ほど走って行くと、赤信号に引っかかって車が止まった。それまでずっと車の中は静まり返っていた。 信号の向こうには商店を潰す原因になったコンビニが見えた。 もうだいぶ郊外の方まで来ていたので、信号を渡る人もいなかったし、歩道の上を歩く人影もなかった。
その時、今の今まで俯いておとなしくしていた男が突然車のドアを開けて外へ出ようとした。 でも、どんなに押しても引いてもこの車のドアは開かない。俺も矢萩もちゃんとその事を知っていた。
信号が変わって再び走り出した車の中には、男が強引にドアを開けようとするガチャガチャという音だけが響いていた。
「ドアは開きません。そんな事をしても無駄ですよ」
矢萩が感情のない声でそう言うと、隣に座る男が矢萩を見つめてこう叫んだ。
「あんたがどう言おうと、金は返せない! 返したくても返す金がないんだ!」
ルームミラーに映る彼の形相は怯えた子猫のようだった。大きく見開いた目には自信のかけらもない。 髪が整えられていないのは、恐らくもうそんな事をする余裕がないからだろう。

 俺はその後ただ道なりに車を走らせ、後部座席に座る2人の会話を聞いていた。
車の外には青い海が広がっているのに、車内ではその綺麗な青に似つかわしくない会話が交わされていた。
逃げる事を諦めた中年男は突然開き直った。 ついさっきまで怯えていたのに、矢萩が黙っているとそのうち調子に乗ってきたようだ。
「うちの会社は方々から金を借りていたし、その返済に行き詰まっていた。 そんな支払い能力のない所へ担保も取らずに金を貸すあんたがバカなんだよ。 警察へ行くなり裁判を起こすなり好きにすればいい。どうやったって払えない物は払えないんだからな」
男はそれだけ言うと気持ちがスッキリしたらしく、クスクスと小さな笑い声を上げた。 そんな時でも矢萩は相変わらず冷静だった。
「そんな事はよく分かっていますよ。このやり方は先代から引き継がれているんです。 先代は元々人助けのために金貸しを始めたようなものですから」
矢萩が静かな声でそう言った時、俺はルームミラー越しに彼の目を見つめた。 すると一瞬だけミラーの中で彼と目が合った。その時、矢萩の目はいつものようにとても優しかった。
「あなたへ貸し付けた金を全額回収するのは最初から難しいと思っていました。 ビジネスである以上こちらもリスクを背負っているんです。だから、それはしかたがない」
俺はこれ以上矢萩の目を見たくなかった。だから、もうミラーは見ずにずっと外の景色を見つめていた。
車内の空気は張り詰めていた。この空気は前にも味わった事がある。
冷静に、優しい言葉で矢萩は相手を追い詰める。 だが相手は自分が追い詰められている事に全く気付かない。優しい言葉を言う矢萩の目が笑っていない事にも全く気付かない。
「どうしても返済ができなくなった時には相談してほしいと最初に申し上げたはずです。 なのにあなたは何故逃げようとするんですか?」
「逃げようとなんかしてないだろう!」
「あなたはついさっき車のドアをこじ開けようとしましたよね? それに、今日夕方の飛行機で遠くへ行こうとしていますよね?」
矢萩の言葉の後、また車の中が静まり返った。窓の外には相変わらず青い海が広がっている。

 「済まなかった。だけど、どうしようもなくて……」
中年男はさっきまでの勢いをなくし、また怯えた子猫に戻りつつあった。 だが矢萩は最初から最後まで静かなライオンのようだった。
「分かってくだされば結構です。私はあなたの味方ですよ。だから金を貸したんです。今日はあなたにお会いできて良かった」
俺はもう分かっていた。この男は何か俺たちの役に立つ物を持っているに違いない。 そうじゃなければ、矢萩が金を貸すはずはない。
「こうなった以上、もうあなたに返済を迫るつもりはありません。こちらも担保を取らなかったりといろいろ不手際があったわけですからね」
「本当ですか……?」
「あなたが今日の飛行機に乗る事を知っている者は我々以外に誰もいません。 新しい土地へ行ってやり直すのもいいでしょう。また困った時には私に相談してください」
その後カサカサという音が車内に響き、俺はふとミラー越しに後部座席を見つめた。
すると矢萩がどこかから茶封筒を取り出し、それを中年男の手に握らせているのが見えた。 その中にある程度の金が入っている事は明らかだった。
「車を止めてくれ」
矢萩にそう言われ、俺は車を道の左端へ寄せて止めた。
ドアのロックを解除すると中年男はゆっくりと車を降り、矢萩がまた車を出せと言うので俺は再びアクセルを踏んだ。
茶封筒を握り締めた男は俺たちの乗る車が左へ曲がって見えなくなるまで、ずっと見送っていた。

 「はぁ……終わったな」
矢萩が後部座席の窓を少し開けながらそう言った。どうやらこれで矢萩の用事は済んだようだ。 外は相変わらず春の日差しが強く、窓を開けるとやはり潮の香りがした。
「お前には今後こういう事もやってもらわないといけない。今の男は役に立つ。 彼は必ず金に困って連絡してくる。その瞬間から彼は俺たちの協力者というわけさ」
矢萩はルームミラー越しに俺を見つめていた。それが分かっていたから、俺はあえてミラーを見ないようにしていた。
「お前は社長になれば安泰だと思っていたようだけど、そうでもないぞ。 まぁそんな事は俺が言わなくてもいずれ分かると思うけどな」
「運転手は雇わないの? 社長さんは人に運転させて後ろに乗るものじゃないの?」
「後ろに乗るのは怖いよ。運転手に命を預けているようなものだからな」
「今も怖い?」
「怖いに決まってるだろ? 車を止めてくれ。お前の運転じゃ危なっかしくてたまらないからな」
俺はその時何故ミラーを見てしまったのだろう。何故矢萩の目を見てしまったのだろう。
矢萩はさっき男と話していた時とは全然違っていた。 一仕事終えて、ちょっとリラックスしているような雰囲気だった。
俺はこういう時の彼が好きだった。彼の目が優しいといつもほっとした。 仕事を離れた時の彼はいつも優しくて……だからこそ時々厳しい事を言われてもなんとかやってこれたんだ。
でも、今日からはこの優しい目が苦手になりそうだ。
矢萩はいつも優しい目で俺を見つめたけれど、俺のこの目は彼を傷つけていたのかもしれない。
死んだ婚約者と同じ目をした俺は、その存在だけで彼を傷つけるのかもしれない。
こんな時に思い出したくなんかないのに、昨夜山崎という男に聞いた事が頭の中を駆け巡る。
俺に姉さんがいたという事。彼女が矢萩と婚約していた事。そして、彼女が式の直前に死んでしまった事。
俺はまだその事について全く気持ちの整理がついていなかった。 矢萩は絵理が死んだ時、どうやって自分の気持ちを整理したのだろう。

 開けた車の窓から春の風が入り込み、時々俺の頬を撫でていった。 なんだか分からないけれど、風の当たった頬がひどく冷たく感じた。
「お前、どうして泣いてる?」
矢萩にそう言われるまで頬を伝う涙に全く気付かなかった。 きっといろんな思いが交差して、そんな事に気付く余裕がなかったんだ。
矢萩はまだミラー越しに俺を見つめていた。彼特有の優しい目ではなく、とても心配そうな目で。
「ちゃんと前を見て運転しろよ」
ミラーの中で目が合うと、彼は静かな声でそう言った。 その後先に目を逸らしたのは彼の方だった。
「気が強いくせに、すぐ泣くんだな」
長い前髪をかき上げながらつぶやいた彼の独り言は、春の風に乗ってしっかり俺の耳に届いた。
人にそんな事を言われたのは、生まれて初めてだった。

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