月日はあっという間に流れていく。
4月初旬。都会の町に桜が咲いた。俺はこの時期に咲いた桜を今まで見た事がなかった。 俺の育った町では桜の開花がここより1ヶ月も遅い。こうして春の訪れが早いと、ちょっと得した気分だ。
オフィスの鏡の壁に手をついて下を見ると、道路沿いに一定の距離を置いて並ぶ桜の木が見えた。 排気ガスの充満する都会の街並みが、ピンク色の花びらによってこの時ばかりは華やかに変貌を遂げていた。
俺はその頃すっかり幸せな人たちの仲間入りをしていた。
不安も不満も何もない生活。生きている間にこんな暮らしを手に入れる事ができるなんて思ってもみなかった。
仕事は、最初はハードだと思った。肉体的にというよりは、精神的にハードだと感じていた。 でも、人は自分が置かれている状況に慣れるものだ。そして慣れると何も感じなくなる。
俺は今ではメシを食ったり風呂に入ったりするのと同じような感覚で人を殺せるようになった。 もう殺しは俺にとって日常なのだ。
人は、必ず一度は死ぬ。自然死でも他殺でも、死ぬ事に何ら変わりはない。 俺が殺そうが殺すまいが、そいつは結局いつか死ぬ。ただそれだけの事だ。
左腕に巻いた腕時計を見つめる。そろそろ午後4時になる。今日は何もする事がない。ひどく退屈な1日だ。
ただ最初から矢萩に言われているように、殺しをやった翌日は必ずいつも通り会社へ出てくるのがベストだ。 今日は何もする事がないけれど、そうするのが1番いいから会社へ出てきただけ。ただそれだけだ。
コンコン、とノックの音がした。この弱々しいノックの仕方は中本さんに違いない。
「どうぞ、中本さん」
俺がそう言って声をかけると、スッとオフィスのドアが開いて案の定中本さんがやって来た。 彼はいつも通り穏やかで、いつも通りニコニコしていた。
「俺が来たってよく分かったな」
「分かるよ、すぐに」
中本さんは俺の隣にやって来てやはり鏡の壁から眼下に広がる桜の花を見下ろした。
「眺めがいいな」
中本さんは一言感想を漏らした後、黙って俺に茶封筒を差し出した。 その中を覗くと、銀行の通帳が20冊ほど入っていた。
「遅くなったけど、裏口座を用意した。お前、家に大金を置いたままなんだろ? 金額を分けて銀行へ預けろよ。ただし、毎日少しずつだぞ」
「ああ、ありがとう」
俺の家には9億という金が置きっぱなしになっている。でも、まだその大半は自分の金になっていない。
中本さんは小さく欠伸をしながら黒っぽい色のネクタイを緩めた。
今日、矢萩は仕事があって1日会社を留守にする。 最近になって分かった事だけど、中本さんは矢萩の不在がはっきりしていると気が楽になるらしい。 矢萩は、相手が誰であっても仕事に対してものすごく厳しいからだ。
「天気もいいし、帰りに花見でも行かないか? 西の方に桜の咲く公園があるんだよ。お前行った事ないだろ?」
彼は俺にそう言った後両腕を伸ばして更に大きく欠伸をした。
「連れて行ってくれるの?」
「たまにはハメを外さなきゃ仕事なんかやってられないさ。ミキさんも呼べよ。花見をした後食事でもしよう」
「ミキも?」
「男2人で花を見たっておもしろくないだろ?」
「まぁ、それはそうだけど」
「よし、じゃあ彼女に電話しておけよ」
「分かった」
「俺はオフィスで少し寝ておくよ。じゃあ、後でな」
中本さんは欠伸が止まらないらしく、目を潤ませながら退散した。最後に一言、こんな言葉を残して。
「昨日はお疲れ様。仕事がうまくいったようで、安心したよ」
「ありがとう」
彼にこんな事を言われたのは初めてだった。
矢萩も中本さんも毎回俺の仕事がうまくいくかどうかを気にしてくれているようだ。
もしも俺がしくじったら、きっと恐ろしく面倒な事になるに違いない。
俺はこれからもそれを肝に銘じてやっていかなければならない。
午後6時になった。でもまだ外は昼間と変わらないほどに明るい。
俺はジャケットを片手に持ち、オフィスを後にした。これから中本さんと花見に行くからだ。
この時間になると俺も欠伸が出てきた。今日の朝4時に家へ帰って10時にはもう出勤して来たから、眠くなるのも当然だ。
オフィスに鍵をかけて廊下を歩くと、窓から入り込む太陽が目に反射してひどく眩しかった。
中本さんとは午後6時にビルの1階で待ち合わせをしている。エレベーターの前に立った時、腕時計の針は 6時を1分回ったところだった。彼は時間に正確な人だから、きっともうロビーで待っているだろう。
ビルの1階へ行くと、回転ドアから春の風が入って来てすごく気持ちが良かった。
心なしか、風は桜の香りがした。太陽の光も冬の物とは少し違っていて、なんだかほっとする。
最初にここへ来た時はまだ外に冷たい風が吹いていた。あの頃は何を見ても不安だった。 なのに、季節が巡るとこんなにもすべての物が変わってしまうのだろうか。
「翼!」
俺を呼ぶ声に気付いて振り返ると、中本さんはロビーの奥にある柱の前に立って俺に手を振っていた。 彼はすっかりリラックスしていて、ジャケットも羽織っていなかったしネクタイもすでに外していた。
「ミキさんは?」
中本さんがドアの前までやって来て俺にそう問い掛けた。
だが、見たところまだロビーにミキの姿はない。彼女に電話をした時、間違いなく6時にここで待ち合わせだと言ったはずなのに。
「まだ6時3分だ。そのうち来るだろ」
中本さんはちらっと腕時計を見てからそう言った。彼は外から入り込む光が眩しいようで、目を細めながらドアから入ってくる人たちを見つめていた。
この時間川中ビルに出入りする人たちは大勢いた。
仕事を終えて帰る人や、用事があってやって来たようなサラリーマン。 そういった連中が入り乱れているから、俺はずっとドアを見ていないとミキを見逃してしまいそうな気がしていた。
ミキが来たのは6時を10分過ぎた頃だった。
彼女はかなり急いで来たようで息を切らしていた。そしてロビーにあまりにも人が多くて驚いているようだった。
俺はすぐに人ごみをかき分けて彼女に近づき、そっと彼女の腕を掴んだ。 すると彼女は安心したようににっこり微笑んだ。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「いいよ」
まだ息の整わない彼女を連れて中本さんの所へ行くと、ミキは額に光る汗を拭きながら彼にきちんと挨拶をしてくれた。 ずっと人に踏みつけられて生きてきたのに、誰にでも礼儀正しく振る舞う彼女が俺はとても好きだった。
「お待たせしてすみませんでした。お弁当を作ってたらすぐに時間が過ぎちゃって……」
ミキの言葉を聞いてから中本さんは目尻を下げてにっこり微笑み、彼女が両手で抱えている紙袋の中をそっと覗いた。 どうやらそこには彼女の手作り弁当が入っているようだった。
彼女の白いワンピースは、太陽の光が当たって透けて見えた。
「ミキさんはいいお嫁さんになれるよ」
中本さんが優しい目をしてミキにそう言うと、彼女は不思議そうな顔をしていた。
ミキは自分に自信がないのだ。 きちんと挨拶ができるし、時間に遅れそうになるとちゃんと走ってくるし、誰よりも美人だけど、どうしても自分に自信が持てないでいる。
でもきっと、そういう事は時間が解決してくれる。俺は不思議そうな顔をしている彼女を見つめて漠然とそんな事を考えていた。
「智也!」
中本さんの声につられて後ろを振り返ると、ちょうどピンストライプのスーツを着た矢萩が回転ドアからロビーへ入って来るのが見えた。
彼は俺たち3人の姿にすぐに気付き、ネクタイを緩めながらツカツカとこちらへ向かってきた。
矢萩はあまり機嫌が良さそうではなかった。一応優しそうに微笑んではいるが、彼の機嫌くらいは俺でももう見分けがつくようになっていた。
「仕事がうまくいかなかったようだな」
中本さんもそれに気づいて矢萩にそう言った。すると彼は力なく微笑み、俺たちの顔をちらっと見回した。
ミキは少し緊張気味に彼にペコリと頭を下げていた。
「君たちは楽しそうだな」
「これから花見に行くんだ。仕事は終わったんだろ? 一緒に来ないか?」
そう言う中本さんの言葉に彼が返事をしかけた時、誰かの携帯が突然鳴り出した。
すると4人が4人とも自分に電話がきたかと思ってポケットの中をまさぐったけれど、どうやらその電話がかかってきたのは矢萩の携帯だったようだ。
「もしもし」
矢萩はいつもの仕事の口調で電話に出た。
その間中本さんは矢萩が来て緊張しているミキに何やら話しかけていた。
だが俺はロビーの白い床を見つめて電話の相手と話をする矢萩をじっと見つめていた。
ロビーは人が多くかなりざわついていて、矢萩は電話の相手の声がよく聞き取れないようだった。
「なんですか? よく聞こえないんですが……」
彼は電話の相手が話す事に耳を集中させていた。するとしだいに彼の顔色が曇っていった。
何かあったんだ。俺はすぐにそう思った。
矢萩が電話を切ると、俺は不安に駆られて彼に何の電話だったのかを問いただした。 もしも俺の仕事に関する事であれば、一刻を争うような出来事かもしれないと思ったからだ。
「何があったの?」
俺が早口でそう言うと、矢萩は唇を少しだけ動かして何か言いかけた。 その時彼の目は焦点が定まらず、携帯を握り締める手は微かに震えていた。
「どうした? 智也」
中本さんも彼の様子に気づいてすぐに問い掛けた。だが矢萩は結局何も答えてはくれなかった。
「ちょっと出かけてくる」
それだけ言い残して矢萩はまたドアの外へ出て行ってしまった。
俺たち3人はあっという間に小さくなっていく矢萩の背中を黙って見送った。
矢萩はそれを最後に、1週間行方をくらます事になる。