月が見ていた  第1部
 26.

 翌朝8時。俺は眠たい目を擦りながらベッドを抜け出した。
リビングへ行った途端朝の光が目に突き刺さり、幻惑されながらパジャマ姿でソファへ腰掛ける。 キッチンの中でガサゴソと音がするのは、恐らくミキが朝メシの支度を始めているからだろう。
幻惑が解消されると、コーヒーの香りと共にミキが近づいてきた。彼女は朝シャワーを浴びたようで、髪がほんのり濡れていた。 彼女が薄いピンク色のパジャマを着ているのは、桜の季節に合わせてそうしているようだった。
俺は今まで彼女より早く目覚めた事がない。彼女はいつも俺より先に起きてメシの支度や簡単な掃除をするのが日課だった。
「おはよう。すぐご飯食べる? それとも、シャワーが先?」
彼女は俺の隣に腰掛けて、コーヒーの入ったマグカップを2つテーブルの上に置いた。 たっぷり朝日を浴びながら、彼女の入れたコーヒーを2人きりで飲む。それは俺にとって大切な朝のひと時だった。
「お花見、楽しかったね」
濡れた髪を耳にかけながらミキがそう言った。昨日は桜を見ながら中本さんと3人で彼女の作った弁当を食べ、公園の中をゆっくり散歩してから帰って来たのだった。
「また遊びに行こうよ」
俺がそう言うと、彼女はにっこり微笑んで1つうなづいた。
でも俺は花見の最中もずっと矢萩の事が気になってあまり楽しめずにいた。
しかも昨日の夜から彼に何度電話しても繋がらない。今までこんな事は一度もなかった。 恐らく彼はずっと携帯の電源を切っているんだ。
「フフッ、寝癖がついてるよ」
何も知らないミキは天井に向かって飛び跳ねている俺の髪を触って微笑んでいた。
彼女はここへ来る前に比べてだいぶ表情が穏やかになった。
少し前まで、その灰色の目はいつも曇りがちだった。顔色は青白かったし、腕や足は痛々しいほど痩せ細っていた。
でも今はそうじゃない。頬は少しふっくらしてきたし、顔色もいいし、灰色の目は輝き、彼女はいつも笑っている。
だからこそ俺は、矢萩の事が気にかかってしかたがなかった。
俺がどうにかなってしまったら……会社がどうにかなってしまったら、きっと彼女もその波に巻き込まれてしまうからだ。
「ねぇ、ご飯食べる?」
「あ、うん」
「分かった。じゃあちょっと待っててね」
彼女は朝日を背に浴びながらキッチンへと消えた。きっと10分もすれば温かい食事ができ上がる。 俺はそれを待つ間、テーブルの上に置かれた新聞を広げて読み始めた。
その小さな記事は、すぐに俺の目に飛び込んできた。


 俺はこの朝、少し早めに出社した。オフィスへ着いたのは午前9時25分だった。
この時間、個人向け融資の窓口はとっくに営業を始めている。 だがこの時間は矢萩も中本さんも大抵は出社してきていない。
俺はとにかく椅子に腰掛けてデスクの上に肘をつき、何度も何度もしつこく矢萩に電話をした。 でも、相変わらず繋がらない。
そこで今度は中本さんに電話をした。すると彼は1回目の呼び出し音が鳴る前に電話を取った。 きっと彼も矢萩の事を気にしているに違いない。
「もしもし、翼か?」
中本さんの声は随分大きく耳に響いた。彼の背後はザワザワしていた。
「うん。おはよう、中本さん」
「どうした? 今日は早いな」
「矢萩と連絡を取りたいんだけど、電話が繋がらないんだ」
「どこ行ったんだ、あいつ」
「さぁ……」
「悪いが、俺は今日法廷に出なくちゃならないんだ。誰かに智也の事を聞かれたら、急用ができてしばらく留守にすると言っておけよ」
「分かった」
俺は電話を切った後、胸騒ぎがした。
中本さんはいつもの調子だったけれど、矢萩はいったいどこにいるのだろう。
デスクの上に肘をついたままぼんやり鏡の壁の向こうを見ると、灰色の雲がすぐ近くに見えた。 今日は午後から雨になる予報だった。でも、雨雲が少し早くやってきたのかもしれない。
今日雨が降ったら、桜の花は散ってしまうのだろうか。

 今朝朝刊を広げると、隅っこの方に小さな記事が載っていた。
それはコンビニ強盗で捕まった40歳の男が、取調べ中に他の事件の容疑者として浮かび上がったという記事だった。
8年前の3月。F 県で20歳の女が乗用車にひき逃げされて死亡した。被害者の名前は川中絵理。
容疑者はおめでたい事に8年前と同じ車に乗って強盗を働くためにコンビニへ現れたらしい。
そして車体に残っていた血痕は、絵理のものだと判明したらしい。

 俺は、絵理がどうして死んだのか今まで知らなかった。
彼女の存在と彼女が死んだ事についてはいつかのパーティで山崎さんという人に聞いた。 でも山崎さんは彼女が何故死んだのかを俺に話さなかったし、俺もあえて聞こうとはしなかった。 絵理の事は、ずっと心の中に封印していた。それは、誰もがそうしていたからだ。
矢萩も中本さんも、彼女の事など今まで一言も話そうとはしなかった。そして俺もそうしていた。
それは、きっと彼女の死に方が普通じゃなかった事をなんとなく察していたからだ。
だが俺は今、ひどく冷静だ。容疑者に対して怒りも沸いてこないし、何の感情もない。
今俺が冷静な頭で考えている事は、ただ一つ。それは、いつ容疑者を殺せるのかという事だけだ。
ひき逃げの罪とは、どのくらいの刑が科せられるものなのか。
今回捕まったコンビニ強盗は、恐らく微罪だ。レジから金を盗んだというがその金額は1万円足らずだし、店員や客に傷を負わせたというわけでもない。大体、新聞紙面に容疑者の顔写真さえ載っていなかった。
恐らく、昨日の夕方矢萩に電話をしてきたのは警察だろう。 矢萩はあの時警察に呼び出されたのだろうか。彼はあの後出頭して、容疑者の顔を見ただろうか。
容疑者に刑を科す時、遺族の心情はその決定に影響を及ぼすのだろうか。 被害者の婚約者であった矢萩が容疑者に対して寛大な心を示せば、その人の刑は軽くなるのだろうか。
だとしたら矢萩は、軽く笑顔さえ浮かべて容疑者に同情するそぶりを見せるだろう。
容疑者が投獄されるのは、数ヶ月? それとも1年? 2年?
そんなに待てないよ。早く出て来てくれなくちゃ。そいつを早く殺さないと気が済まない。
矢萩もきっと、そのつもりだ。俺には分かる。
もしもミキが誰かの手によって殺されたとしたら、俺は絶対に犯人を許さないだろう。 きっと、相手が1番苦しむ方法で犯人を殺すだろう。
彼はどうやってやるつもりだろう。ちゃんと俺にやらせてくれるだろうか。 それとも今回だけは自分でカタをつけると言い出すだろうか。

 立ち上がって鏡の壁から眼下を覗くと、強い風に吹かれてピンク色の花びらの舞う様子が見えた。
花の命は短い。あっという間に咲いて、あっという間に散ってしまう。
絵理は8年前の3月に死んだ。まだ若かったのに、桜の花びらのように散っていった。
彼女は20歳の年に咲いた桜を見られなかったんだ。 生きていれば今頃は子供と手をつないで桜の木を見上げていたかもしれないのに。
そのうち、音もなく雨が降り出した。
鏡の壁にはポツポツと細い雨が当たり、眼下に見えるアスファルトは見る見るうちに灰色から黒へと変色していった。
これはきっと、涙雨というやつだ。
昨日まで綺麗に咲き誇っていた桜の花びらは風に吹かれてどんどん散っていった。
しばらく見ていると散った花びらがアスファルトの上に雨水でのり付けされ、黒い道路は所々がピンク色に変わっていった。

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