月が見ていた  第1部
 27.

 矢萩と最後に会った日から4日が過ぎた。その日は大雨。そして俺はその頃、針のむしろにいた。
オフィスにいると下のフロアからひっきりなしに内線電話がかかってくる。 社員の皆はいつもなら社長に指示を仰ぐ案件を全部俺にぶつけてくる。
矢萩も中本さんも、この4日間会社へ出てきていない。そうなると社員が何かお伺いを立てるのは俺という事になっているらしい。
全く、とんでもない話だ。俺には矢萩の代わりなんかできない。できるわけがない。 ある日突然現れて自分専用のオフィスをもらったからといって、皆は俺が天才だとでも勘違いしているのだろうか。
俺は矢萩がいなくなって初めてウイングファイナンスが彼の物である事を意識していた。
彼がいないと仕事が回らない。彼がいないと皆が不安になる。 俺は "ここはいずれお前に任せる" と言った矢萩の言葉を思い出し、途方に暮れていた。
そんなの、絶対に無理だ。どうやったって無理だ。 俺にはナンバースリーがちょうどいい。矢萩がいて中本さんがいて、その下でチョロチョロしているのが1番いい。
降りしきる雨の音を聞きながらデスクに突っ伏していると、寝不足の朝のように頭がズキズキと痛んだ。 しかも、雨のせいか頬の下にあるデスクがなんとなく湿っていて気持ちが悪い。

プルルルル……

電話が鳴った。また内線だ。
俺はしかたなく湿ったデスクから顔を上げて半ばヤケクソに受話器を取り、それと同時に椅子から立ち上がった。
今日は朝からずっと雨降りで、夕方になっても全く止む気配がない。鏡の壁の向こうに見えるのは雨の雫だけ。 天気は冴えないし、なんだか気分は最悪だ。
「二宮さん、Y商事の中山様がどうしても社長と連絡を取りたいそうです。なんとお伝えしたらいいですか?」
電話の声は、総務課の谷崎さんの声だった。
彼女はここ2〜3日困った声で何度も俺に助けを求めていた。矢萩が3〜4日いないだけで、社内は本当にガタガタだった。
「俺でよかったら代わりに話を聞くと伝えて」
俺は度重なる彼女の問いかけに、いつも同じ返事をした。
でも、矢萩に連絡を取りたい相手は絶対に矢萩としか話をしない。その事は、もう十分すぎるほど分かりきっていた。
俺は受話器を下ろすと、少し早めにオフィスを出た。
廊下へ出るとまたオフィスの電話が鳴り出したけれど、俺はもう構わずにさっさとエレベーターへ向かった。

 それから5分後。俺はタクシーの中から変わらない外の景色をじっと眺めていた。
強い雨が車の窓ガラスを叩きつけ、外の景色は全体的に歪んで見えた。
歩道の上には傘の花が咲いていた。オフィスビルの窓ガラスの向こうには白い蛍光灯の光がぼんやりと見えた。
まだ4時を過ぎたばかりなのに、雨のせいか辺りは薄暗かった。オマケに、これまた雨のせいか車が全然前へ進まない。
滲んだ白い蛍光灯の光と雨に打たれるビルの看板がさっきからずっと同じ位置に見える。
俺はムダと知りつつも運転手に矢萩の住所を伝えていた。
彼が自宅へ帰っているとは到底思えない。だけど俺には彼を探す術がなかった。彼が立ち寄りそうな場所なんて、1つも思い当たらない。
こんなふうになって、やっと気が付いた。俺はあまりにも彼の事を知らなすぎる。

 いつもなら車で30分の道のりなのに、その日は矢萩のマンションへ着くまで1時間半もかかってしまった。
外は相変わらず、どしゃ降りの雨。
俺はタクシーを降りてから水たまりを蹴ってマンションの入口まで走った。外の景色はただ白かった。
俺が外を走ったのはたった20〜30メートルの距離なのに、屋根のある場所へ辿り着いた時にはもうかなり髪が濡れ、頭のてっぺんに乗っかった雨の雫が次々と頭皮を滑り落ちていった。
俺は髪やスーツにかぶった雨の雫を両手で払い、それからガラスの自動ドアの奥に設置されているタッチパネルの前へ行って矢萩の部屋の番号をプッシュし、彼の部屋のインターホンを鳴らした。
分かってはいたけれど、部屋からは何も応答がなかった。
玄関ホールの床は俺が払い落とした雨の雫でかなり濡れていた。 俺の耳には雨が地面を叩きつけるバシャバシャという音が大きく響いていた。 だけど、よく耳を澄ますと雨の音に混じって微かに人の声が聞こえた。
俺はガラスのドアの向こうへ目を向けた。そこから見えるのは、ただ真っ白な景色だけだった。
真っ直ぐに空から落ちてくる雨。その雨がたくさんの白いストライプを作り出し、外の景色を幻想的な物に変えていた。
俺は再び自動ドアから外へ出た。そこには屋根があって雨がしのげたけれど、もうこの際屋根の下を飛び出して降りしきる雨のシャワーを思い切り浴びてしまいたい衝動に駆られた。

 「翼!」
俺は降りしきる雨の音に重なるその声を確かに聞いた。
でも、右を見ても左を見てもただ真っ白で、その声の主がいったいどこにいるのか検討もつかなかった。
俺が辺りをキョロキョロ見回しているとそのうち右手の方に車のライトが見え、タイヤが水たまりの上を走行するバシャバシャという音が何度か聞こえた。
やがて俺の目の前に、真っ白な車が止まった。
そして助手席の窓がスーッと開き、そこから運転席を覗き込むと、中本さんが早く乗れと言わんばかりに俺を手招きしていた。


 「中本さん、来てたの?」
俺は車に乗り込むなり、早口で彼に問い掛けた。
中本さんは1つうなづき、再びマンションの入口が見える場所へ車を止めた。 でもフロントガラスの向こうに見えるのは、やはり真っ白な世界だった。
俺たちは定期的に動くワイパーの音を聞きながら、かなり込み入った話をした。

 「ここで矢萩を待ってたの?」
俺が問い掛けると中本さんはベージュのジャケットを脱いで後部座席に放り投げた。いつもニコニコしている彼の顔は、さすがにその時だけは曇りがちだった。
「あいつの帰る場所はここしかないからな」
彼は車のシートにもたれかかり、白い世界を見つめながらそうつぶやいた。
俺はもう、とても黙ってなんかいられなかった。
髪もワイシャツもジャケットも、そして俺の心の中までもがすべて湿っぽくて、ひどく不快だった。
「矢萩が姿を消したのは、絵理の事が原因だよね? 矢萩は絵理と婚約してたんだろ? あいつは絵理を殺した男の存在を知って……それで姿を消したんだろ?」
俺が率直に問い掛けると、中本さんは少し驚いたような顔を俺に向けた。彼はもちろん笑ってなどいなかった。
「絵理は俺の姉さんなんだろ? 彼女はどんな人だったの? 教えてよ」
中本さんはしばらく黙って俺の目を見つめていた。彼はいつも矢萩が俺に向けるのと同じ優しい目をしていた。
「綺麗な子だったよ」
彼にたった一言そう言われた時、俺の中で絵理の存在が本物になった。その一言を聞いただけで、心臓がドキドキした。
中本さんは俺の髪が濡れているのを見て、紺色のハンカチを手渡してくれた。
俺がそのハンカチを広げて顔や頭を拭いていると、中本さんはフッと苦笑いをし、外の真っ白な世界に目を向けた。
「お前の親父さんは、女に縁のない人だったよ。女房に先立たれ、再婚しようとしていたお前の母親には逃げられ、挙句の果てに1人娘を失ったんだからな」
中本さんの目は遠い所を見つめていた。彼はきっと俺の知らない遠い過去を見つめていたんだ。
「お前と絵理は、腹違いさ。絵理の母親は川中さんの女房だった人だよ」
「その人はどうして死んだの?」
「元々体が弱い人だったらしい。最後は肺炎で亡くなったと聞いている」
俺はその時、生まれて初めて親父に同情した。
女房と女と娘を失う事は、ミキを3回失うのと同じ事のような気がしていた。
「智也と絵理の事は誰に聞いたんだ?」
中本さんは俺が返したハンカチを左手で受け取りながら、いつもの調子に戻ってそう言った。 でも俺は、それには答えなかった。
「絵理は、俺と似てる?」
俺がそう言った時、中本さんが今日初めて俺の目を見てにっこり微笑んだ。 彼は首に巻きつく紺色のネクタイを緩めながら、きっぱりとこう答えた。
「似てるよ。目元や口許がよく似てる。それに、気性もそっくりだ」
「絵理と矢萩は、どんなふうだったの?」
「絵理は勝ち気な子だったけど、智也に対しては従順だったよ」
俺は、自分で聞いておきながらその答えを聞いてもピンと来なかった。
矢萩は人を寄せ付けない雰囲気を持っている。彼が女とどうにかなる事が、どうしても想像できなかったんだ。
「先に惚れたのは絵理の方だぞ」
外の真っ白な景色を見つめながらそう言って微笑む中本さんが羨ましかった。絵理がどんな人だったか知っている彼が死ぬほど羨ましかった。
絵理はどうして一度も俺に会わずに死んでしまったのだろう。

 中本さんはもうすっかりいつもの彼に戻っていた。すぐ側で目尻を下げて微笑んでいるのは、俺の知っている彼だった。
でも、その目がいつも見た目通りに笑っているのかどうかは分からない。俺はその時、初めてその事を悟った。
中本さんが表面的に笑って見せたのは、そこまでだった。その後彼はもうニコリともせず、硬い表情を崩さずにただフロントガラスの向こうを見つめていた。
「智也はきっと、後悔していると思う……」
「え?」
「絵理が智也と知り合った時、彼女はまだ短大生だったんだ。絵理は短大を辞めてすぐに智也と結婚する事を望んだ。 でも智也は彼女が短大を卒業するまで結婚はできないと言ったんだ。2人はその事で随分揉めたらしいが、結果的に絵理は智也の言う事を受け入れた。だけど彼女は卒業旅行の最中にひき逃げされて亡くなったんだ」
「……」
「もう式の日取りも決まっていたのに。本当にかわいそうだったよ」
中本さんの言葉を最後に、車内に長い沈黙が流れた。フロントガラスの向こうには相変わらず真っ白な世界が広がっていた。
耳に響くのは強い雨の音と定期的に動くワイパーの音だけ。
矢萩も今頃どこかでこの雨の音を聞いているだろうか。

 長い沈黙を破ったのは、中本さんの方だった。
俺はもう目の前も頭の中もすべてが真っ白で、一言も口を利く事ができなかった。
「翼……さっきのは、ここだけの話だ。智也に絶対絵理の話はするな」
俺はうなづく事もできないくらい打ちのめされていた。 今までこの世で1番不幸なのは自分だと思っていたけれど、その思いは雨に溶けてどんどん薄れていった。
「これで分かっただろ? 智也はどんな事があってもお前を裏切ったりしない。あいつは、絵理の弟であるお前を決して裏切ったりはしない」
ワイパーの音と中本さんの声が重なった。
俺はその時、矢萩と初めて会った夜の事を思い出していた。
「いつも慎重なお前が、どうして俺の車に乗った?」
あの夜車の中で矢萩と2人きりになり、俺は彼にそう言われた。 今日と違って、外の景色は真っ黒だった。ほとんど人も車も通らない道に車を止め、彼は俺にそう言った。
その答えが今はっきりと分かった。でも本当は、最初から分かっていた。
矢萩は決して俺を裏切ったりしない。あいつはそんな卑怯な真似をするヤツなんかじゃない。 彼に初めて会った時から、そんな事は分かっていた。

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