月が見ていた  第1部
 28.

 高台に建つ矢萩のマンションの入口。
俺はガラスの自動ドアの奥に立ち、ぼんやりとしていた。
俺はもう何日もここへ通ってこうしていたから、マンションの住人には変な奴だと思われているに違いなかった。
奥に設置されているタッチパネルの前へ行って矢萩の部屋のインターホンを鳴らしても、相変わらず応答はない。
もう外は暗い。春といえども、夜はまだまだ寒い。ずっと暖房のないスペースにいるとどんどん体が冷えてくる。
園の前に捨てられた時も、俺はこうして1人で震えていたのだろうか。

 矢萩が姿を消して、ちょうど1週間。会社の皆は、そろそろ社長が行方不明なのではないかと気付き始めていた。 そして皆は矢萩がこのまま戻らなかったら自分たちはどうなるのかと心配をしているようだった。
だけど俺は一度たりともそんな事は考えなかった。 あいつは絶対に戻って来る。俺の心の中には、そういった根拠のない自信があった。
自動ドアが開くと、冷たい外の風が俺の髪を揺らした。
俺はそのたびにドアの向こうからやって来る人に目をやったけど、俺と目が合うのは矢萩以外の人間ばかりだった。
矢萩にもらった腕時計の針は、午後9時20分をさしている。
もうそろそろ帰らなければならない。毎日毎日俺の帰りが遅いからミキは心配していて、俺は今日彼女に必ず10時までに帰るからと言ってあった。
俺が遅くなる訳は、どうしてもミキには話せなかった。 矢萩が行方をくらました事を知ったら、彼女も不安を感じると思ったからだ。
9時半まで待って彼が戻らなかったら、今夜は帰ろう。俺はそう決意し、ゴミ1つ落ちていない床を見つめた。
俺は、毎日毎日どうしてここへ来るのだろう。
彼はきっと、帰ってきたらすぐに連絡をくれるはずだ。その時にイヤミの1つも言ってやれば十分なのに、俺はどうしてこんな淋しい場所で彼を待ち続けているのだろう。
それは俺にもよく分からなかった。ただなんとなく、彼が帰ってきた時誰かが側にいた方がいいと思っていた。
だけど、ただ刻々と時間だけが過ぎていった。
本当にもう帰らないと、今度はミキが淋しい思いをする事になる。

 俺は9時半になった時、しかたなく自動ドアから外へ出た。
20メートル先にはマンションの門があり、そのあたりは白いライトで照らされていた。
大通りへ出てタクシーを拾おう。俺はそう思い、白い光に向かって歩き始めた。
門へ続く道は、綺麗に舗装されていた。俺が歩くと、静かな景色の中にカツカツという足音がこだました。
それは、真っ直ぐ門へ向かって5メートルくらい歩いた時だっただろうか。
遠くの方から車の走る音が近づいてきて、俺は立ち止まった。
門の向こうから、見慣れた車がこっちへ向かってやってくる。俺はそのライトの眩しさに思わず目を細めた。
絶対に見間違えるはずなんかない。突然俺の姿を照らしたのは、矢萩の車のライトだった。


 俺は彼が車庫に車を入れてマンションの入口へやってくるまで、ずっとそこで待っていた。
1週間ぶりに会う矢萩は、いつもと少し違っていた。
彼は無精ひげを生やし、ノーネクタイでだらしなくワイシャツを着て、ピンストライプのジャケットを右手に持っていた。
俺を見つめる彼の目には、力がなかった。その時の彼は、まるで抜け殻のようだった。
「お前、こんな所で何してる?」
ずっとずっと彼を待ち続けたのに、俺に浴びせられた最初の一言はそれだった。
俺は抜け殻のような彼を見上げて何か言おうとしたけど、あまり気の利いた言葉は思い浮かばなかった。
「寒いんだ。何か温かい物を飲ませてよ」
矢萩は一瞬俯き、ズボンのポケットの中から家の鍵を取り出して奥のタッチパネルの前へ向かった。 彼には俺の言葉なんかまるで耳に入っていないようだった。
俺はそれでも彼の後を追いかけた。少なくともまだ帰れという言葉は言われていなかったから、少し気が引けたけれど黙って彼の後をついていった。
彼は俺が一緒にエレベーターに乗り込んでも、特別何も言わなかった。その時は、彼の目に俺が見えていないような気がしていた。

 俺が矢萩と一緒に彼の部屋へ入っても、特別な会話は何もなかった。
彼はいつものように電気は点けず、暖炉型ストーブに火を灯してその明かりでぼんやりと部屋の中を照らした。 主人が1週間も留守にしていたせいか、部屋の中は冷え切っていた。
俺は寒くてたまらなかったけど、そんな事を言い出せる雰囲気ではなかった。
俺は何も言わない彼に不安を感じつつ、ガラスの壁の前のリクライニングソファへ腰かけた。
その時ガラスの向こうの夜空に月は見当たらなかった。その夜は空に雲が多く、星もほとんど見えなかった。
矢萩はその時キッチンにいて、フローリングの床の上にはキッチンから洩れる白い明かりが細く描かれていた。
しばらくすると部屋中にココアの甘い香りが漂ってきて、俺は少し安心した。
矢萩は俺の話を全く無視していたわけではなかったようだ。きっと無口な彼はひどく疲れているのだろう。
俺はガラス越しに、こちらへ向かって来る彼を見つめていた。
キッチンの明かりが消えると部屋の中は本当にストーブ以外の光がなく、俺はその事にほっとした。
矢萩は左手に白いマグカップを持って俺に近づき、ソファの前の小さなテーブルにコトン、と音をたててそれを置いた。
マグカップはたった1つだけ。彼の分はないのだろうか。
俺は一瞬そう思ったが、だいぶ前に矢萩に言われた事を思い出し、妙に納得した。
「いつでも片手は空けておけ。両手が塞がっているのは好ましくない」
俺はこっちへ来たばかりの頃、彼にそう言われたんだ。
矢萩は隣のリクライニングソファに腰掛け、右手でけだるそうに長い前髪をかき上げた。
俺たちはそれから5分ほどの間、音のない時間を過ごした。
俺は時々ガラスの壁に映し出される彼を見ていたけれど、彼の方はただ目の前に広がる夜の闇を見つめていた。

 「飲まないのか?」
彼が自発的に口を利いたのは、それが初めてだった。
俺はいつか彼がそう言ってくれると思って、ずっとココアに口をつけずにいたんだ。
俺は体を起こしてテーブルの上のマグカップをそっと持ち上げ、それを黙って彼に差し出した。
すると彼は何も言わず、目の前に差し出されたマグカップを見つめていた。
「あんたが先に飲んでよ。毒が入ってるといけないから」
その頃、少しずつ部屋の中が暖かくなり始めた。ココアは少し冷めていたけど、ストーブの火が俺たちの体温を上昇させていた。
矢萩は俺の手からそっとマグカップを受け取り、ココアを一口飲んだ。彼はその後すぐにマグカップを俺に返し、ズボンのポケットの中から家の鍵と車の鍵を一緒に取り出してテーブルの上に投げた。 すると銀色の鍵が、ストーブの明かりで一瞬オレンジ色に煌いた。
俺は反射的にテーブルの上に手を伸ばし、2つの鍵をもぎ取ってそれをジャケットのポケットにねじ込んだ。
すると、今までおとなしかった矢萩が俺のその行動に強い反応を示した。 いつもの鋭い目つきで彼に見つめられると、やっと矢萩が帰って来たという実感が沸いてきた。
「何するんだよ。返せ」
「嫌だ」
俺は、矢萩の冷たい口調にもひるまなかった。その時自分の取った行動に絶対間違いはないと思っていたからだ。
「ふざけるな。鍵を返せよ」
「またどこかへ行くつもりなの? そんなの困るよ。あんたがいなくて会社は大変なんだから」
「そんなの知るかよ」
矢萩は吐き捨てるようにそう言ってソファから立ち上がった。彼はもう俺に鍵を返せとは言わなかった。
「お前、もう帰れ」
「嫌だよ」
矢萩は頭をかきむしりながら落ち着きなくフローリングの床の上をウロウロと歩き、時々大きくため息をついた。 俺はそんな彼の様子をソファに座ったままじっと見つめていた。
「早く帰れよ。お前を見てるとイライラするんだよ」
彼はずっと下を向いたまま俺の目も見ずにそう言って、その後すぐに寝室へ消えた。
俺は今夜だけは彼にどんなひどい事を言われても許せると思っていた。

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