月が見ていた  第1部
 29.

 体が痛い。この感覚はすごく久しぶりだ。
俺は体中が痛くて目を開けた。するとガラスの向こうの空が眩しくて、思わず毛布を頭からかぶってしまった。
いつもと違う朝の匂い。いつもと違う朝の光。そしていつもと違うベッドの感触。
3つの違和感が束になって襲い掛かり、俺は毛布を蹴って立ち上がった。
白く光るフローリングの床に立ち、両手を上げて体を伸ばしながらふと下を向くと、そこには見慣れたリクライニングソファがあった。
ああ、そうか。ここは矢萩の部屋だったんだ。
「やっと起きたのか」
その時、背後で矢萩の声がした。 振り返ると彼はもういつもの矢萩に戻っていて、すごくスッキリした顔でキッチンの横に立っていた。
彼はちゃんと髭を剃り、ビシッとスーツで決めて、いつものようにセンスのいいネクタイを首に巻いていた。 そして声も落ち着いていたし、自信たっぷりな目もいつも通りだった。
「お姫様から電話があったぞ。お前が帰ってこないし、連絡も取れないってな」
「あ……」
すっかり忘れていた。俺は昨日、夜の10時までに必ず帰るからとミキと約束していたんだった。
「電話も繋がらないと言っていたけど、お前、携帯の電源は入ってるか?」
俺は矢萩にそう言われ、慌ててポケットの中から携帯電話を取り出した。すると電池切れしている事が初めて分かった。
「お前は酔い潰れてここへ泊まった事にしておいたからな」
彼はそれだけ言い残してキッチンへ消えた。
心配して損した。昨夜はどうなる事かと思ったけど、彼はもう昨夜の彼じゃない。 頭も冴えているようだし、何もかもがいつも通りだ。

 俺が床の上に立ってぼんやりしていると、矢萩がキッチンの中から出てきて俺に赤い液体が入ったグラスを手渡した。
俺はそれが何の意味を示すのか分からず、とにかく赤い液体の匂いを嗅いでみた。するとそれが酒である事はすぐに分かった。
「何これ?」
「飲めよ。お前は酔い潰れた事になっているんだ。帰った時に少しくらい酒の匂いがしないとおかしいだろ?」
やっぱり彼の頭は冴えている。俺はそう思って口を開きかけた。すると俺が喋り始める前に、彼に先を越された。
「毒は入っていないから、今だけは俺を信じて飲め。俺はこの後車を運転するから、毒味はできないよ」
俺は淡々とそう言われ、何も言い返せなくなった。本当に、心配して損した。

 矢萩はその後俺を連れてマンションを出た。
そして俺は彼の運転する車に乗せられ、そこで彼にとても珍しい事を言われた。
「家まで送るよ。今日は会社へ出てこなくていいから、1日ゆっくり休め」
矢萩は本当にいつもと変わらない口調でそう言ったけれど、俺はまだ少し不安だった。
頭上に広がる曇り空のように俺の心はまだ完全に晴れていなかった。
俺は行方不明になった矢萩が必ず戻って来ると確信していた。だけどまた彼がどこかへ行ってしまうような気がして、このまま自分だけ家へ帰る気にはなれなかった。
「このまま一緒に会社へ行くよ」
俺はスッキリした彼の横顔に向かってそう言った。だけど彼は軽く微笑んだだけだった。
「少し聞きたい事がある。俺に電話が来なかったか?」
矢萩はその後すっかり仕事人間に戻ってしまい、俺に全くスキを見せなくなった。 でも彼は、そうすれば俺が少しは安心すると思っていたのかもしれない。
曇り空の下を長らく走り続けると、俺たちの乗る車はやがて朝の渋滞に巻き込まれた。
そして矢萩はノロノロと走る車の中でただ淡々と仕事の話だけを続けた。
「Y商事の中山さんから電話が来たか?」
「何度も来てたよ。あんたとどうしても話したいってさ」
「じゃあ、近藤さんの集金はどうなった?」
「あんたが集金に来ないと払わないって言ってる」
「それから、GS工業への支払いは済ませたか?」
「中本さんが決済したよ」
「いくら払った?」
「130万」
こうして俺は、いつも彼のペースに巻き込まれていく。
本当は俺が話したいのはこんな事じゃない。 彼は絵理を殺した男の顔を見たのだろうか。そして、その男に復讐する気はあるのだろうか。
俺はそんな事ばかりを考えながら前を行く赤い車をぼんやりと見つめていた。彼に聞かれる事に、淡々と答えながら。

 俺のマンションの前へ着くと、矢萩は静かに車を止めてドアのロックを解除した。
俺はその時彼に何か言いたかったけれど、結局気の利いた事は何一つ言えなかった。
「どうした? 早く降りろ」
なかなか降りようとしない俺に向かって、彼が小さくそう言った。
その時の彼はただ前だけを見つめていた。
俺はジャケットのポケットの中でカチャッと音がするのを聞き、昨夜の事を思い出してその中から彼の部屋の鍵と車の鍵を取り出した。それを矢萩に返した時、彼は一瞬目を伏せた。
「じゃあな」
そう言われると、もう俺がそこにいる意義は全くなくなり、しかたなく俺は車を降りた。 その時は外の風を感じる余裕さえなかった。
歩道の上に立って走り去る彼の車を見送った時、自分は無力だと感じた。俺は、人を殺す事しかできない無力な人間だ。
彼に泣きついてほしいとまでは思わなかったけれど、俺は少しくらいは相談を持ちかけられる事を期待していた。 でも彼がそうしないのは、きっと俺が頼りにならないからだと思っていた。


 家へ帰ると、真っ赤な目をしたミキが俺を出迎えてくれた。彼女は昨夜一睡もしていなかったようだ。
「ごめん」
俺はそれしか言えなかった。
その時俺の頭の中は矢萩の事でいっぱいで、他には何も考えられなかった。したがって、彼女にうまい言い訳をする元気も残ってはいなかった。
ミキは珍しく不機嫌だった。
彼女は白いパジャマ姿で黙って俺を出迎え、束ねていた髪を右手でほどきながらさっさとリビングへ戻ってしまった。 俺はこれほど不機嫌な彼女の姿を今まで見た事がなかった。
彼女は朝日に照らされるリビングの温かいソファにドカッと腰掛け、目をつり上げて宙を見つめていた。
俺はなんとかミキをなだめようとして彼女の隣に座り、すぐにその細い肩を抱いた。だけど彼女は俺に触れられる事を拒むようにさっと身をかわし、俺と少し距離を置いて座りなおした。
「怒ってるのか?」
俺が問いかけても、彼女は何も答えなかった。それどころか、彼女は俺の顔を見る事さえしなかった。
「悪かったよ。ごめん」
一応そう言ってはみたものの、謝っても無駄だという事はなんとなく分かっていた。 俺は彼女とこれほど気まずくなるのが初めてで、その事にすごく戸惑っていた。
だがこんな時でもミキの横顔はとても綺麗だった。きつい目をして唇を噛んでいても、彼女はやっぱり美しかった。

 俺はソファに腰掛けて彼女が何か言うのを待ち続けた。
考えてみれば俺が彼女との約束を破ったのは、これが初めてだった。
「ねぇ……私、何か仕事がしたい」
長い沈黙の後で彼女が最初に口にした言葉は、俺にとってすごく意外なものだった。
それを言う時、彼女は真っ直ぐに俺を見つめていた。ミキの目はもうつり上がってはいなかったけれど、やっぱりまだ不機嫌そうな顔をしていた。
「どうしてそんな事言うんだよ」
「私が仕事をしちゃいけないの?」
その腹立たしげな言い方に、俺は一瞬ひるんだ。
俺はその時、しばらく仕事の事ばかりを気にして彼女とあまり話をしていなかった事にやっと気がついた。
「どうせ私には何もできないと思ってるんでしょう?」
「そんな事、思ってないよ」
「私にできるのは、この体を売る事だけ。あなたはそう思ってるんでしょう?」
「何言ってるんだよ」
俺は彼女の目が真剣だったので、すごく切なくなった。 彼女が本気でそんな事を考えているとしたら、あまりにもつらすぎる。
俺は右手の拳を握り締めて幾度か深呼吸を繰り返し、なんとか気持ちを落ち着かせようとした。
ガラスの壁の向こうには、遠くへ続く灰色の空があった。フローリングの床は、雲の隙間から顔を出した太陽の光で照らされていた。
温かくて綺麗な部屋。その奥には広いキッチン。そしてすぐ手の届く所に彼女がいる。
俺はこの幸せを手に入れるために多くの犠牲を払ってきた。なのにどうして彼女がそんな事を言うのかまるで理解できなかった。
でも空によく似た彼女の灰色の目を真っ赤に変えたのは、間違いなくこの俺だ。

 「私、すごく嫌な女だね」
ミキは俯き加減で小さくそう言った。それは決して不機嫌な声ではなかったが、俺の知っている彼女の声とも少し違っていた。
「私、本当は娼婦をやめるのが怖かった」
「……」
俺は彼女の顔の表情を読み取ろうした。でも少し伸びてきた横の髪が邪魔をして、その表情を伺う事はできなかった。
俺は、彼女が遠く感じた。離れていた時でさえこんなに彼女が遠いと感じた事はなかった。 そして彼女もきっと俺との距離を感じている。俺にはその事が今、はっきりと分かった。
「お客さんから受け取るお金の半分以上は取られちゃうけど、あの頃の私はちゃんと自分の力で稼いでいたの。 もしも翼が私を見捨てても、ちゃんと自分の力で生きていける自信があったの」
「そんな事、言うなよ」
俺はその一言を言うだけで精一杯だった。
ミキは今まで、何も言わなかった。矢萩と同じように、何も言わなかった。 だけど何も言わないからといって何も考えていないわけじゃなかったんだ。
「今の私は、翼に捨てられたら生きていけない。翼がいなくなっちゃったら、絶対に生きていけない。 でもそんなの嫌なのよ。もう待つだけの暮らしは嫌。1日中ここにいるとそんな事ばかり考えて、気が狂いそうになるのよ」
彼女はそう言って、両手で顔を覆った。

 俺たちは、いつからこんなに気持ちがすれ違っていたのだろう。 俺はどうして彼女の不安を感じ取ってやる事ができなかったのだろう。
なんだか、急に昔が懐かしくなった。
下品なネオンに照らされながら彼女に会いに行き、やっと握った冷たい手の感触が懐かしい。
俺は、彼女とずっと一緒にいられればそれだけで幸せになれると信じていた。 だからこの手を汚してでも彼女を絶対ここへ連れてきたいと思っていた。
だけどもしかして、俺は間違っていたのだろうか。
俺はこのままだと彼女を失ってしまいそうで、ひどく不安を感じていた。
ミキは何も分かっていない。
俺だって、彼女がいなくなったらもう生きていけない。生きていけないというより、生きていく意味がない。
彼女は、そんな事が分からないような女ではなかった。
なのにどうして……何が彼女を変えてしまったのだろう。

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