月が見ていた  第1部
 30.

 6月最初の水曜日。
俺はその夜都会の街を離れ、仕事のために緑豊かな田舎町へと移動した。
都会の街は6月に入ると急に暑くなった。気温が高いというよりは、湿気が多くて蒸し暑いという印象だった。
同じ気温でも田舎の街は少し涼しく感じられた。それはきっと、俺の体が田舎に慣れているせいだと思った。
どこまでも続く木々。細い道を照らすのは車のライトだけ。
その道を慎重にゆっくり車を走らせていくと、やがて小さな街の光が見えてきた。
今日のターゲットは人口数千人の街に住む冴えない中年男。 そんな男を殺して得をするのはいったい誰なのか、俺にはさっぱり分からなかった。
「どうせ殺してしまう相手にいかなる感情も持つな」
俺はここへくる前、矢萩にそう言われた。でもやっぱりこういう仕事は気が滅入る。
すべてを独り占めしようとする金持ちを殺す事はためらわないが、世界の隅に追いやられて生きているような人間をわざわざ殺したくはない。
男が住む街は、以前俺が暮らしていた所によく似ていた。
何もなくて、申し訳程度のメインストリートには趣味の悪いネオンが輝くだけ。
俺はその街の繁華街をあっという間に走り抜けた。その時、一瞬懐かしい香りがした。
なんだか今日は気乗りしない。

 繁華街を抜けてしばらく走っていくと、道らしき物を3回曲がった所で右側に誰も近づかないようなドブ川が見えてきた。 外は真っ暗だというのに、川の水が濁っている事はすぐに分かった。
その辺りにはきちんとした道がなく、ただそこいら中に生えている雑草が風に揺れていた。
俺は雑草の中をしばらく真っ直ぐに走り、車を隠しておけるような場所を探した。
だがその辺りには本当に何もなく、手頃な場所を探すのにかなり手こずった。 やっとなんとかなりそうな所を見つけた時は、ターゲットを待ち伏せするべき場所からかなり遠ざかっていた。
人気のない林の中に車を止め、乾いた風に吹かれながら道なき道を引き返す。
俺は早く仕事を済ませて帰りたかった。だけど、まだしばらくは帰れそうにない。
真っ暗な野原を歩くと、今まで以上に気が滅入ってきた。
夜空に月はなかった。したがって月明かりが俺を導いてくれるような事もなかった。 だけどその代わりに鼻が曲がってしまいそうなほどひどい汚臭が俺をドブ川へと誘導してくれた。
俺はそこからどのくらい歩いたのだろう。とにかく雑草を踏みつけながら長々と歩いて行くと、やっと目的の場所へ辿り着いた。
そこはドブ川の曲がり角で、そこには今にも崩れ落ちそうな掘っ立て小屋があった。しかし、男を待つにはこの場所に潜んでいる しか方法がない。その辺りは本当に何もなく、人1人が隠れていられる場所さえなかなか見当たらないからだ。
俺は掘っ立て小屋の裏側に回り、真っ暗な中目を凝らして腕時計の針を見つめた。
その時の時刻は午後11時10分だった。
ターゲットはいったい何時にここを通りかかるのだろう。その時間は、はっきりとは分からなかった。

 俺は掘っ立て小屋の崩れ落ちそうな壁に寄り掛かり、暗闇を見つめながらふとミキの事を考えた。
彼女は今朝、仕事で家を空ける俺に笑顔でこう言った。
「今週の土曜日、翼の誕生日でしょう? ケーキを焼くけど、どんなのがいい? イチゴのケーキにする? それともチョコレートケーキがいい?」
俺たちは、最近あまりうまくいっていなかった。一見うまくいっているように見えるけれど、今までとはたしかに何かが違っていた。 俺たちの関係がおかしくなったのは、俺が初めて彼女との約束を破った日からだ。
あれ以来、俺はずっと不安を抱えて生きていた。
こうして俺が家を空ける時、彼女がどんな思いでいるのか気になってしかたがない。 そしてそれ以上に俺がいない間に彼女がどこかへ行ってしまいそうで、その思いがいつも俺を不安にさせた。
俺たちの関係は、最初から嘘っぱちだった。
翼の誕生日なんか、めでたくもない。俺の本当の誕生日なんか、きっと一生分からない。 嘘っぱちな誕生日なんか、彼女に祝ってほしくない。
ついさっきまでは風が吹くたびに汚臭が鼻についてすごく気分が悪かったのに、5分もするとその風に慣れてしまう自分が大嫌いだ。
今日のターゲットも、俺と同じ人種なのかもしれない。
彼は毎晩必ずドブ川の淵の道なき道を歩いて家路に着く。何故かメインストリートは避けて、いつもこの場所を通って帰る。
それは普通の人間なら考えられない行動だ。ここがいくら寂れた街だとしても、汚臭を浴びて帰るよりは安っぽい酒の香りを浴びて帰る方がまだましだ。
俺は、いつも大通りを歩けない人生を生きてきた。そしてそれは今も全く変わっていない。
最初は1分でもこんな所にいたくないと思ったのに、今はここにいて懐かしささえ覚える。


 俺はしばらくその場所で風の音を聞いていた。
その風の音に混じって誰かの足音が聞こえてきたのは、日付が変わって30分が過ぎた時の事だった。
俺はその足音に耳を集中させながら、暗闇の中で心の準備を始めた。
ジャケットのポケットには、たしかに注射器が入っていた。ズボンの後ろのポケットには、冷たい感触の銃が入っていた。
辺りは、本当に真っ暗だった。頼りになるのは自分の耳だけだ。
例の足音は、なかなか俺に近づいてこなかった。
耳に響く音と距離の感覚がよく分からなかったけど、恐らく最初の足音を聞いた時、ターゲットはまだずっと遠くにいたに違いない。
今夜の仕事は、うまくいけば一瞬で終わりだ。
男が掘っ立て小屋の横を通り過ぎた瞬間に注射器を突き刺せばいいだけだ。
俺はその一瞬のために何日も前から様々な事を考え、頭の中でこの仕事をどうやるかを何度もシュミレーションした。
足音は、確実に俺に近づいている。きっともうすぐ男は俺のすぐそばを通りかかる。
早く仕事を済ませてミキの所へ帰りたい。

 やがて規則的に聞こえていた足音が、一瞬だけ止まった。
俺はその時、今夜の仕事を延期するべきだった。
いつもの俺ならきっとそうした。これが矢萩なら、絶対に迷わずそうしたはずだ。
だけど、懐かしいゴミタメの匂いが俺のカンを鈍らせた。言い訳なんかできないけれど、そうに違いなかった。
辺りは真っ暗で、いったい何がどうなったのかその瞬間の事はよく覚えていない。
ただ俺は、計画通りに動いた。
俺はちゃんと男の足音を聞き、今だという時にポケットの中で冷たい注射器を握り締めた。
そして真っ暗闇の中、俺の横を黒い影が通り過ぎた。いや、通り過ぎたような気がしただけかもしれない。
俺はとにかく自分の感覚を信じ、一歩足を踏み出した。すると今俺の横を通り過ぎたはずの影がまたすぐ目の前に現れた。
いったいどうなっているんだろう……
そう思った時、突然下腹部に鋭い痛みが走った。
それは、俺の知っている痛みだった。前にも一度味わった事のある痛みだった。

 俺はやがて、遠ざかる足音を聞いた。
そしてその音が消え去った後は、風の音以外に何も聞こえなくなった。
掌には何かベトベトするものがまとわりついていた。頬の下には先の尖った雑草があった。 俺は自分がどうして地面に寝そべっているのか理解できなかった。
俺はその時、ちゃんと周りが見えていたのだろうか。
ただ、目の前が真っ暗だった。それは暗闇を見つめていたからなのか、目が利かなくなっていたからなのか、もうそんな事は全然分からなかった。
そして、耳に響く風の音がだんだん遠のいていった。一瞬、もう感じなくなっていたはずの汚臭が鼻についた。
その時俺は、すごく穏やかな気持ちだった。 何も見えず、何も聞こえず、懐かしい香りに包まれている俺は、すごく楽な気持ちだった。
もうこのまま眠ってしまいたい……
そう思って自ら意識を断ち切ろうとした時、さっきとは違う足音が遠くの方で聞こえた。
そしてその足音をかき消したのは、携帯電話が震える音だった。

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