月が見ていた  第1部
 37.

 翌日。俺の嘘っぱちな誕生日は、とても穏やかとはいえない1日になった。
枕の下に忍ばせた携帯が震え始めたのは、俺がまだ深い眠りの中にいた時の事だった。
その瞬間、瞼の向こうにぼんやりとした光を感じた。俺はベッドの上で寝返りを打ち、目が開かないまま枕の下へ手を入れた。
「もしもし」
携帯を耳に当てた後、自分がそう言ったかどうか記憶は定かではない。
とにかく俺は疲れていたんだ。あまりにも疲れすぎて、その時は本当に寝ぼけていた。 じゃなかったら、ミキと弟が一緒に眠るベッドの上で電話を取ったりなんかしない。
しかし電話の向こうから聞こえてきたその声は、俺の目を覚ますのに十分なインパクトがあった。
「1時間後にそっちへ行くから、マンションの前へ出て来てくれ。今夜は帰れなくなるかもしれないから、それなりの準備をして来いよ」
「え? 何?」
自分が電話の相手に向かってそう聞き返した事はちゃんと覚えている。でも俺の声は相手に届かなかった。 それは、この時すでに電話が切れていたからだ。

 俺はもう一度寝返りを打ってやっとゆっくり目を開けた。
カーテンの向こうは薄明るかった。でもまだ人々が動き出すような時間ではなさそうだった。
携帯の液晶画面を見つめると、そこには現在の時刻がはっきりと表示されていた。
午前5時10分。その表示を見ると、少し頭が痛くなった。
携帯が鳴るといつもろくな事がない。
俺はフラフラしながらベッドを降りて、ミキや弟を起こさないようにそっとリビングへ向かった。
電話をかけてきたのは矢萩だった。こんな時間に悪びれもせず電話をしてくるような奴は、矢萩くらいのものだった。
ガラスの壁に囲まれたリビングはもう明るかった。
俺は重い体をひきずってソファへたどり着き、ドカッと腰掛けて今度は自分から矢萩へ電話をかけた。
冷たい携帯を耳に当てて遠くの緑を見つめると、すぐに耳元で彼の声が聞こえた。
「もしもし。どうした?」
「どうしたはこっちのセリフだよ」
「それは後でゆっくり説明してやる。とにかく仕事に出かける準備をしろ」
仕事。その単語をはっきり聞くと、本当にすっきり目が覚めた。
何があったのか分からないが、すぐに仕事へ向かう必要ができたんだ。 俺はその事を理解し、すばやく電話を切ってシャワールームへ向かった。

 さっさとシャワーを浴びて再びリビングへ戻ると、ソファにミキの姿があった。 彼女はもちろんパジャマ姿で、まだ眠そうな目をしていた。
リビングはさっきより少しだけ明るさが増したような気がしていた。
「出かけるの?」
透き通るような灰色の目が俺を見上げていた。
俺は濡れた髪をタオルで拭きながら彼女の隣に腰掛けた。家を空けてばかりの俺は返す言葉がなかった。
俺が何も言えずにいると再びミキが口を開いた。その口調は、とても穏やかだった。
「今夜は帰って来られる? 誕生日パーティーをしようと思っていたんだけど」
「矢萩に突然呼び出されたんだ。今日は帰れないかもしれない。ごめん」
俺はひどく申し訳ない気持ちで彼女の問い掛けにそう答えた。するとミキは意外にも柔らかく微笑んだ。
「仕事ならしょうがないよ。じゃあ急いで朝ご飯を作るね」
ミキはそう言ってすぐに立ち上がり、足早にキッチンへ向かった。この日の彼女は妙に物分かりがよかった。

 ミキがキッチンへ消えると、俺は静かに寝室へ戻った。
弟はベッドの真ん中あたりでうつ伏せになって眠っていた。 薄い掛け布団は彼の呼吸に合わせて小さく上下運動を繰り返していた。
寝室のカーテンは閉め切られたままだった。でもその向こうから差し込む朝日が弟の姿を柔らかく照らしていた。
ベッドの端に腰掛けて小さな頭に触れ、柔らかい髪をくしゃっと乱すと弟がほんの少しだけ体を動かした。
本当は彼を起こして一言くらい声を掛けたかったけれど、それを我慢して俺は再び立ち上がった。


 矢萩は白い乗用車に乗ってマンションの前にやってきた。それが仕事用の車だという事は、言われなくてもすぐに分かった。
まだ朝の早い時間だったので外に人影はなかった。灰色のアスファルトの道は、不気味なほどに静かだった。
俺が無言で助手席に乗り込むと、矢萩はすぐに車を出した。
東の空は眩しかった。朝の光がナイフのように目に突き刺さって痛かった。
一方運転席の矢萩は落ち着いた様子で車を走らせていた。 眩しい朝日に目を細める事もなく、冗談の1つを言うわけでもなく、彼はいつも通りのダークなスーツ姿でハンドルを握っていた。
「このまましばらく走るから、眠ってもいいぞ」
矢萩は俺の顔も見ずにボソッとそう言った。
その時道路はガラガラだったけれど、彼はちゃんと法定速度を守ってドライブを続けていた。
まだ日が昇ったばかりの朝の早い時間だというのに、矢萩の横顔はやけにキリッとしていた。

 俺は何も言わずに助手席のシートを倒し、彼の言う通り少し眠る事にした。
決して目立たない一般的な乗用車に乗って矢萩はやってきた。 そして彼はどんなに道が空いていても法定速度で車を走らせていた。
その様子を見ただけで、今日という日がハードな1日になりそうな予感がした。
だったら今は眠っておいた方がいいと思った。昇ったばかりの太陽が沈んだら、頭も体も酷使する事になりそうだったから。


 俺はそれからどのくらい眠り続けたのだろう。
それはよく分からなかったが、とにかくしばらくすると車が停まるのが分かった。
「おい、起きろよ」
矢萩の声を聞いて目を開けた時、太陽はすでに高い位置にあった。 外は随分暑そうな気配だったが、車の中は涼しくて快適だった。
ゆっくり体を起こすと、腰のあたりが少しだけ痛んだ。それはもちろんずっと車のシートで眠っていたせいだった。
フロントガラスの向こうには草むらがあり、背の低い雑草が弱い風に揺れていた。 その奥には幅の広い川が見えて、流れる水は太陽が反射して光っていた。 目線を上げると、向こう岸に並ぶ高層マンションがいくつか見えた。
「今何時?」
俺は晴れた空を見上げて矢萩に尋ねた。しかし彼はそれには答えず、ひどく落ち着いた口調で全く別な事を言い始めた。
「向こう岸にレンガ色のマンションがあるだろう? ベランダに布団を干している女が見えるか?」
俺は青い空から少しずつ視線を落とし、矢萩の言う女の姿を探した。
レンガ色のマンションは1つしかなかったので、その存在はすぐに分かった。 そのマンションは縦に長い造りで、ベランダは各階に2つずつ並んでいるだけだった。
パッと見たところマンションは20階建てくらいで、布団を干している女は15〜16階あたりのベランダにいた。 向こう岸は遠くて顔までははっきり見えなかったけれど、髪が長くて小柄な女だという事はなんとなく分かった。
女は黒っぽい洋服を着ていた。ベランダに白い布団を2枚並べて干すと、彼女はすぐに部屋の中へと戻っていった。

 「あの人、誰なの?」
俺は矢萩に目を向けた。 しかし彼はちっとも俺の顔を見ようとはせず、まだ女の去ったベランダに視線を送っているようだった。
矢萩の横顔に特異なものは感じられなかった。切れ長の目も、長い前髪も、昨夜に比べて特に大きな変化はなかった。
彼はまたしても俺の質問に答えてくれなかった。ただそれから数秒後に、黙って1枚の写真を俺に手渡した。
若干身を乗り出していた矢萩は、運転席のシートに深く座り直して目だけを俺に向けていた。
右端が折れ曲がった写真には見知らぬ男が映し出されていた。 男は色黒で、目が小さくて、やけに痩せていた。
彼はカメラを真っ直ぐに見つめてにっこり微笑んでいた。しばらくその写真を眺めていると、俺はある事に気が付いた。
カメラを見つめる男の後ろには窓があって、その向こうにぼやけた青い看板が見えたんだ。
それはウイングファイナンスの側にある不動産屋の看板だった。 看板の文字は不鮮明でよく見えなかったけれど、それに間違いはなかった。
俺はその写真がウイングファイナンスのオフィスで撮られた物だとすぐに分かった。
男がワイシャツとネクタイを身に着けているところを見ると、彼が矢萩の下で働いていた人間だという事も容易に想像がついた。
写真を手にしたまま顔を上げると、すぐに矢萩と目が合った。
切れ長の目が一瞬キラリと輝いたように見えたのは、きっと気のせいではなかった。
「彼の名前は結城浩二郎。でも今は田所あきらと名乗っている。さっきベランダに出ていたのは結城の女だ。 彼は今あの部屋で女と子供と3人で暮らしている」
「そう……」
「女と子供を巻き添えにしても構わないから、今日中にそいつを殺せ」
矢萩は感情を押し殺した目をして淡々とそう言った。
どんなに恐ろしい事を言う時も、彼はいつも冷静だった。

 矢萩はいつも俺を1人で仕事へ行かせるのに、今日に限って同行した。
それは一見不自然な行動に思えたけれど、俺はその意味をすでに理解していた。
俺は古い写真を太陽にかざしてもう一度じっくりと眺めた。
結城という男は若くて知的に見えた。俺は彼の笑顔を見つめた時、矢萩ができる人間しか雇わないという事実を思い出していた。
「この人、いったい何をしたの?」
写真をゆっくりと下ろすと、その向こうに初夏の青い空が見えた。
この仕事の依頼人が矢萩であるという事は、もうすでに分かっていた。
「5年前に会社の金を持ち出して逃げたんだ」
「いくら?」
「2千万だ」
間髪入れずにそう言われ、俺は思わず顔をしかめた。
普段何億もの金を動かしている矢萩にとって、2千万という金は微々たる物に過ぎなかった。
彼がそんなはした金を盗んだ部下の命を狙うだなんて、俺にはとても信じられなかった。
「そんなくだらない事で人を殺すなんて、おかしいか?」
矢萩は俺の考えをすぐに読み取ったようだった。
彼は口許を緩ませて微笑み、静かにそう言った。でも彼の目は決して微笑んではいなかった。
「盗まれた金額がいくらだろうと関係ない。俺は裏切り者を決して許しはしない」
「……」
「結城は明日の晩ホテルのレストランを予約している。明日はあいつが金を持ち逃げしてからちょうど5年目の記念日なのさ。 でも豪華なディナーはキャンセルだ。そうだろう?」
彼はそう言いながら右手で長い前髪をかき上げた。
矢萩の口調はあまりにも穏やかだったが、俺はその言葉を聞いてゾッとした。
矢萩は決して裏切りを許さない。
彼は人に裏切られる事を最も嫌う。
もしも俺がいつか彼に背を向けたら、恐らく自分はすぐに消される。その時はきっとミキも弟も道連れにされる。
矢萩の言葉は俺の頭にその事実を鮮明に植えつけた。

 その日の空は真っ青だった。
レンガ色のマンションの壁は明るい太陽に照らされていた。
今頃ミキも俺の帰りを待ちながら布団を干しているのかもしれない。
女が去ったベランダを再び見つめた時、俺はふとそんな事を考えていた。

第1部 終わり


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