月が見ていた  第1部
 31.

 最後に聞いたのは、携帯電話が震える音。そして最後に味わったのは、体がふわっと浮く感覚。
俺はその後、すごく幸せで穏やかなひと時を過ごしていた。 頭の隅に自分は死んだという意識があって、その事が俺をほっとさせていた。
だけど、俺がほっとしたのはきっとわずかな時間だけだった。
瞼の向こうに淡い光を感じて、その後腹のあたりに鈍い痛みを感じ、やがて俺は目を覚ました。
目を覚ました俺が最初に見た物は、見覚えのある男の顔だった。そいつの顔は、ぼんやりと霞んで見えた。
俺がはっきりしない頭で最初に考えた事は、どうして矢萩が自分のそばにいるのかという事だった。

 「目が覚めたか?」
俺の視線は定まらず、彼の顔が二重に見えた。だけど、そう言ったのはたしかに矢萩の声だった。
そして見上げる矢萩の顔が1つになった時、腹部に強い痛みを感じて息が止まりそうになった。
俺はしだいに今の自分の状況が分かってきた。
俺はその時ベッドに横になっていて、辺りに消毒液の香りが充満していた。
そして俺は目だけを動かして周りを見つめた。
何もない部屋。灰色の天井。背中の下には薄っぺらな布団。そこは、俺の知らない無機質な部屋だった。
灰色の天井を見つめると、あまり思い出したくない記憶が頭に蘇ってきた。
今も記憶に残る真っ暗闇の映像とドブ川の匂い。
少しずつ少しずつ頭がはっきりしてくると、俺はやがて重大な事実に気が付いた。
俺は仕事に失敗したのだ。

 消毒液の香りが漂う部屋の中はやけに静かで薄暗かった。
矢萩はベッドの傍らにある硬そうな椅子に腰掛け、俺をじっと見下ろしていた。
彼の着ている白いワイシャツが、薄闇の中で眩しく輝いて見えた。
矢萩の長い前髪が邪魔をして、彼の表情はよく読み取れなかった。でも彼が笑っていない事だけは俺にもよく分かった。
俺は喋る事もできず、動く事もできず、ただ漠然と矢萩の様子を見つめていた。
自分が死んだと意識した時にはすごく穏やかな気持ちでいられたのに、矢萩の手に注射器が握られている事を知った時は突然心が乱れた。
やがて、矢萩が消毒液を含ませた脱脂綿を俺の左腕にこすり付けた。すると俺の皮膚にスッと冷たい感触が走った。
彼が手にしているのは、いつも俺が持たされる物と同じ大きさの注射器だった。
その細い針が今まさしく俺の腕に突き刺さろうとしている。
仕事をしくじった俺は、1本の注射器であっけなく殺されるのだ。
「それ、何の注射?」
俺は、どうしてそんな事を聞いたりしたのだろう。
矢萩は俺の言葉を聞いて注射針を一旦引っ込めた。そして彼は長く伸びた前髪をかき上げ、わずかに微笑みながらこう言ったのだった。
「痛み止めだよ。でも、嫌ならやめておくぞ」
とても不思議だった。
俺はその時、死にたくないと思っていた。意識を失っている間は死んでいる自分を連想してとても穏やかな気持ちになれたのに、その時俺は間違いなく死にたくないと思っていた。
「俺に殺されると思ったか?」
矢萩はワイシャツの袖をまくり上げながら冗談とも本気ともつかないような言い方でそう言った。
だけど俺は矢萩に殺されると思ったわけではない。今までずっと仕事をしくじった時が死ぬ時だと思っていただけだ。
「俺、失敗したんだろ?」
囁くような声でそう聞くと、矢萩は意外にもサバサバした口調であっさりと結論を述べた。
「あの男は死んだ。それだけだ」
「あんたがやったの?」
「お遣いに行くのとは違うんだから、他の奴に頼めないだろ?」
矢萩はその時、ちょっと苦笑いをした。こんな時に笑っていられるのは、きっとこの男ぐらいのものだろう。

 「痛い……」
俺は腹部に痛みを感じて思わず呻いた。額に汗が浮かんでいるのは、断続的に続く鈍い痛みのせいなのだろうか。
矢萩は冷たいタオルで俺の額を拭いてくれた。この人は優しいのか怖いのかよく分からない男だと思った。
「俺を信じて痛み止めを打つか? そうすれば、しばらく眠れるぞ」
彼は心配顔で俺を見下ろしていた。
腹のあたりが死ぬほど痛かった。矢萩を信じるとか信じないに関係なく、俺はきっとすぐに痛み止めを欲する事になるだろう。
だけど、眠ってしまう前にどうしても彼に聞いておきたい事があった。 もしも彼の打つ注射で自分が死んでしまうにしても、大きな疑問を抱えて死んでいくのはどうしても嫌だった。
「ねぇ、あんたはどうしてここにいるの? 俺が仕事に行っている間、あんたはいつも会社にいたはずだろ?」
「まぁな」
「俺を助けたのはあんただろ? あの時どうして俺のそばにいた? 俺が仕事を失敗すると思ったから? だからいつも近くで俺の仕事ぶりを見ていたのか?」
「あまり喋るな。お前は刺されたんだぞ。少しはおとなしくしろよ」
矢萩はいつも冷静だった。でも俺はその時すごく混乱していた。
矢萩はいつも俺に簡単に人を信用するなと言った。でも俺は、矢萩が少しは俺の事を信用してくれているものだと勝手に思っていた。
だからこそ、俺が死にかけた時彼がそばにいた事はすごく解せなかった。

 「俺もお前の親父にこうして助けられた事がある。その時は、今のお前と同じ気持ちだったよ」
俺はその一言ですべてを理解した。
矢萩は混乱する俺を責めようとはしなかった。そしてその訳は、彼にも俺と同じ思いをした経験があるからだった。
「人は失敗しないと成功しない。成功するためには一度の失敗が必要だ。だから最初の失敗は許される。 これは俺がお前の親父に言われた言葉だ」
矢萩の口調からは何の感情も読み取れなかった。彼はただ無表情でそう言って、時々俺の額に手を当てたり脈を取ったりしていた。
矢萩は疲れた顔も見せず、淡々としていた。
俺は仕事の時いつも周りの様子に気を付けていたつもりだった。 だけど、今まで仕事の時に彼の気配をそばに感じた事など一度もなかった。
この人はいったいどこでどうやって俺の行動を見張っていたんだろう。
その時俺には考えたい事がたくさんあった。だけど腹部の傷があまりにも痛くてろくに頭が回転しなかった。
「どうする? 痛み止めを打つか?」
矢萩にそう言われた時、俺にはうなづく事以外に選択肢がなかった。 何も考えられないほどの痛みに耐え続ける事はこれ以上無理だった。
黙って目を閉じると、全体的に薄暗い部屋が視界から消え、目の前が真っ暗になった。
それからすぐ左腕にスッと冷たい感触が走り、注射針が腕に突き刺さったのが分かった。
だんだん意識が遠くなり、腹部の痛みもしだいに感じなくなっていった。
俺が殺した連中は皆こんなふうに死んでいったんだ……
俺は薄れ行く意識の中で最後にそんな事を考えていた。


 痛み止めを打った後、俺は矢萩の言う通り眠りに落ちた。
次に目が覚めた時はまだ腹部が微かに痛んだけど、眠りに落ちる前よりは少し痛みが引いていた。
背中の下の布団は薄っぺらだったけど、俺の体はすごく温まっていた。
矢萩は椅子に座ったまま壁に寄り掛かってウトウトしているようだった。
窓のない部屋で横になっていると、今が朝なのか夜なのか全然分からなかった。
壁も天井も灰色のこの部屋はなんとなく空気がジメジメしていた。きっとここは地下室に違いない。
俺は少し頭がすっきりして、そういう事が分かるようになっていた。

 俺は腕組みして眠っている矢萩をしばらく観察した。
彼は眠っている時でさえ気を抜いていないように見えた。
ネクタイは緩めているしワイシャツの袖はまくり上げているけれど、彼はまるでスイッチが入ったらすぐに動き出すロボットのように見えた。
ここには2人きりなんだから、横になってゆっくり眠ればいいのに。 俺は一瞬そう思ったけど、もしかして矢萩はゆっくり眠る事に慣れていないのかもしれない。
俺は少し体に力を入れて起き上がる事を試みた。だけど腹に力が入らなくてすぐにそれを断念した。
すると微かな物音に気付いた矢萩が目を覚ましてゆっくりと立ち上がった。
「まだ痛いか?」
そう言う彼はさすがに少し疲れた顔をしていた。
俺は自由に動けない自分がすごく歯がゆくて、思わずシーツの端を握り締めた。
「起き上がれそうか?」
彼は眠そうな目で俺を見下ろし、静かな口調でそう言った。
本当はとても起き上がれる状態ではなかったけど、俺はそんな弱音を吐く事に慣れてはいなかった。
「平気。起きられるよ」
「そうか。じゃあすぐに起きるんだ。これからお前に行ってもらいたい所があるんだよ」
「え?」
俺は本当に驚いて彼を見上げた。
いくらなんでもこんな状態の俺に向かって彼がそんな事を言うとは想像できなかったからだ。
「これから仕事に行けっていうの?」
「そうじゃない。でも、できればすぐに行った方がいい。そのために別な車を用意しておいたからな」
矢萩はそう言いながらここを出て行く支度を始めた。
俺はそこいら中に散らばっている注射器やら何やらをかばんに詰め込む矢萩の様子を呆然と見つめていた。
矢萩は薄暗い部屋の中でキビキビと動いていた。
彼が疲れた顔を見せたのはほんの一瞬で、その時はもうすっかりいつもの矢萩に戻っていた。
そして俺はベッドに寝そべったままある事実を彼の口から聞かされたのだった。
「お前の母親が入院した。3時間車を飛ばせば病院に着くから、早く起きて会いに行け」
矢萩は神妙な顔つきで俺を見つめ、まくり上げたワイシャツの袖を下ろしながら淡々とした口調でそう言った。
彼の白いワイシャツがとても眩しかった。いきなりそんな事を言われた俺は急に動悸が激しくなった。
「何言ってるの?」
「早くしろ。彼女は危篤だ。今会わないと本当に一生会えなくなるぞ」
俺はそう言われた時、頭の後ろにひどい痛みを感じた。
ずっと憎み続けた母親の事を思い出すのはすごく久しぶりだった。 俺は母親の顔を知らない。それはもちろん、俺が物心付く前に母親に捨てられたからだ。
すると同時にもう消えかけている肩の傷がズキンと痛んだ。
昔園長にカッターナイフで切りつけられた傷。この痛みを俺に与えたのも、俺を捨てた母親だった。
「詳しい事を話しているヒマはない。とにかく早く起きろ」
「嫌だ。俺は母親になんか会いたくない」
「それでもいいから会いに行け!」
矢萩の有無を言わせぬ口調がやけに重く感じられた。
俺は矢萩に背中を押され、それからすぐに起き上がった。腹部の痛みはまだ残っていたけど、その時は肩の痛みの方がずっと激しかった。

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