月が見ていた  第1部
 32.

 俺が地下室から飛び出した時は、ちょうど午後2時だった。外へ出ると太陽の光に目が眩んだ。
俺は今、何故傷の痛みを堪えてまで車を走らせているのだろう。
昨夜刺された人間にこんな事をさせるなんて、矢萩はどうかしている。 でも彼の言う事を聞いてハンドルを握っている俺は、もっとどうかしている。

 交通量の多い道を走り続けると、車は何度も赤信号に引っかかって停まった。
右足でブレーキを踏むたびに腹部に鈍い痛みが走った。
矢萩が俺に持たせた物は、眠くならない痛み止めと新しい包帯だけだった。
フロントガラスの向こうに見える空は真っ青で、雲一つない晴天だった。 幅の広い道の両側には、綺麗に手入れされた花壇がどこまでも続いていた。
この道を2時間走り続けると、やがてゴルフ場の赤い看板が見えてくる。 そしてそこから右折すると、そのうち嫌でも白い病院の建物が目に付くらしい。
体中から汗が噴き出しているのに、俺は寒くてたまらなかった。
本当に俺は、どうしてこんな状況で車を走らせているのだろう。
俺は自分を捨てた親を死ぬほど憎んで生きてきた。
でも矢萩の下で働くようになってからは日々の暮らしに精一杯で人を憎む事すら忘れていた。
以前の俺は親を憎む事を糧にして生きていたのに、人は変わるものだ。 俺はその事に気付いた時、変わってしまった自分に本当に驚いていた。
これから母親に会って話ができたとしても、きっと俺は彼女に恨み言を言ったりはしないだろう。 かといって、生んでくれてありがとう、と言う事もないだろう。
だったら俺はいったい何のために彼女の元へ向かうのか。その答えはいくら考えても分からなかった。
強いて言えば、自分の本能が彼女に会いに行けと叫んでいるからだ。
俺は今まで誰にも頼らず1人で生きてきた。自分のカンだけを頼りに今日までずっと生き延びてきた。
だから俺は、そのカンを信じたい。俺は今ただその思いのためにハンドルを握っているのかもしれない。

 そんな事を考えながらドライブを続けていると、やがてゴルフ場の看板が見えたきた。
前を走るトラックに続いて右ウインカーを出すと、何故だか急に緊張してきた。
浅野吉江。それが俺を捨てた母親の名前だった。
俺はこれから死ぬほど憎んだその女に会いに行く。
彼女と対面した時、俺はいったい何を思うだろう。そして俺と対面した彼女は俺を見てどう思うだろう。


 矢萩の言う通り、右折後真っ直ぐに走り続けると嫌でも大きな病院の建物が見えてきた。
その白い建物は、細い道の左側に居座って精一杯自己主張をしていた。
もう夕方5時を過ぎていたけれど、外は十分すぎるほど明るかった。
俺の横にそびえ立つ建物はいったい何階建てなのか。 俺は漠然とそう思い、下から順番に窓の数を数え始めた。でも結局7つか8つ数えたところでよく分からなくなってしまった。
病院の前の通りは車が少なかった。だけどいざ病院の敷地内へ入るとその建物の前には数え切れないぐらい多くの車が停まっていた。
俺はきっと裏側にも駐車スペースがあると見込んでそっちの方へハンドルを切った。 するとそこにはアスファルトの上に白線を引いた駐車場がどこまでも続き、その半分ぐらいはまだ空いていた。
適当な場所へ車を置いて外へ出ると、また腹の傷が少し痛んだ。
夕方になってもまだ日差しは強く、その光が病院の窓へ反射して俺の目を幻惑させた。
表へ回って病院の中へ入ると、また消毒薬の香りが俺を包み込んだ。
明るい病院の中は足早に歩く看護師やパジャマ姿で歩く入院患者が溢れていた。
入口の正面には木造りの案内カウンターがあったけれど、そこには誰も人がいなかった。
俺はとにかく周りをグルッと見回した。
左側には長い廊下があり、右側には外来の受付があった。
そこはガラス窓で仕切られたスペースだったが、受付はもう終了しているようで、その窓の向こうは白いカーテンで覆われていた。
そして俺は受付の窓の横に病院の案内図があるのを発見した。
矢萩は浅野吉江の病室を俺にしっかりと教えてくれていた。内科入院病棟の8号室がそこだった。
俺は早速案内図へと近づき、まずは内科病棟がどこなのかを探した。そしてそれが分かった時、俺は奥の階段へ向かってゆっくりと歩き始めた。
その途中で談話室の横を通り過ぎると、入院患者が集まってお喋りする様子がチラッと見えた。
幅の広い階段の前へ辿り着いた時、もう消毒薬の香りは感じなくなっていた。
俺は何も考えずに明るい光が差し込む白い階段を一歩一歩上っていった。
俺はすごく淡々としていた。不思議な事に、その時は本当に何の感情も沸いてこなかった。

 内科病棟は2階だった。
病院の1階は少しザワついていたものの、入院病棟の階はわりと静かだった。
俺はまた周りを見回し、それらしき廊下を奥へと進んだ。
それらしき廊下とは、薄暗くてやけに静かな廊下だった。 よくは分からないけれど死にかけている人間は静かな所にいるような気がして、俺は淡く光る廊下を真っ直ぐに進んでいった。
廊下の右側には、処置室や診察室と書かれたドアがいくつかあった。そして左側には何も書いていないドアが規則的に並んでいた。
その廊下は不気味なほど静かで、そこには誰1人いなかった。自分の歩く足音が天井や壁に反射して、やたらと大きく耳に響いた。
廊下はどこまで進んでもずっと薄暗かった。
でもやがて、奥の方に廊下と交差する細い光を俺は見た。
その光がどこから来るものなのかをじっと見据えると、細い光の右側にある横開きのドアが少しだけ開いている事に気付いた。
どうやらその光は、病室の中から差し込む光のようだった。
俺はその光に導かれるように少しずつそこへ近づいた。そして俺は、その白い光の手前でそっと足を止めた。
5センチほど開いているアイボリーカラーのドアには、8号室という文字がくっきりと浮かんで見えた。
ここなのか。本当にこの中に俺を生んだ女がいるというのか。
俺は半信半疑でドアの5センチの隙間からそっと病室の中を覗いた。
するとそこには1台のベッドと外から光の差す大きな窓が見えた。しかしベッドに横たわる人間は誰もいなかった。
病室の中には白衣を身にまとった2人の女がいて、彼女たちは医療器具のような物を片付けたりベッドの上の白いシーツを剥がしたりしていた。
俺はその様子を見てすべてを悟った。俺は、母親の死に目に会えなかったのだ。

 俺は別にショックを受けていたわけではない。
俺には最初から母親なんかいなかった。ずっとそう思って生きてきたから、いないはずの母親に会えなかったからといってどうという事はなかった。
だけど、その後は何故だか視界がひどく霞んでいた。
俺はしっかりした足取りで廊下を引き返し、階段を下り、病院の裏手へ回ってちゃんと駐車場へ辿り着いたんだ。
だけど、自分の乗ってきた車がどこにあるのかどうしても分からなかった。 とにかく目の前が霞み、腹の傷が痛んで、その時の俺は何がなんだか分からなくなっていた。
俺は白線の引かれたアスファルトの上をフラフラと歩き、自分の乗ってきた車を探して歩いた。
早くここから立ち去りたかった。とにかく今すぐここから逃げ出したかった。
やっと自分の車を見つけるまでに、俺はいったいどのくらいの時間を要した事だろう。
俺が車の横へ辿り着いた時、もう遠くの空は赤く染まり始めていた。
俺は夕日が眩しくて、その真っ赤な色から目を背けた。
すると視界が突然クリアになり、俺は車の陰で何かが動くのをはっきりと見た。
車の前輪の横にしゃがみ込んで、軽石でアスファルトに落書きしている小さな子供。
俺はその時、初めて彼と出会った。

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