月が見ていた  第1部
 33.

 やっと会えた……
とてもおかしな感情だったが、俺は彼を見た瞬間すぐにそう思った。
俺たちは2台の車にはさまれた狭いスペースでめぐり会った。
俺はこの時踏みしめていた夕日の当たるアスファルトの感触を一生忘れないようにしようと思った。

 彼はサラサラな茶色の髪を風になびかせ、右手に持つ軽石を力強くアスファルトにこすり付けていた。
白いトレーナーを着た背中は丸まっていた。そして、袖のあたりがわずかに汚れていた。
手足の大きさや背格好から見て、恐らく彼は5〜6歳ぐらいだと思われた。
俺が彼の前に立つと、その影に覆われた彼が軽石を手に持ったまま顔を上げた。
俺は初めて彼の目を見た時、体が震えるほどの衝撃を覚えた。
不安げで焦点の定まっていない2つの目。彼は幼い頃の俺とまったく同じ目をしていた。
彼が顔を上げたのはほんの一瞬だけだった。彼は俺に全く興味を示さず、俺の顔を直視する事もなかった。
あの時、自分でもどうしてあんな事をしたのかよく分からない。
とにかく俺は彼を両手で抱え上げ、その場に立たせたんだ。
その時の彼はまるで人形のようだった。 知らない人間に触れられても全く抵抗せず、一言も喋らず、彼はただ黙ってされるがままになっていた。
俺は彼の足元に目をやってアスファルトの上の落書きをじっと見つめた。 でもそれは決して落書きと呼べるような代物ではなかった。
彼はただアスファルトの上に白いラインを描いていただけだった。 幾重にも重なったラインは縦に長く伸び、そこに交わるラインは1本も描かれていなかった。
「何を描こうとしてたんだ?」
俺は彼にそう尋ねてみた。でも彼は俺の言葉にちっとも反応しなかった。俺は一瞬、彼は耳が聞こえないのかと思った。

 それからしばらく気まずい時間が流れた。やがて彼は右手に持っていた軽石を手離し、チョーク代わりのそれは俺の車の下にコロコロと転がっていった。
「お父さんは?」
俺は彼にもう一度話しかけた。すると今度は彼が小さく首を振った。
「じゃあ、お母さんは?」
彼はその質問にすぐには答えなかった。ただその時、彼の両手が小さく拳を握った。
空は夕日の色に染まっていた。彼のトレーナーも赤く染まっていた。それはアスファルトの上の白いラインも同じだった。
「ママは、死んじゃった」
その感情のない声はひどく掠れていた。俺は返す言葉もなくただ黙って彼の肩に手をやった。
すると突然彼が顔を上げ、まるでスイッチが入ったかのように次々と俺に言葉を投げ掛けてきた。
「おじさんは出て行っちゃったし、ママは死んじゃった。さっきから知らないおばさんが僕の事を探してるんだ。 あの人は僕をどこか知らない所へ連れて行くつもりなんだよ」
彼は俺の腕を揺さぶりながら必死にそう訴えていた。
こんな時普通の大人は彼の言葉を子供の言う事と思って聞き流すのかもしれない。 でも俺は普通の大人ではなかった。だから彼の言葉の深刻さをすぐに理解する事ができた。
「僕はこれからどうなるの? これからずっと1人ぼっちなの? ずっとずっと、死ぬまで1人ぼっちなの?」
自分と同じ目をした彼が、唇を震わせて "1人ぼっち" という言葉を連発した。
ついさっきまで視界が霞んで腹の傷が痛かったのに、いつの間にかそんな苦しみはどこか遠くへ飛んでいってしまった。
俺はその時不思議と穏やかな気持ちになっていた。
その時は俺の腕を揺さぶる小さな手がただ愛しかった。 不安げに俺を見上げる大きな目も、ふっくらした頬も、すべてがただ愛しかった。
身寄りのない彼は恐らく施設へ送られる。そして彼は幼いながらにその事が分かっているようだった。

 「君のママの名前は?」
俺はこの時、自分のカンを信じて彼にそんな事を聞いた。
俺は何かに導かれてここへ来たという感覚がどうしても頭から離れなかった。
俺はずっと自分のカンを信じてここまでやってきた。俺は彼に会うためにここへ導かれたんだ。 他の人には絶対に理解できないと思うけれど、俺にはちゃんとそういう事が分かっていた。
「ママの名前は、浅野吉江」
彼の口からはっきりとその答えを聞いた時、俺はこいつを生んでくれた母親に生まれて初めて感謝した。
俺と同じ目をした小さな彼は、この世で初めて出会った肉親だった。


 「おばさんが来た!」
突然彼がそう言って俺の腕にしがみ付いた。
ふと顔を上げると、黒っぽい洋服を着た痩せ型の女が目に入った。彼女は右や左をキョロキョロと見回し、駐車場の中をゆっくりとうろついていた。でもその姿はまだ遠い所にあった。
「伏せろ!」
俺はそう言って強引に彼をしゃがみ込ませた。車の陰から再び黒服の女に目をやると、 彼女はまだ遠くの方に並んでいる車の付近をヨタヨタと歩いていた。
アスファルトに手をついて俺を見つめる彼の目は赤く染まっていた。俺は一瞬その目に吸い込まれそうな錯覚に陥った。
「俺と一緒に来い。いいな?」
その時俺は、有無を言わせぬ強い口調で彼にそう言った。 たとえ彼がそれを拒んだとしても、強引に彼を連れ去る覚悟でそう言った。
案の条彼はすぐにはうなづかなかった。彼は俺の目から視線を逸らし、泣き出しそうな顔で俯いた。
「俺がお前の運命を変えてやる。俺は絶対お前を1人にしない。お前が死ぬまでずっと一緒にいてやる。だから、俺を信じてついて来い」
夕日の下で彼が遠慮がちに顔を上げた。そして彼は渇いた唇を2〜3度舌でなめた。
その時俺はすぐにうなづかない彼をすごく気に入っていた。簡単に人を信じるようでは、この世じゃ生きていけないから。
車の陰から黒服の女を探すと、彼女はまだズラッと並ぶ車の間を歩いていた。彼女の姿はさっきより少しだけ俺たちに近づいていた。

 再び彼を見つめると、赤いその目に涙が滲んでいた。キラキラ光る大きな目はちょっとした宝石のように見えた。
彼の手は俺の半分くらいの大きさしかなく、顔も体も人形のように小さかった。
母親を亡くしたばかりの小さな子供にこんな決断を迫るのは残酷だったが、とにかくその時は時間がなかった。
「じゃあ、こうしよう。お前はあのおばさんと一緒にいたいか? それとも俺と一緒にいたいか? どっちだ?」
この時は早く返事が聞きたかった。彼と2人でいる所を黒服の女に見つかると面倒だったからだ。
もしも騒がれたら女を殺してでも彼を連れ去るつもりだったが、幼い子供にいきなりそんな光景を見せるのは忍びなかった。
俺は彼を絶対一緒に連れて行くつもりだったから、そんな事を聞くのは一見無駄のようにも思えた。 でも俺はできれば自分の意思で彼についてきてほしかった。
もう一度車の陰から黒服の女を見ると、彼女が徐々に近づいているのがはっきりと分かった。
俺は上着の上からそっと胸のあたりに手を当て、そこに銃がある事を急いで確認した。
彼がアスファルトに乗せていた両手を上げ、弱々しく俺の腕を掴んだのはそれからすぐ後の事だった。 それが俺にとってのいい返事である事はすぐに分かった。
宝石のような彼の目はまだ少し不安げだった。でも俺はちっとも迷わなかった。
黒服の女はまた少し俺たちに近づいていた。でも彼女にはまだ俺たちの姿が見えてはいなかった。

 「いいか。絶対声を出すんじゃないぞ」
言い聞かせるようにそう言うと、彼は黙って小さくうなづいた。
その後は、ただ必死だった。
とにかく俺は静かに車のドアを開け、まずは彼を助手席に乗せて身を伏せるように指示した。
その後俺は素早く運転席に乗り込み、横目で黒服の女を睨みながら車のエンジンをかけた。
フロントガラスの向こうには、真っ赤な空が広がっていた。
エンジンのかかる音に気付いた女は、一瞬俺の車に目を向けた。 彼女がこっちへ向かって2〜3歩足を進めた瞬間、俺はゆっくりとアクセルを踏んで車を発進させた。
アスファルトの上には駐車場の出口を案内する白い矢印が時々描かれていた。
俺はその矢印にしたがってゆっくりゆっくり車を走らせた。
本当はすぐにスピードを上げてそこから走り去ってしまいたかった。 でもそこを我慢してできるだけゆっくりと駐車場の中を走り続けた。車体に響くゆったりした振動が、もどかしさを倍増させた。

 やっと駐車場から脱出できる。
そう思った時、ルームミラーに黒服の女が映し出された。その時彼女はもう俺たちの乗る車を全く見ていなかった。
ミラーに映る彼女の姿はどんどん小さくなり、やがて消えてなくなった。
「ごめんな。もう少しそのままで我慢してくれ」
俺はその時初めて助手席にうずくまる彼に小さく声をかけた。 すると彼はほんの少し頭を揺らして "分かった" という合図をしてくれた。
病院の敷地を抜けて道路へ出る時、すぐ手の届く所にある彼の頭にそっと触れてみた。 そのサラサラな髪の感触が、やけに俺をほっとさせた。
フロントガラスの向こうには眩しい夕焼け空が見えた。その空は手前の方がより赤く、遠くの空は少し薄い色が広がっていた。
道路の上や病院の壁。風に揺れる樹木の葉や電信柱。その時、目に見える物すべてが夕日の赤に染まっていた。
俺は早く彼に顔を上げさせてやりたかった。そして赤く光る宝石のような目をずっと見つめていたいと思っていた。

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