月が見ていた  第1部
 34.

 俺はしばらく緊張した状態で車の運転を続けた。 国道から1本外れた通りは周りに車が多く、ずっと周囲の目を気にしながらハンドルを握っていた。
万が一誰かが追いかけてきたらどうしよう。俺はほんの少しだけそんな不安を抱えていた。
運転中ふと助手席に目をやると、小さな彼は俺に言われた通り黙ってそこにうずくまっていた。
そのまま20〜30分車を走らせると、空が暗くなる気配を感じた。空の色は夕日の赤い色から夜になる手前の紺色へと変化していた。
俺はその時彼の肩を叩いて起こそうとした。早く話がしたくて、もう我慢ができなかったからだ。
でも彼は顔を伏せてシートにうずくまったまま全く反応を示そうとしなかった。 遠慮がちに2〜3度肩を揺すっても、その態度にまるっきり変化はなかった。
俺は無反応な彼の事が心配になり、信号待ちで車を止めた時に彼を本気で起こそうとした。 でもその時スースーと小さく寝息が聞こえてきて、心からほっとした。
上着を脱いで掛けてやると、小さな体がちょっとだけ動いた。でもそれで彼が目を覚ますような事はなかった。
彼はきっと疲れていたのだろう。彼は母親が亡くなるまでずっと病院にいたのかもしれない。 そしてその間は眠れずにいたのかもしれない。
とにかく、今はこのまましばらく寝かせてやろう。
俺はそう思い、また黙って車を走らせた。

 そのうち外は真っ暗になり、ドライブを続けていると時々対向車のライトが目に沁みた。
2時間車を走らせても助手席の彼は一向に目を覚まさなかった。 俺は真っ直ぐな道を長々と走り続け、その間にいろいろな事を考えていた。
助手席でうずくまる彼は、今まであまり幸せに暮らしていたとは思えなかった。
不安げで焦点の定まっていない2つの目。彼のその目を見た時、俺はすぐにその事が分かった。
だいいち俺を捨てたような母親がきちんと子供を愛せるとも思えなかった。
俺は幸せに暮らしている人間の顔をよく知っていた。 自分の親にしっかり愛されている子供はいつも自信たっぷりな笑顔を見せるものだ。 子供の頃、同じ学校のほとんどの連中は皆そんなふうだった。
俺は彼を自分のようにしたくはなかった。うんと甘やかして、わがままなガキに育ててやりたいと思った。
これからの事を考え始めると、不意にミキの事を思い出した。
これからはミキに彼の世話をしてもらう事になるだろう。それなのに俺は彼女に全く相談せずに彼を連れてきてしまった。
でも、俺には確信があった。
もう待つだけの暮らしは嫌だと彼女は言った。そして、1日中家の中にいるとよくない事ばかり考えて気が狂いそうになると言った。
そんな彼女が彼の存在を拒むはずはない。ミキはきっと彼の事を歓迎してくれる。

 午後9時を過ぎた頃、車は少し淋しい通りを走っていた。助手席の彼はその時まだ眠っていた。
すれ違う車はまばらだった。狭い道の右側は山で、左側は林だった。
フロントガラスの向こうには丸くて明るい月が見えた。それはびっくりするほど大きくて、絵に描いたような真っ白い月だった。
グネグネと曲がりくねったその道を走り続けていると、助手席で眠っていた彼がやっとモゾモゾ動き始めた。


 「目が覚めたか?」
俺が声をかけると、彼は顔を上げて俺の目を見つめた。でもまだ体を起こそうとはしなかった。
「起きてもいいんだぞ」
そう言ってやると、彼は俺の上着を払い除けてきちんとシートの上に腰掛けた。 でもだからといって何か話すわけでもなく、ただ俯いてじっとしているだけだった。
「寒くないか?」
話しかけると、彼はいつも身振りでそれに反応した。その時は、小さく2度首を振ってくれた。
「真っ直ぐ前を見てみろよ。でっかい月が見えるから」
次にそう言うと、彼はシートに腰掛けたまま少し背伸びをしてフロントガラスの向こうを見つめた。 でも彼がそんな仕草を見せたのはほんの一瞬で、その後はまた俯いてじっとしていた。
彼は大きな不安を抱えていたに違いない。そして俺に強い警戒心を抱いていたに違いない。でもこの時はそれでいいと思っていた。
俺たちはその後もたいした話はせず、淡々とドライブを続けていた。

 午後10時半頃、車は久しぶりに広い通りへ出た。
その道は交通量もわりと多かったし、道沿いにコンビニくらいはありそうだった。
車の中はずっとずっと静まり返っていた。
本当は彼と少しは話がしたかったのに、とてもそんな雰囲気ではなかった。
俺はこの先どんな事があっても彼の味方だ。まずは彼にその事をちゃんと分かってもらいたいと思っていた。 でもそういう事は口に出して言うと嘘っぽくなってしまう。だから俺は何も言わなかった。
道の左側にコンビニの光が見えてきた時、俺はゆっくりとその店の前へ車を止めた。
コンビニの明かりはすごく眩しかった。その白い光は小さな彼の茶色い髪を遠慮がちに照らしていた。
「すぐに戻ってくるから、車の中で待ってるんだぞ」
ポン、と1つ彼の頭を叩くと、久しぶりに彼が顔を上げてくれた。でもその表情は硬かった。
俺は急いで店の中へ駆け込み、パンやジュースなどを適当に抱えてすぐにレジへ向かった。
若い女がレジを打っている間も俺はずっと彼の待つ車の事が気にかかってしかたがなかった。

 「腹減っただろ? 食えよ」
俺は店の前に止めた車の中で買ったばかりのパン3つとジュース2本をそのまま彼に手渡した。
するとすぐに隣でパンの袋を開ける小さな音がした。
彼は相当腹が減っていたようで、3つのパンをあっという間にたいらげた。 そして2本のうち1本のジュースをガブ飲みし、残りの1本には全く口をつけようとしなかった。
「全部飲んでもいいんだぞ」
俺がそう言ってやると、彼がまた小さく首を振った。ふと外を見つめると、その近くに公園がある事を示す看板が目に入った。
俺は再びハンドルを握り、その看板の矢印に従って公園へ続く道をドライブした。
ガタガタな道を走ると、隣にいる彼の髪が大きく揺れ動いていた。
野原の中を数百メートル走り続けると、やがて目の前に小さな池が見えてきた。俺は池の畔に車を停めてエンジンを切った。
「少し外の風に当たろうぜ」
俺はそう言って車を降りた。でも彼はシートに腰掛けたまま動こうとはしなかった。
外から助手席のドアを開けてやると、彼が顔を上げてぼんやりと俺の方を見つめた。その目はやはり焦点が合っていなかった。
「風が気持ちいいぞ。降りろよ」
彼はいつも俺の言葉に態度で応えた。その時もただ黙ってうなづき、それからゆっくりと大地の上に下り立った。
彼はいつも自分からは何も要求せず、俺が促すまで動く事さえしなかった。
外には涼しい風が吹いていた。その風が俺たちの髪を揺らし、同時に池の水を揺らした。 辺りには草のなびくサワサワという音が小さく響いていた。スッと息を吸い込むと、微かに緑の匂いがした。
その時彼は俺の隣に立って俯いていた。風に髪が乱れても全然気にするそぶりを見せずに。
「疲れたか?」
そうは言ってみたものの、彼が首を振るだけだという事はよく分かっていた。 そして案の定彼は小さく2度首を振った。するとその時池の水がチャポン、と小さく鳴った。
「魚がいるのかもしれないぞ」
そう言って池を指さすと、彼はその事に少し興味を持ったようだった。
「もっと近づいてみるか?」
彼がうなづいたので、俺たちは池の手前まで歩いて進んだ。 池の向こうには小高い丘があり、そのてっぺんに位置する淡いライトがその辺りをぼんやりと照らしていた。
池のそばに立つと、彼は初めて自分の意思で行動した。それはとても小さな事だったけれど、彼はしゃがんで水の中を覗き込んだんだ。
「何か見えるか?」
俺も彼に付き合って水の中を覗き込んだ。でも淡く照らされる池の水は濁っていて、そこに何があるかはよく分からなかった。
彼は少しリラックスしてきたのか、池の水に手を入れてその冷たさをたしかめたり、足元に生えている草をちぎったりし始めた。
俺は彼が1人遊びする様子をしばらく眺め、なんとなくほっとしていた。

 「そろそろ行くか?」
俺たちの休憩時間は10分ほどで終わりを告げた。
彼は俺の言葉にちゃんと反応し、立ち上がって風に乱れた髪をサッと整えた。
その後彼は淡い光の下でじっと俺の目を見つめた。彼はそれ以来不安げな顔を見せる事がなくなった。 きっとこの10分の間に彼なりに自分の気持ちの整理をつけたのだろう。
そのふっくらした頬に手を伸ばすと、肌の柔らかさが俺の掌に伝わってきた。
柔らかい頬の肉を軽くつねると、彼が初めて笑顔を見せてくれた。それはとても子供っぽくて、人懐っこい笑顔だった。

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