月が見ていた  第1部
 35.

 重い荷物を抱えてエレベーターへ乗り込むと、久しぶりに腹の傷がズキンと痛んだ。
でも、あと少しだ。もう少しでミキの待つ家へ帰る事ができる。
俺はマンションのエレベーターの中で長い1日の出来事をぼんやりと反すうした。 しばらく暗闇の中をドライブし続けたせいか、エレベーターの中を照らす光がやけに眩しく感じた。
矢萩に尻を叩かれて地下室を出たのが昨日の午後2時だった。 それから腹の痛みを堪えて車を走らせ、夕暮れ前には浅野吉江の入院する病院へ辿り着いた。そしてこの腕の中にいる彼と出会ったのが夕方6時頃だった。
地下室を出てから約12時間が経過していた。その間は緊張の連続だった。

 フラフラになって家の玄関へ入ると、どっと疲れが出て一瞬腰が砕けそうになった。
それでもなんとか立っていられたのは、この胸に抱き締めた弟のおかげだった。
彼はスースーと寝息を立てて眠っていた。今俺がぶっ倒れたら、こいつの安眠が妨げられてしまう。
午前2時。さすがに家の中は静かだった。この時間の帰宅では、いくらなんでもミキが起きて待っているはずはない。
でも俺は決して淋しいとは思わなかった。腕に抱く弟の重さと温かさが、淋しさを忘れさせてくれた。
俺は真っ暗な玄関で靴を脱ぎ、静かな廊下を歩いてリビングへ向かった。玄関や廊下と違って、リビングは若干明るかった。 それはガラスの壁の向こうから月明かりが差し込んでいたからだ。
今宵の月はずっと俺を見守り続けてくれていた。車に乗っている間も、家へ帰ってきた時も、ずっと静かに見守ってくれていた。
少しずつ薄闇に目が慣れてくると、ソファやテレビの位置をはっきりと確認する事ができた。 当然だが、部屋の様子は俺が家を出た時から全く変わっていなかった。
この時部屋の中には微かにコーヒーの香りが漂っていた。恐らくミキは眠りに就く前にコーヒーを飲んだのだろう。
ふとそんな事を考えていると、突然寝室のドアが音もたてずに開いた。 静かにしていたつもりなのに、ミキは俺の帰宅に気づいて目を覚ましたようだった。 もしかしてこの時彼女はまだ眠りが浅かったのかもしれない。
パジャマの上にカーディガンを羽織ったミキが寝室を飛び出してゆっくり俺に近づいてきた。
俺は彼女の姿を見ると心からほっとした。でも彼女は俺の方なんかちっとも見ていなかった。
「この子、誰?」
ミキは俺の胸で眠る小さな弟を見つめ、驚いたような声を出した。 でも、それもそのはずだ。俺は彼女に連絡する事もなくいきなり彼を連れ帰ってきたのだから。
俺はとにかく寝室のベッドへ弟を寝かせ、それからリビングでミキと話をする事にした。
幼い弟の存在は俺たちの仲をもう一度強く結び付けてくれる。俺はその時、そう確信していた。

 寝室からリビングへ戻って座り慣れたソファに腰掛けると、すごく気持ちが落ち着いた。
その時リビングの床には明かりの灯ったキッチンから光が零れ落ちていた。 部屋に漂うコーヒーの香りがさっきより強くなっていた。どうやらミキはもう一度コーヒーを入れようとしているようだった。
キッチンの奥から聞こえる食器のぶつかり合う音が、更に俺の気持ちを落ち着かせてくれた。
「さぁ、話を聞かせて」
ミキはキッチンから零れ落ちる光に導かれて俺の隣へ座り、テーブルの上にコトン、と音を立ててコーヒーの入ったマグカップを2つ置いた。
ミキの髪には少し寝癖が付いていたけれど、そんな事に関係なく彼女はいつでも美しかった。
ソファの上に投げ出された彼女の手にそっと触れると、その温もりが俺の全身を駆け抜けた。
俺はこの温もりを手に入れるために今までずっとがんばってきたんだ。
俺はその事実を胸に刻み、彼女の手をぎゅっと強く握り締めた。するとミキの目が俺を見つめて優しく微笑んだ。

 その後彼女は黙ってコーヒーを一口飲んだ。
俺は床の上に目を落とし、ゆっくりと率直に話をした。
「あのガキ、俺の弟なんだ」
二口目のコーヒーを飲もうとしていた彼女は俺の一言で体の動きを止めたようだった。 それでも彼女は何も言わず、俺の次の言葉を待っていた。
「あまり詳しい事は聞かないでくれ。とにかく昨日俺の母親の行方が分かって、そいつに会いに行ったんだ。 でもその女は入院先の病院で死んだ。弟を残して、死んじまったんだ」
俺は部屋に差し込むキッチンの光を見つめ、病院で見た光景を思い出していた。 病院の廊下と交差する細い光。あの白い光を見た時、俺は母親の死を悟ったのだった。
「あのガキを見た時、すぐに弟だと分かった。すごく不思議だけど、それが血の繋がりってやつなのかもしれない」
俺は目の前の光から目を逸らし、テーブルの上のマグカップを掴むために身を乗り出した。すると一瞬腹部に激痛が走った。
「お父さんは?」
震える手でやっとマグカップを掴み取った時、ミキが遠慮がちにそう言った。俺は腹の痛みに耐えながらその質問に短く答えた。
「親父は、とっくに死んだ」
この時俺はあまり細かい説明をしなかった。
弟はたしか "おじさんは出て行っちゃった" と口走っていた。
彼の言う "おじさん" が弟の父親かどうかは分からなかったが、とにかくあいつに明確な父親は存在しないようだった。
俺の親父はもちろん、あいつの親父も死んだも同然だ。

 ソファのあたりにキッチンの光は届いていなかった。
腹がズキズキ痛んで、俺の額には脂汗が滲んでいた。でも薄闇に助けられてその汗がミキの目に止まるような事はなかった。
ミキは硬いソファの背もたれに寄り掛かり、マグカップを手にしたままぼんやりと宙を見つめていた。
この時彼女が何をどう考えていたのかは分からない。でも俺が次に言った言葉に、彼女は敏感に反応した。
「弟は身内がいなくなって施設へ入れられるところだったんだ」
「え?」
「あいつを引き取りに来た女が辺りをウロウロしてた。だから俺は……」
「ダメ。絶対ダメよ。あの子を施設に入れたりしちゃダメ。あそこがどういう所か、翼もよく知ってるでしょう?」
彼女の声は震えていた。ミキは厳しい顔つきで俺の目を真っ直ぐに見つめていた。 ソファのあたりは薄暗かったけれど、彼女の目が潤んでいる事はすぐに分かった。
ミキはその時、つらい過去の事を思い出しているに違いなかった。
「ここで3人で暮らせばいいじゃない。2人よりも3人の方がきっと楽しく暮らせるわ」
ミキが俺の弟を拒むとは到底考えられなかったが、彼女の方からそう言ってもらえた事は幸運だった。
俺はミキの事も弟の事も1人ぼっちにしたくはなかった。
「あいつの面倒を見てくれるか?」
彼女が深くうなづくと、心の底から安心した。
「じゃあ、まずあいつに名前を付けてやらなくちゃいけないな」
小さくそう言うと、ミキがクスッと声を出して微笑んだ。そして俺はゴクッと喉を鳴らしてコーヒーを飲んだ。
ここへ来て名前を変え、それと同時に運命までも変えてしまうのは、俺たち家族の共通点だった。


 俺はミキを先に寝室へ行かせ、1人でバスルームへ向かった。
キングサイズのベッドにはすでに弟が眠っている。俺がしばらく戻らなくても、彼女は淋しがったりしないだろう。
脱衣所で裸になると、腹部に巻かれた包帯の上に血が滲んでいるのが分かった。 刃物で刺された後に相当動き回ったから、それは当然の事だったのかもしれない。
そっと包帯をはずすと、今度は血で染まったガーゼが露になった。 傷口に貼り付いたガーゼを取るのはかなり苦痛だったが、そのまま放っておくわけにもいかなかった。
腹部の傷はへその右側に存在していた。傷の大きさは約4センチくらいのものだった。この時すでに出血は止まっていた。
俺は携帯を手に持ってガラス張りのシャワーブースへ足を踏み入れた。タイルの床は、少し冷たかった。
シャワーを浴びる前にまずは矢萩へ電話を入れなくてはならない。彼は俺からの電話を待っているに違いないのだから。
話し声が外へ漏れるとまずいので、俺はまずシャワーのお湯を出した。するとシャワーブースの中に熱い雨の音が響き渡った。
本当はすぐにシャワーを浴びたいところだったけれど、携帯が濡れないように配慮して壁に掛けたシャワーヘッドをガラスの壁面に向けた。
ガラスの向こうの鏡には、携帯を耳に当てて立つ裸の自分が映し出されていた。

 矢萩はすぐに電話に出た。彼はやっぱり俺の電話を待っていたようだった。
「無事に帰ってきたよ」
「そうか。ご苦労だったな」
シャワーをBGMにした矢萩の口調は事務的だった。彼はその時俺の母親の事については一切触れなかった。
俺も疲れていたから、その時は余計な話をしない事にした。 どうせ夜が明けたら会社へ行って必然的に彼と会う事になる。だから細かい事はすべてその時に話そうと思っていた。
「腹の傷は痛むか?」
彼にそう言われ、鏡に映る腹の傷をじっと見つめた。 その時すでにシャワーブースを囲むガラスは湯気で曇りかけていた。でも俺の目には傷口がはっきりと見えた。
腹の傷は塞がりつつあるようで、そこから血が流れ出す様子はなかった。 そしてこうして立っている限り痛みが襲ってくるような事もなかった。
「大丈夫。こんなの、かすり傷だよ」
俺が自信たっぷりにそう言うと、矢萩がフフッと鼻で笑った。
「ちゃんと包帯を巻いて会社へ来いよ」
「分かってる」
「ご苦労だったな。じゃあ切るぞ」
彼はそう言って一方的に電話を切った。俺はシャワーブースの外へ携帯を投げ出し、今度こそシャワーヘッドを自分に向けて熱いお湯をかぶった。

 やがて俺はガラスの向こうに立つ自分と目が合った。それはもちろん鏡に映る自分だった。
俺はその時、最初にここでシャワーを浴びた時の事をふと思い出していた。
あの頃は体中に傷があった。皮膚の色は青や緑色だった。 でも今はすっかりその傷が癒され、肌の色は褐色に変わっていた。
しかし今度は腹部に新たな傷が加わった。ナイフで刺された傷は殴られたり蹴られたりした傷とは全然違っていた。
俺はこの傷の意味をちゃんと覚えておこうと思った。
俺はこの傷を追った後、弟とめぐり会う事ができたんだ。今の俺には守るものが2つある。それはもちろんミキと弟の2人だ。
新しい自分と、仕事と金。そして愛する女とこの世でたった1人の弟。
俺はやっと欲しいものをすべて手に入れる事ができた。これでもう他に欲しいものなど何もない。
今日からが新しい俺の本当のスタートだ。
俺はこの先2つのものを守るために生きていく。この先ただそれだけのために生きていくんだ。

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