月が見ていた  第1部
 36.

 夜が明けて俺が出社した時、矢萩はもう社長室にいた。
俺はすぐに彼の元を尋ねた。どうしてもすぐに話しておきたい事があったからだ。
午前9時。社長室の銀色に光る冷たいドアノブを回すと、案の定あっさりとドアが開いた。 そしてそれは2枚目のドアも同じだった。
矢萩は俺が必ず来ると分かっている時にはこうしてドアを開けておく事にしているようだった。 それはちょっと無用心にも思えるが、彼に言わせると合理的という事になるのかもしれない。
矢萩はドアから1番遠い所にいた。彼はデスクの上に乗せた書類に目を通しているようだった。
俺が行くと、彼はゆっくりと顔を上げた。
「調子はどうだ?」
そう言う彼の声から感情を読み取る事は困難だった。俺がデスクへ近づくと、彼の手がソファへ座れ、と合図をした。
デスクの手前にあるソファへ腰掛けると、しゃれたガラステーブルに反射する蛍光灯の光が少し眩しく感じた。
矢萩もデスクを離れ、ソファへドカッと腰掛けた。そしてカーペットの上に落ちていた小さなゴミをそっと拾い上げた。 彼にはダークグレーのスーツが悔しいくらいよく似合っていた。

 俺は切れ長の目にしばらくじっと見つめられた。その時彼は俺が話し始めるのを待っているようだった。
「本当は、言わなくても分かってるんだろ?」
最初にそう言った時、俺は彼の目がわずかに微笑むのを見逃さなかった。
ここで問い詰めても彼はシラを切るだけだ。だから俺はそんな事はしなかった。
でも俺にはもうちゃんと分かっていた。矢萩が本当に俺に会わせたかったのは浅野吉江ではなく、彼女の息子の方だったんだ。
「浅野吉江には息子がいたんだ。俺、そいつを連れて帰ってきた」
俺はすべてを知っている人間に事情を説明するという作業を行わなければならなかった。 これはタネを分かっている人間に手品のトリックを話すようなものだった。
でも矢萩が何も語らない以上、弟を連れ帰ったわけを話さなければならない。 そう考えた俺は、地下室を出てからの事をすべて彼に打ち明けた。
病院へ着いた時、もうすでに母親が亡くなっていた事。その後駐車場で小さな弟とめぐり会った事。
弟を施設へ入れるために大人たちが動き出していた事。そして、俺がどうしてもそれを阻止したいと思った事。
俺はその話をする間ずっと矢萩の表情を観察していた。
彼は邪魔くさそうに前髪をかき上げたり、時々小さくうなづいたりしていた。 そして俺は、分かり切った話を淡々と続けながら彼の胸の内を推察していた。

 俺の母親の行方を掴んだ彼が、弟の存在を知らなかったとはとても思えない。
矢萩は浅野吉江の命が長くない事を知っていたに違いない。それが分かった時、彼は絶対に弟を放っておけないと思ったはずだ。
弟は直接絵理とは血が繋がっていない。でも、あいつは絵理と血を分け合った俺の兄弟だ。 それが分かっている以上、矢萩は絶対に彼を放っておく事ができなかったはずだ。
だから彼は俺を母親の所へ向かわせたりしたんだ。俺が弟の存在を知ったら、必ずどうにかして彼を連れ帰ってくると分かっていたんだ。 そして今朝俺が弟の件で頼み事をしに来る事までちゃんと計算していたんだ。社長室のドアがすんなりと開いたのは、きっとそのせいだ。
恐らくこの推理に間違いはない。これでも少しは矢萩の事を知っているつもりだから、そのくらいの事は俺にも理解できる。
「そういうわけだから、いろいろと頼むよ」
俺は最後はその言葉で締めくくった。弟のために戸籍を用意してくれとか、そんな面倒なセリフはすべて省略した。

 俺の話が終わると、矢萩はしばらく俯いて何かを考えているようだった。
彼が右手の指でガラステーブルを叩くトントン、という音が小さく部屋の中に響いた。 ガラステーブルの表面には、相変わらず蛍光灯の白い光が反射していた。
「名前は?」
矢萩がふと顔を上げ、俺に当たり前の質問をした。 俺はミキの戸籍を用意する時にも彼女の名前をどうするか聞かれた記憶があった。
この時弟の名前にはいくつか候補があった。それは俺が朝の短い時間で考えたものだった。
でも俺は自分が考えた名前を口にするのはやめた。俺は矢萩の目を見つめ、彼に弟の名を委ねた。
「いいのが思い付かないから、あんたが考えて」
「え?」
「地に足が付いてるような、どっしりした名前がいいな。じゃあ、よろしく頼むよ」
彼を突き放して立ち上がると、矢萩が珍しく驚いた表情を見せた。 さっさと歩き出すと、彼は社長室を去って行く俺の背中にこんな言葉を浴びせかけた。
「そんなの俺が決められるわけないだろ?」
「なんでも自分で決めるくせに。今更何言ってるんだよ」
そう言って振り向くと、ソファから立ち上がった矢萩が突然俺に何かを投げて寄こした。 反射的に両手でキャッチしたそれは、どうやら車のキーのようだった。
俺は内側のドアの前で立ち止まり、もう一度矢萩の顔を見つめた。彼はその時ズボンのポケットに手を入れてこっちを見ていた。
「明日はお前の誕生日だろ? 1日早いけど、それは俺からの誕生日プレゼントだ。 地下駐車場のA-8番に車が置いてある。今日からそれはお前の物だよ」
矢萩はそれだけ言うと、今度は自分から俺に背を向けた。この時俺は銀色に光るキーを掌に握り締めていた。
「ありがとう」
短く礼を述べると、矢萩は俺に背を向けたままでバイバイ、と手を振った。
その背中はとても大きくて、俺の目に眩しく映った。その眩しい背中を見つめた時、俺は不意にある事を思い付いた。
「ねぇ、今夜一緒にメシを食いに行こうよ」
「野郎2人でか?」
彼は少し笑いを含んだ声でそう言った。でも俺の申し出をはっきり断るようなそぶりは見せなかった。
「誕生日の前祝いだよ」
そう言って念を押すと、矢萩はもう一度バイバイ、と手を振った。彼はもう二度と振り向かなかった。


 午後7時。俺は矢萩と一緒にホテルの洋食レストランへ来ていた。
この時俺は最高にいい気分だった。矢萩がくれた車は4WD車で、その乗り心地がすごく良かったからだ。
「あまり浮かれて暴走するな。帰りはちゃんと安全運転で行けよ」
テーブルを挟んで彼と向き合った時、矢萩は俺にそう言って釘を刺した。
俺たちはそれぞれ自分の車を運転してホテルへやってきたのだが、矢萩は俺がいつもよりスピードを出している事に気づいていたようだ。

 それほど気取りのないホテルのレストランは3階にあった。
俺たちは窓際の席へ案内され、二つ折りにされたメニューを眺めて何を食べるかを考えた。 そしてわりとすんなりオーダーを決め、すぐにメニューを閉じて窓の外の景色を見つめていた。
しかしそこから見える景色はビルの群れ以外に何もなく、その様子はあまり気持ちが安らぐものではなかった。
その時外は暗くなりかけていたが、まだ景色は全体的に青い色をしていた。 でもそこから見えるビルの窓にはすでにいくつか明かりが灯っているようだった。
「いい店だな」
矢萩は珍しくお世辞を言った。この店へ来るのは俺が決めた事だったが、店自体はそれほど格式の高い所ではなかった。
テーブルの上に飾られている花は造花だったし、客の入りが少ないせいか黒いワンピース姿のウエートレスは4〜5人集まってお喋りをしていた。 壁に貼られたポスターはホテルの安い宿泊プランを宣伝するための物だったが、それはすっかり色褪せていた。
「お決まりですか?」
矢萩が手を上げて合図すると、いかにもアルバイトという印象の若い女がオーダーを取りに来た。
薄化粧をした女の髪は金色に近い色で、その長い髪は束ねられる事もなくユラユラと揺れていた。
「コース料理を頼む。車で来ているから、ワインは遠慮しておくよ」
「はい」
若い女は短くそう返事をしてさっさとどこかへ消えて行った。
矢萩はその後しっかりと俺の目を見つめて感慨深げにこう言った。
「今までよくついて来てくれたな」
突然そんな事を言われ、俺は少し恥ずかしくなった。 矢萩がそんな事を言う優しさを見せたのは、もしかして誕生日プレゼントの1つだったのかもしれない。

 しばらくすると広い店の中に突然ピアノ曲が流れ始めた。それは生演奏ではなく、有線放送のようだった。
そういえば矢萩と初めて会った時、車の中にピアノ曲が流れていた。 あのピアノの音色は彼との出会いの場面を思い出す時必ず一緒について回るものだった。
矢萩が一瞬微笑んだのは、彼も同じ事を考えていたからなのかもしれない。
彼に面と向かって見つめられると、なんとなく心が痛んだ。
俺は絵理の事を知って以来彼にじっと見つめられるのが苦手になっていた。絵理にそっくりな俺の目を見て、彼が彼女の事を思い出しているような気がするからだ。
「あんた、女とかいないの?」
その時俺は大マジメにそう言ったつもりだった。でもそれを聞いた矢萩は前髪をそっとかき上げ、肩を震わせて笑うだけだった。
「お前にそんな心配をされるようじゃ、俺も終わりだな」
彼が笑顔でそう言った時、さっきのウエートレスが俺たちのテーブルに水の入ったグラスを2つ運んできた。
そして俺たちの会話は一時中断された。

 俺がグラスの中の水を少し口に含むと、矢萩もなんとなくといった様子でグラスを持ち上げた。
するとその時彼の目が店の入口に向けられ、そこで矢萩は体の動きをピタッと止めた。
矢萩の目は、なんともいえない表情をしていた。 それは懐かしい物を見るような、遠い昔に思いを馳せるような、そんな複雑な表情だった。
俺は彼の目線を追いかけ、軽く振り返った。すると入口を入ってすぐの所にミキと小さな弟の姿があった。
ミキは辺りをキョロキョロ見回していたが、俺の姿に気づくとほっとしたような笑顔を見せた。 しかし俺の向かい側に矢萩の姿を見つけると、今度はその表情に少し緊張が走った。
俺は今夜家族3人で食事をする予定だった。ミキには弟を連れて7時にこの店へ来るように伝えてあった。
矢萩はここに2人が来る事を知らなかったし、ミキと弟はもちろんここに矢萩が同席する事を知らなかった。

 「社長さん、こんばんは」
ミキは俺たちのいるテーブルの横に立ち、そう言って矢萩に頭を下げた。
彼女は空色のワンピースを着ていた。それは風が吹くとふんわり膨らむようなゆったりしたデザインの物だった。
「こんばんは。その色、よく似合っているね」
矢萩はミキの灰色の目を見つめ、軽く微笑んで挨拶を返した。そしてその切れ長の目はその後すぐに弟へ向けられた。
弟は不安げな顔をしてミキの横に佇んでいた。彼の小さな手は、しっかりとミキの手を握り締めていた。
小さな弟は随分とオシャレな格好をしていた。白いカッターシャツの上に紺色のベストを着て、少し緩めのズボンは麻だった。
今朝家を出る時、弟はまだベッドで静かに眠っていた。 俺は出がけにミキへ金を渡し、彼に必要な物を買い揃えておいてくれと頼んだのだった。
恐らく2人はここへ来る前に洋服や何やらの買い物を済ませてきたのだろう。
その時間は2人の距離を近づけたに違いなかった。ミキの手を強く握り締める弟の手がその事実を物語っていた。
「ほら、社長さんにちゃんとご挨拶して」
ミキは弟を見下ろし、まるで母親のようにそう言った。弟はしばらく黙ってミキの顔を見上げていたが、やがて遠慮がちに矢萩の目を見て彼なりに精一杯の挨拶を行った。
「こんばんは」
それは、蚊の鳴くような声だった。すると矢萩は彼に微笑みかけ、彼なりの挨拶を返した。
「こんばんは、リク」
矢萩がそう言った時、彼以外の全員が驚きを見せた。
ミキは大きく目を見開いていたし、"リク" と呼ばれた弟はわけが分からずぽかんとしていた。 そして俺は、口を半開きにして矢萩の目を見つめていた。

 「じゃあ、俺は失礼するよ」
その時矢萩がテーブルに両手をついて立ち上がろうとした。店の中にはどこかで聞いた事のあるピアノ曲が小さく流れていた。
俺は立ち去ろうとする矢萩をすぐに止めようとした。でもそれより先に彼を制したのはミキだった。
「帰らないで。私、社長さんとお話がしたいわ」
その一言で、また矢萩の動きが止まった。
お互いにぎこちない表情で見つめ合う矢萩とミキの間には、すごく不思議な空気が流れていた。
俺は以前にもその空気を味わった覚えがあった。しかしそれがいつだったのかは最後まで思い出せなかった。
「とりあえず、座ったら?」
2人が長く見つめ合っていた時、俺はミキにそう言ってその場の空気を変えた。
ミキは俺の隣に座り、弟はゆっくりと矢萩の隣に腰掛けた。
「今日は兄貴のおごりだぞ。なんでも好きな物を食え」
矢萩がリクにそう言った時、俺たちが注文したコース料理の前菜が運ばれてきた。
弟はぼんやりとした目で皿の上に乗った野菜を見つめ、矢萩はぼんやりとした弟を見つめ、ミキは穏やかに微笑む矢萩をじっと見つめていた。
矢萩は弟に "今日は兄貴のおごりだ" と言った。この日の食事代は、全部彼が支払ってくれた。

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