月が見ていた  第1部
 4.

 翌朝は大忙しだった。記念すべき仕事初日の朝だ。
矢萩には午前9時に迎えに行くから出かける用意をしておけと言われていた。 なのにその日俺は生まれて初めて朝寝坊というやつをやらかした。
朝の光に包まれて目が覚めた時、俺の頬の下にはフカフカの枕があった。 真っ白だったはずの枕カバーには、小さなシミがついていた。 心なしか下唇の辺りが湿っぽい。俺は右手の甲でヨダレを拭き取り、続けてその右手を枕の下へ持っていった。
枕の下には矢萩から受け取った携帯電話があった。 俺はその着信を知らせる振動を感じて目が覚めたんだ。
「もし……もし」
寝起きのせいか、すんなりと声が出なかった。 だが電話の向こうの矢萩ははっきりとした口調で俺をどやした。
「やっぱりまだ寝てたのか。もう8時40分だぞ。さっさと起きて用意しろ。あと10分でそっちへ行くからな!」

 やばい。
俺はすぐに飛び起きてバスルームへ向かった。
本当はリビングルーム奥のガラスの壁から朝の景色を見てみたかったけれど、もうそれどころじゃない。
ここには必要な物がなんでも備え付けられていると言われていたけれど、たしかに洗面台の棚には歯ブラシから髭剃りまで、なんでも置いてあった。まるでホテル並みだ。
俺はとにかく歯ブラシを口の中へ突っ込んでガシガシと歯を磨き、今度はちゃんと綿のパジャマを着た自分の姿を鏡に映した。
なんとなく左目が腫れていた。それに、寝ぐせがひどい。

 矢萩は時間に正確な男だった。歯磨きを終えてうがいを済ませ、四方八方にはねている髪を濡らしてドライヤーを手にした途端、もうインターホンの音が俺の耳に届いた。 でもまぁ、そうだろう。たかが10分間でできる事といえばそれが精一杯だ。
俺は濡れた髪からポタポタと雫が滴り落ちるのも気にせず廊下に出て玄関のドアを開けた。 するとそこには、企業戦士矢萩の姿があった。
彼を最初に見た時は黒ずくめでなんだか怪しげで、絶対仲良くしたくないタイプだと思ったけれど、その朝の矢萩はまるで別人のようだった。
薄いグレーのスーツがビシッときまっていて、首に巻かれたストライプのネクタイがちょっといかしてた。 表情を読み取るのが困難なほど長い前髪はきちんとブローされ、横の髪と一緒になっていた。 その時の彼はとても善良で信頼できる大人の男に見えた。
「まだそんな格好してるのか。入るぞ」
矢萩はピカピカに光る皮の靴を脱いで、廊下を真っ直ぐに歩いていった。彼の手には黒いかばんと新聞が握られていた。
俺は彼の後を追いかけ、言い訳をした。
今までこんなドジを踏んだ事は一度だってなかったんだ。 いつも緊張して眠っていたから、起きなければいけない時間を寝過ごすような事は一度もなかった。 とにかく今日は特別なんだという事を彼に分かってもらいたかったんだ。
「ごめん。こんな事は初めてなんだ。あんたは俺の事をだらしないヤツだと思ったかもしれないけど、本当に寝坊するなんて生まれて初めてなんだ」
矢萩はガラスの壁から朝日が差し込むソファへ腰掛け、新聞を広げた。 だけどすぐに読む仕草は見せず、ちゃんと目の前に立つ俺の目を見つめていた。
「あと10分待ってよ。すぐに用意するからさ」
俺は簡単に言い訳を済ませると再びバスルームへ向かって歩き出した。 ビシッときめた矢萩の前に立つ俺はパジャマ姿で目は腫れていて、髪は雫をたらしていた。 この状況を早くなんとかしたかった。俺もちゃんと身支度を整えて、早く矢萩と対等になりたかった。
だが矢萩の一言で、俺はすぐに立ち止まる事になる。
「今何時だと思ってるんだ? ちゃんと時計を確認したか?」
「え? まだ9時前だろ? あんた、さっき電話でそう言ったろ?」
俺は振り返って矢萩にそう確認した。だが彼は俺をじっと見つめているだけで返事をしなかった。
俺はテーブルの上に乗せてあったリモコンを掴み、急いでテレビをつけた。 すると天気図を見ながら何か喋っている女が映り、その画面の左上には7:40という数字が表示されていた。

 俺は反射的に矢萩を睨みつけた。だけど彼はもう新聞を読み始めていて、俺の事なんか見てやしなかった。
「どうしてこんなくだらないウソつくんだよ。まだ7時40分じゃないか」
返事はない。彼は俺を無視してただ新聞紙上の小さな文字を目で追っていた。
俺は彼が両手で持っている新聞を剥ぎ取り、もう一度同じ質問を繰り返した。
「おい! どうしてウソつくのかって聞いてるんだ! 聞かれた事にはちゃんと答えろよ」
新聞紙は真っ二つに破れて朝日の当たる温かな床の上にパラリと落ちた。
「ああ……まだ読んでいないのに、ひどい事するな」
矢萩はソファへ腰掛けたまま前かがみになって破れた新聞を拾おうとした。 俺はそれを阻止しようと新聞紙を廊下の方へ蹴り付けてやった。矢萩のせいで罪のない新聞紙は受難に遭ってばかりいた。
その時俺はものすごい形相で彼を睨みつけていただろう。 だが矢萩はひるむ事もなく、かといって笑顔も見せず、ただ腕組みをして俺を真っ直ぐに見つめていた。
「お前は俺が言う事をなんでも信じるのか? 俺が今は夜中の3時だと言えば、黙ってそう信じるのか?」
「ふ、ふざけるな!」
この屁理屈野郎。俺はその言葉を辛うじて呑み込んだ。
「簡単に人を信じたりするな。すべてを疑え。時間を確認しなかったのはお前のミスだ。人のせいにするな。 分かったら早く出かける支度をしろ。これ以上がっかりさせるなよ」
彼の口調は穏やかだった。だが呆れているようにも聞こえた。
彼はほとんど表情を崩さないし、声を荒げる事もない。でも恐らく感情を持たないわけではない。
俺は一言も言い返す事ができなかった。矢萩が言った事に間違いは何一つなかったからだ。 それにパジャマ姿で雫をたらしながら何を叫んでも、説得力に欠けるような気がしていた。
矢萩は新聞を読む事を諦めたらしく、テレビのチャンネルを切り替えてニュース番組を見始めた。
彼はもう俺の事なんか見向きもせず、ソファに深く腰掛け、足を組んでじっとテレビに見入っていた。
俺は彼と朝日に背を向けて、バスルームへ引き返すしかなかった。
ガラスの壁から外の景色を見るのはまたもお預けだった。 時間があるからといって外の景色を楽しむ浮かれた背中を矢萩に見せるほど、俺は図々しくはない。

 悔しい。
洗面台の蛇口をひねり、思い切り冷たい水をかぶって頭を冷やした。 鏡の中の俺は、未熟者の顔をしていた。
思い切り強くひねった蛇口の水が鏡にまで飛び散り、ゆっくりとラインを描いて下へ流れ落ちていく。
未熟者の俺は鏡の中で涙を流しているように見えた。 いつもこうだった。いつだって俺の頬に涙が零れ落ちる事はない。 でも、本当は頬とは別な場所でいつも涙を流していた。
俺はずっとあの町を飛び出したいと思っていた。そして昨日、それをやり遂げた。 だけどそれですべてが終わったわけではない。そんな事は分かっていたはずなのに、心のどこかに隙があった。
1人のベッドに興奮して矢萩に電話をしているような場合じゃなかった。 クローゼットに入っているスーツを見てにんまりしているような場合でもない。
今日が新しい俺のスタートなんだ。俺はまだスタート地点にいる。 大変なのはこれからだ。矢萩の目は、そう言っていた。
俺はいったいどんな仕事をさせられるのだろう。 だけど、大体の想像はついた。きっと人を欺くような事をやらされるんだ。 さっき矢萩が言った事は、そのために必要な心構えに違いなかった。
俺は、いつも試されているんだ。
矢萩に誘われて車に乗った事。差し出されたサンドウィッチをあっさりと口に入れた事。
「これ以上がっかりさせるな」
きっと彼の言うこれ以上とは、あの時の事から始まっているに違いない。
洗面台の鏡に映るのは未熟者の俺。
片目を腫らして、髪はずぶ濡れで、どこか自信なさげな目をしている。
水道の蛇口はイカレていて、定期的にポタ、ポタ、と水の滴り落ちる音がした。
だけどよく見ると蛇口はしっかりと締められていて、しばらく注目していても水滴が流れ落ちてくるような事はなかった。
結局ポタ、ポタ、という音は未熟者の髪から滴り落ちる雫の音だった。
俺はドライヤーを手に持って、その音をかき消した。そして、鏡の上に零れ落ちた涙をそっと拭き取った。
泣いてなんかいられない。バスルームの床は冷たい。早く朝日のストーブに当たりたい。
俺はもう何も考えず、とにかく早く髪を乾かす事に専念した。 用意が遅れれば遅れるほど自分の失点になると感じていたからだ。

 10分ほどで髪を整えてやっとリビングルームへ戻ると、そこにはパンの焼ける香りとコーヒーの香りが充満していた。
俺はそっとキッチンへ近づいて中を覗いてみた。 するとそこには、朝日を背中に受けて包丁を握っている矢萩の姿があった。
彼は鼻歌を歌いながらまな板に乗せたキャベツを手際よく千切りにし、それが一段落すると今度はガスコンロに乗せたフライパンの上に2つの卵を片手で割って落とした。
俺はしばらく彼に見とれていた。
キッチンを動き回る彼は俊敏で、しかも手つきは器用で、そして楽しそうで、俺はその時また矢萩の別な側面を見たような気がしていた。
「あ、牛乳買っておくのを忘れた」
矢萩が冷蔵庫の中を覗きこみながら小さくそうつぶやいた。 彼が冷蔵庫のドアを閉めて顔を上げた時、やっと俺と目が合った。
俺は冷蔵庫の中に何が入っているかを知っている。 卵、ハム、チーズ、バター、ソーセージ、ミネラルウォーター、その他もろもろ。 とにかく、フォードアの大きな冷蔵庫の中には隙間のないほど食料が詰め込まれていた。
「よぉ。朝メシはまだなんだろ?」
矢萩は朝日を背負っていて、逆光で、俺の目からは彼の顔が少し滲んで見えた。
でも、わざわざ目を細めてまで彼の表情を読み取ろうとする事はしなかった。 彼が今どんな顔をしているかは見なくても分かっている。
彼は今朝ここへ来た時から一環して穏やかな表情を崩さなかった。 新聞を読む時も俺をチクリと刺した時もテレビを見る時も、彼の目はいつも優しくて険しい表情を見せる事はなかった。 昨日の夕方、俺の体の傷を見た時以外は。
彼は俺が不要になった時にも同じように優しい目をして俺を切り捨てるに違いない。 そんな気がしてならなかった。

 怪しげな雰囲気を持つ矢萩。
企業戦士矢萩。
鼻歌を歌いながらキッチンで朝食の用意をする矢萩。
いったいどれが本物の彼なのだろう。それとも全部が本物なのだろうか。もしくは全部が偽者なのか。
俺は矢萩という男がいよいよ分からなくなった。


 「首が苦しいよ」
間違いなく午前8時25分。俺は矢萩の車の助手席に乗り、愚痴っていた。
肩パットの入ったスーツも、首に巻いたネクタイも、すべてが初体験だった。 白いワイシャツの襟は糊が効きすぎていて擦れると首が痛い。 だがそれ以上に、俺の首を締め付けているネクタイという代物がうざったくてたまらない。
「最初は誰でもそうさ。だけど、そのうち慣れるよ」
矢萩はそう言って俺を見つめ、目元だけで微かに微笑んだ。 だがその後彼の目はただ次々とやってくる信号の赤や青のシグナルを追いかけているだけだった。 そしてその目は、俺を見つめる目と全く同じだった。 信号も石ころも人間も、彼にとっては同じようなものなのかもしれない。
そのうち慣れる、か。
たしかに、人は慣れると何も感じなくなる。 俺はあっという間にネクタイに慣れ、そのうち首を締め付けられていないと物足りなくなるのかもしれない。
広い道路を走って行くと、立派な家やマンションが次々と見えてくる。 スーツ姿の男女が皆同じ方向へ歩いて行くのは、きっとそっちの方に駅があるからだ。 ランドセルを背負った子供たちが皆大人と逆の方向へ歩いて行くのは、きっとそっちの方に学校があるからだ。
さっきまで晴れていたのに、その時間になると遠くに黒い雲が見えた。 仕事の初日だというのに、暗雲が立ち込めていた。
だいたい俺は、これからどこへ行って何をするのか全く知らなかった。
本当はかなり不安で、矢萩の口からこれから先俺がどうなるのかをちゃんと聞いておきたかった。 でもさっきの事があるから、彼に何を聞いても本当の事を言ってくれないような気がしていた。

 マンション前の広い道路を抜けて左へ曲がると、そこは別世界だった。
信じられないくらい背の高いビルが次々と俺の目に飛び込んでは消えていく。 マンションの倍くらい高いビルがごく普通に、そこいら中に存在している。
マンションのガラスの壁から見る景色は遥か遠くまで続く空。下を見れば、まるで住宅地図。
昨日の夕方マンションの近くの洋食屋へ行った以外は外へ出なかったから、すぐ近くにこんなすごい世界があるとは知りもしなかった。
俺は夕方マンションを出て近所を歩いた時、ここは大都会だと思った。 人が多くて、どこまでも飲食店や衣料品店がずっと続いていたからだ。
だけど、あの辺りは住宅街なんだという事が今ようやく分かった。

 矢萩の車がノロノロ運転に変わった頃、歩道にはスーツ姿の人間がものすごくたくさんいた。 見た事もないような人の数だった。
時折見かける電車の駅の出口からは、次々と同じようなスーツを着た人間が吐き出されてくる。 信じられないほど大きなビルの入口には、どんどん人が吸い込まれていく。
ここはハンパな都会じゃない。俺の知っている下品なネオンが立ち並ぶ町なんかとはまるで比べ物にならない。
ここは俺の知らない世界だ。今初めて知った世界だ。それにしても、なんてすごい所なんだろう。
人も多いが車も多い。 俺は車は止まっている時以外はいつでも突っ走っているものだと思っていた。 だけど本物の都会では車は走らない。走れないんだ。
前後左右にノロノロ運転の車がうじゃうじゃいて、その車の間をぬって歩く人もいた。 車はろくに動かなかった。走るどころか、ほとんど動かなかった。 それが分かっているから、皆当然のように車と車の隙間を歩いて行くんだ。
歩道を歩く人たちはどんどん俺たちの車を追い抜いて行く。 周りの車に乗っている連中は何をしているかというと、片手でハンドルを握りながら 髭をそったり、携帯電話で誰かと話したり、なにやら書類を広げて目を通したり……
皆渋滞するのが分かっているから、車の中でする事をあらかじめ決めてから家を出るのだろうか。

 信号待ちで車が止まると、さっきまで遠巻きに見ていた歩道の上の連中がすぐ目の前を歩いていった。 皆歩く速度が異様に早い。中には走り出す者もいる。 ここの人間は、車よりも早く歩く。 本物の都会の人間は、こうしていつも急いでいるのかもしれない。
ちょっと目線を上げると、壁全体が鏡になっている大きなビルを見つけた。 ビルの頂上に近い所にはゆっくりと動く雲が映し出されていた。
「すごい……」
そんな言葉が思わず口を突いて出た。 矢萩はすかさず俺の目線を追いかけてきた。
「俺たちは今、あのビルへ向かっているんだよ」
矢萩は鏡に映る雲を指差してそう言った。だけど俺は、今度はその言葉を信じなかった。
「そんなのウソだろ?」
苦笑いをしながら目線を前方へ送ると、ちょうど信号が青に変わった所だった。 なのに、まだ走って横断歩道を渡っている人が何人もいた。 矢萩は前方に注意しながらゆっくりと車を発進させた。
白線の消えかかったアスファルトの上には、派手な色をした紙切れが散乱していた。 車が少し進むたびに、俺たちの目の前を赤や黄色の小さな紙が舞い散った。
電車の入口付近をよく見ていると、何人ものチラシくばりが目に付いた。

 ここは雲の上。鏡のビルの最上階。
矢萩もたまには本当の事を言うらしい。
外からは鏡になっていて中の様子が見えなかったのに、応接室と呼ばれるその部屋からは外の様子が全部見えた。
1番近くに見えるのは、ここと同じくらい背の高いビルの壁。 俺と同じ目線にあるビルの窓の向こうでは、時々人が動いていた。
ちょっと低い所に目線を送ると、四角い箱に乗った2人の窓拭きの姿が見えた。 彼らは青っぽい作業着を着て、頭にはヘルメットをかぶっている。 彼らの乗る四角い箱は風が吹くたびにユラユラと揺れていた。
マンションの上から見た時は下を走る車がミニカーに見えたのに、そこから見ると車の姿は赤や黒の点にしか見えなかった。
外の世界に背を向けて振り返ると、真っ白な壁に飾られた紫色の花の絵があった。
そしてその手前には黒い皮のソファが2つ向かい合って置かれていた。
2つのソファの間にあるテーブルは天然石を使ったようなマーブル模様の物だった。
床にはベージュのカーペットが綺麗に敷き詰められている。とても広い部屋なのに、ソファとテーブルと花の絵以外には何もない。

 「失礼します」
コンコン、と左手奥にある白いドアがノックされ、茶色のスーツを着た女が湯呑みを乗せたトレイを持って応接室へと入って来た。
彼女は今まで俺が会った事のないタイプの美人だった。 教養があって品があり、とても頼りになりそうな……そんな人に見えた。
「お掛けになってお待ちください」
彼女はメガネの奥の真ん丸い目を俺に向け、丁寧な日本語でそう言うと、テーブルの上にお茶の入った湯呑みを3つ置き、俺にペコリと頭を下げてから再びドアの方へと引き返して行った。
その後ろ姿にまで、美人のオーラが漂っていた。
頭の上で束ねられた黒い髪。真っ白なうなじ。タイトスカートから伸びた真っ直ぐな足。 ハイヒールの上の細い足首。そのどれもが都会的で、あまりにも完璧すぎて逆に色気も何も感じないほどに、まるで芸術品のようにすべてが美しかった。

 俺はソファに座ってお茶をすすった。都会のお茶は旨かった。 だがその旨いお茶を喉へ流し込んだ瞬間に、矢萩の言葉を思い出した。
「不用心だな。毒でも入ってたらどうするつもりだ?」
俺は一つため息をついて、湯呑みをテーブルの上に戻した。 またあの優しい目で説教されたらかなわない。
矢萩にここで待てと言われてから10分は経過しただろうか。
ここで待って、それから俺はどうなるのだろう。
俺はちょっと拍子抜けしていた。まさかこんな立派なビルへ連れて来られるなんて思ってもみなかったんだ。
テーブルの上には湯呑みがあと2つ。それは、これから2人の人間がここへ来る事を示していた。
俺は鏡の壁の外に見える景色を椅子に座った低い位置からもう一度見つめた。他に目のやり場が見つからなかったんだ。 そこから見えるのは、背の高いビルの上の方と空くらいのものだった。
空の色は灰色だった。ずっと空は青いと信じていた俺だけど、空の色にもいろいろあるんだという事がその時初めて分かった。

 「入るぞ」
遠いドアの向こうから、矢萩の声が聞こえた。でも、それに混じって別な男の声も聞こえた。 どうやら湯呑みの数だけ男たちが現れたらしい。
俺はドアが開くのと同時に立ち上がった。 すると、矢萩と一緒にもう1人の企業戦士が俺の方へ向かってツカツカと歩いてきた。 彼らは都会人だ。だって、歩く速度がものすごく早い。
昨日の矢萩はこんなふうじゃなかった。昨日の彼は俺に合わせてゆっくりと歩いていたのかもしれない。
「ああ、緊張しなくていい。座れよ」
矢萩は俺の顔を見ず、いつもより早口でそう言った。矢萩はもう俺に合わせない。 今度は俺が矢萩に合わせなくてはならない。俺はその事を悟った。

 灰色の空を背にして、2人の男たちがソファに腰掛けた。俺の目の前に矢萩。そしてその隣には、矢萩よりいくらか年上に見える男。
彼は髪を短く刈り上げ、矢萩と同じようにビシッとスーツを着こなし、キラキラ光る腕時計をはめていた。
俺は他の何よりもその金色の時計が気になってしかたがなかった。 それは園長が腕にはめていた物とそっくりだったからだ。
「中本さんだ。彼は弁護士でもあるから、困った事があったらなんでも相談しろよ」
矢萩が隣の男を俺に紹介した。 中本さんという人は目尻を下げて白い歯を見せ、黙って俺に名刺を手渡した。
その名刺には"株式会社ウイングファイナンス 副社長 中本健二郎" と書いてあった。
応接室の向かい側のドアには、たしか"ウイングファイナンス社長室" というプレートが貼り付けられていた。 よくは分からないが、ここはそのウイングファイナンスの応接室らしい。俺は名刺を受け取るまでそんな事も全く知らずにそこにいた。
中本さんは気のいいおじさんという印象だった。 でも弁護士の資格を持っているくらいだから、相当頭がいいのだろう。
確信は持てないが、矢萩は中本さんを信頼しているように見えた。
「よろしく。仲良くやっていこう」
「ああ、はい。よろしく」
俺は彼に両手を差し出され、ちょっと遠慮がちにその手を握った。 だけど中本さんは俺の両手を力強く掴んで握手をしてくれた。中本さんの手は、とても温かかった。
仲良くやっていこう……という事は、この人は俺がやる仕事と何か関わりがあるんだ。
俺はその時、気のいいおじさん風の中本さんにたった一つだけ聞いてみたいと思った。
それはもちろん、"俺は何をすればいいの?" という質問だった。
だが俺が口を開きかけた時、中本さんが矢萩の方へ目を向けた。
「智也、彼の名前はなんだっけ?」
中本さんは矢萩の事を名前で呼んでいた。やっぱり彼は矢萩より年上なんだという事がその時よく分かった。
「彼の名前は、二宮翼くん。何度も言っただろ? いい加減覚えてよ」
矢萩は中本さんにそう言って苦笑いをした。
俺はその言葉を聞いて頭の中が急に熱くなっていくのを感じた。 ちょっと待ってくれ。二宮翼? 誰だよそれ。
「ああ、翼くんだったね。智也が連れてきたんだから、君は相当優秀なんだろう」
中本さんのその言葉は、俺に向けられていた。その証拠に彼はちゃんと俺の目を見てそう言っていた。
俺は言葉に詰まった。急に喉が渇いて声が出なくなった。だけど、テーブルの上の湯呑みに口をつけるのも気が引けた。
「よし、じゃあ皆に紹介するか」
矢萩はそう言って1番に立ち上がった。そして中本さんもそれに続いた。 2人はもちろん、湯呑みに口をつける事はなかった。
俺はさっさとドアへ向かって歩く矢萩と中本さんの後を息切れしながら追いかけた。 俺はその時、心臓が苦しくてたまらなかった。
鏡の壁の向こうに見えるビルの窓は朝日が反射して光っていた。 その窓はクラクラするほど強い光を放っていた。
俺はその光に幻惑され、一瞬目の前が真っ暗になった。

 ワックスの匂いがする階段を下りると、曇りガラスの自動ドアがあった。 ドアにはやはり "株式会社ウイングファイナンス" と書かれていた。
矢萩と中本さんがそこから中へ入ると、受付のカウンターにいた女が立ち上がって2人に深々と頭を下げた。 受付嬢はさっきお茶を運んできた人とは違ったけれど、雰囲気はやはり都会の女だった。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。皆を集めてくれないか」
「かしこまりました」
受付嬢は矢萩と二つ三つ言葉を交わした後、カウンターの上にある電話の受話器に向かって何やら喋り始めた。 俺はなにがなんだか分からないままに矢萩と中本さんの後をついていくしかなかった。
彼らは受付を通り抜け、白い廊下を真っ直ぐ奥へ向かって歩いて行った。 外から入り込む朝日は、白い廊下をピカピカに磨き上げていた。
短い廊下を抜けると、そこには銀行のような窓口がズラリと並んでいた。 各窓口には紺色のスーツを着た女たちが椅子に座って待機していたが、俺たちの姿を見つけると皆が立ち上がって大きな声で挨拶をした。
「おはようございます!」
10人くらいの女の声がオフィスにこだました。 カウンターの奥には更に大勢のスーツ集団があり、彼らはその声に続いて一斉に立ち上がった。
「おはようございます!」
今度は綺麗に揃ったその声がひどく遠く聞こえた。
すべてを見通せないほど広いオフィスの中は、ピンと糸を引いたように空気が張り詰めていた。
スーツ集団は朝日を背負っていて、逆光で、彼らの顔は少し滲んで見えた。
どこかで電話が鳴っている。だがその音さえ遠く感じた。

 遠くの窓から差し込む冷たい朝日が俺の足元を照らしていた。
この展開にすぐには頭がついていけない。俺は都会人とは違って、そんなに早く頭が回転しない。
俺は昨日から矢萩に自分のこれからの事をずっと聞きたいと思っていた。 でも、聞けなかった。それは俺の本能が何も聞くなと主張し続けていたからだ。
ここは、園と何も変わりがない。
声の揃った "おはようございます" が大人の声か子供の声かの違いだけだ。
カウンター奥のスーツ集団は皆背筋を伸ばして真っ直ぐ床の上に立ち、矢萩に視線を送っていた。 俺たちがいつも園長の動向をじっと見守っていたのと全く同じように。
すぐ近くで矢萩が何か話しているが、もう彼の声は俺の耳に届かなかった。
頭の中が真っ白になる。激しい耳鳴りがする。 俺の前に立つ中本さんの腕には金色の、園長と同じ腕時計がはめられている。
ここは園と同じだ。きっと、不要になった者は次々と消されていく。
今までは腹ペコの奴隷だったけれど、これからはお腹がいっぱいの奴隷になるだけ。
ただ着物姿の園長がスーツ姿の矢萩に変わったというだけの事だ。

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