月が見ていた  第1部
 5.

 いったい何人いるのか分からないウイングファイナンスの社員たち。
彼らを目の前にして、矢萩は社員たちに俺の事を紹介したようだ。 だけど俺はその辺りの事をぼんやりとしか覚えていない。
銀行の窓口のようなカウンターの向こうに窓があって、そこから冷たい朝日が差し込んでいて、そしてその冷たい朝日の中に大勢の人たちがいた。
そしてその中の誰かが、矢萩の事を社長と呼んでいた。
俺が記憶しているのは、そのくらいの事だけだ。

 俺が社員たちの目に晒されたのは、きっとほんの短い間だけだった。
その後俺はすぐに矢萩と今来た階段を引き返し、上のフロアへ戻った。
中本さんは途中で消えた。仕事があってどこかへ行ったのか、トイレへ行ったのか、俺にはよく分からない。
俺は今、応接室の前を通り過ぎたフロアの1番奥のオフィスで矢萩と2人きりになった。
そう広くはないが、とても眺めのいい部屋だ。鏡の壁の向こうに見えるのは灰色の空だけ。 ここからは空を遮る障害物は何も見当たらない。
ドアから1番遠い所には、1つだけデスクが置いてある。 1人じゃとても動かせないような、重厚なデスクだ。その横には大型金庫がある。 デスクの上には白い電話機とノートパソコン以外に何もない。
ここはとても殺風景な部屋だ。でもどうやら日当たりだけは抜群らしい。
強い朝日が部屋全体に入り込み、ベージュの床には矢萩の影が作られていた。
矢萩は鏡の壁の前に立ち、俺に背を向けて灰色の空をじっと見つめている。 彼の左腕は、いつどこから持ち出したのか分からないブルーのファイルを大事そうに抱えている。
俺はただドアの前に立ち尽くし、彼の言葉を待っていた。
「ここはお前専用のオフィスだ。好きなように使っていい。何か分からない事がある時は内線3番から下のフロアへ繋がるから、誰かに聞くといい」
矢萩は俺に背を向けたままでそう言った。いつも通り、穏やかな声で。

 俺はもう落ち着きを取り戻していた。
突然説明もなく社員たちの前へ連れて行かれ、あの声の揃った "おはようございます" を2度も聞かされた時には園へ連れ戻されたような錯覚に陥った。
あの時は一瞬、園とオフィスの区別がつかなくなった。 園長と矢萩の区別もつかなかった。
あの時は、1人のベッドも矢萩の作った朝食も全部幻だったんだと本気で思った。
でも矢萩と2人きりになると、彼と初めて会った時からこれまでの事が鮮明に思い出され、すぐに落ち着いた。
腹が据わったといった方が正しいのかもしれない。とにかく俺はとても冷静になっていた。 冷静だったから、落ち着いて矢萩に率直な疑問をぶつける事ができたんだ。
「俺、あんたに聞きたいんだ」
彼は振り向かなかった。でも、彼の耳はちゃんと俺の話を聞こうとしているようだった。
「二宮翼って誰だよ?」
「心配するな。二宮翼にはちゃんと戸籍を用意した。出生証明もある」
矢萩の答えは、俺の質問から微妙にずれている。
彼は俺に背を向けたままで久しぶりに長い前髪をかき上げる仕草をした。
「どうやって戸籍を手に入れたの?」
「金さえあれば不可能はないよ」
「戸籍って、金で買えるの?」
「ああ」
俺は矢萩の側へ移動した。鏡の壁に手を突いて下を見ると、やっぱり車が点に見えた。
俺が手を離すと壁にくっきり手形がついていた。矢萩はそれを横目で見て鼻で笑った。
何故だか分からないけれど、その時矢萩は俺と視線が合うのを避けていた。 俺はちゃんと顔を突き合わせて話したかったのに、矢萩はそれを体全体で拒否しているように見えた。
「俺が何をやってるか、もう分かっただろ? 金貸しさ。下のフロアでは個人向け融資をやっている。でも、そんなのはオマケだよ」
彼はその時、なんとなくそわそわしていた。声に張りがないし、ちっとも視線が定まっていない。 空を見たり、足元を見たり、自分の指先を見たり。だけど、彼は決して俺の顔を見ようとはしなかった。
「じゃあ、メインの業務は別にあるんだね」
矢萩は俺の顔を見ようとはしない。だけど俺はちゃんと彼の側にいて、しっかりと彼の目を見て話をしていた。 たとえ一方通行でも構わない。ただ俺は、今はちゃんと彼の目を見て話がしたかったんだ。
「新しい名前は気に入ったか?」
矢萩はしばらく俯いたままで、声のトーンを落としていた。
「翼って、俺にぴったりかもな。地に足がついてない感じでさ」
「お前の親父が考えた名前だよ」
矢萩はそれを言う時だけは異常に早口だった。
その一言に、俺はかなり驚いていた。 矢萩と会ってから短い間にいろいろな事が起こり、そのたびに驚いてばかりいたけれど、その中でも今の言葉を聞いた事が俺にとって1番の驚きだった。
また心臓が苦しくなって、すんなりと声が出てこない。
だが俺は声を振り絞って、矢萩と話をした。 彼はいつもあまり多くを語らない。今聞かないと、もうこの話を2度としてくれないかもしれない。
「あんた、俺の親父を知ってるの?」
「もちろん知ってるよ。お前の親父は俺のボスだ。俺は二代目なのさ」
「親父はどこにいるの?」
「そんな事聞いてどうするんだ?」
「決まってるだろ? 殺すのさ」
「物騒な事言うなよ。まだ朝だぞ」
「朝でも夜でも関係ない。親父はどこにいる?」
「そんなに親父が憎いのか」
「当たり前だろ? 俺は親に捨てられたんだ。園の暮らしがどれほど辛かったか、あんただって少しは知ってるんだろ?」
「もうその事は忘れろよ」
矢萩が初めて俺の顔を見てそう言った。だけど今度は俺の方が彼の視線を受け止められなかった。

 2人の間に、長い沈黙が流れた。でもそれは決して冷たい沈黙ではなかった。
多分お互いにインターバルがほしかっただけなんだ。
眺めのいいオフィスで話すには、ちょっとこの話は重すぎた。 沈黙が続く中で矢萩がどんな事を考えていたかは分からないが、その時俺はあまりにも冷静な自分に驚いていた。
俺は園にいた頃、いつか親を探し出して殺したいと本気で思っていた。 自分が不幸な目に遭うのは全部自分を捨てた親のせいだと思っていた。 それなのに、いざ手の届く所へ近づくととても冷静な自分がいた。
俺は本気で親父の居場所を聞き出そうなんて思ってはいなかった。 俺の本気とは、たったそれくらいのものだったんだ。
俺はもう人を憎む事に疲れきっていた。できればもうそんな事はしたくない。
それよりも今後の自分の事を考えなければならないという思いの方がずっと強かった。

 沈黙を破ったのは、矢萩の方だった。
俺たちは短くても濃密な時間を共有したのに、考えてみるとこんなにじっくり話をしたのは初めてだった。
矢萩は俺の目を見なかったし、俺ももう矢萩の目を見なかった。
俺たちはお互いに壁に向かって話していた。でも、2人は同じ空を見つめていた。
「翼……」
「そんなふうに呼ぶなよ」
「残念だが、お前の親父は死んだよ」
息が止まりそうだった。またほんの少し目の前が霞んだ。
「ボスの名誉のために言っておくが、あの人はお前を捨てたりなんかしなかった。これは本当だよ」
「あんた、誰でも良かったわけじゃないんだな? 俺が親父の息子だって知っててここへ連れて来たんだな?」
「そうさ。俺はもうこの仕事から手を引きたいんだ。 ここはいずれお前に任せる。ボスもそれを望んでいた。あの人は死ぬまでお前の事を気にかけていたし、ずっと探していたんだ」
「どうして死んだの?」
「肺ガンさ。たばこも吸わない人だったのに」
「あんたの話が本当なら、俺はどうしてあんな所で育つ事になったんだろう……」
「ボスは女に逃げられたんだよ。 2人の間に何があったかは知らないが、ボスの女は生まれたばかりのお前を連れて突然行方をくらましたらしい。その先の事は、よく分からない」
「あんた、この仕事をやめてどうするの? 俺には分からないよ。俺があんたなら、翼を探したりなんかしない。あんたは社長で、このまま生きていけば安泰だろ?」
「人生に安泰はない。俺はボスからそれを学んだ」
親父と矢萩との間に何があったのか。俺はそれを知りたいと思った。 でもそんな事を聞いてはいけないと俺の本能が主張していた。
矢萩は俺にどうやってこの話をしたらいいか、ずっと考えていたに違いない。
自分が話す事で俺がいったいどう感じるか、きっと何度も考えたに違いない。
長い沈黙の間も、ずっとその事ばかりを考えていたに違いない。
俺には最初から親父なんかいなかった。 そう思えば簡単なのに、それが現実になった事を知ってしまうと、俺の心にぽっかりと穴が開いた。
親を憎む事を糧にして今まで生きてきたのに。
でも俺はその時気付いたんだ。矢萩はきっと、もっと他の目的を持って生きろと俺に言っている。
後ろを振り向いてはいけないと……そう言っている。

 矢萩の話はそれで終わりだった。 矢萩はその後思い出したように左腕に抱えていたぶ厚いブルーのファイルを俺に手渡した。
ファイルはすごく重かった。俺が両手でやっと持っていられるほどのボリュームだった。
「このファイルをお前に預けるよ。極秘の顧客情報だ。時間がかかってもいいから、パソコンにデータを打ち込んでくれ。 データを参照できるのは俺とお前と中本さんだけだ。パスワードは毎日変える。 ここに書いてある事は絶対口外するなよ。もし少しでも誰かに喋ったら、お前をただじゃおかないからな」
「それは脅し?」
「脅しなんかじゃない。事実だよ」
矢萩はすっかりいつもの彼に戻っていた。穏やかな声で、優しい目で、余裕たっぷりの矢萩だ。 そうなると彼の影にさえ余裕が感じられた。
「今日のパスワードは "つばさ" だ。それから お前の口座にはある程度の金を入れてあるから、好きなように使え。 給料は月末払いだ。あのマンションはお前の物だから家賃は発生しない。 金庫の鍵とこの部屋の鍵は引き出しに入れてある。そのファイルは重要な物だから、しっかり管理してくれ。帰る時は必ず金庫へ入れて、鍵をかけるんだ。分かったな?」
矢萩は淡々と説明を済ませ、背中に朝日を浴びながらさっさとドアの方へ引き返して行った。 その足取りはとてもしっかりしていた。
俺はファイルを両手に持ったまま彼が出て行くのを見守っていた。 彼はすぐにドアを開けて外へ出たけれど、一度だけ振り返って言い忘れた言葉を口にした。
「ボスが生きているうちに一度でもお前と会わせてやりたかった。だけど、お前を探すのに苦労した。長く時間がかかりすぎた。悪かったと思ってるよ。 それから、いつでも片手は空けておけ。両手が塞がっているのは好ましくない」
矢萩が出て行った後にはドアの閉まる冷たい音がオフィス全体に響いた。

 俺は1人になると脱力した。なんだか、すごく疲れた。
こんなにいっぺんにいろいろ言われたって、頭も体もついていけない。
まさか矢萩が親父の事を知っているなんて考えもしなかった。
矢萩と園長とは何も関わりがないんだ。その事だけははっきりした。
矢萩はウソつきなんかじゃない。ただ、都合の悪い事を話さないだけだ。
親父の息子である俺を探し当てたのに、おふくろがどうしているかを知らないはずがない。
ただ彼は言わなかっただけだ。俺を捨てたのはおふくろの方だって事を。

 俺は重たいファイルをデスクの上に置き、とりあえず椅子をひいて腰掛けてみた。
高さの調節がきく肘掛け付きの椅子は非常に座り心地が良かった。
デスクの上に肘をついてぐるっと部屋の中を見回してみる。だけど、この部屋には何もない。
漠然と目線を落としても、そこにはベージュのカーペットが敷き詰められているだけで、ゴミ1つ落ちていない。
矢萩に言われた事を思い出し、右の1番上の引き出しを開けてみた。 するとそこには大き目の茶封筒が入っていた。
俺は封筒の中身を全部デスクの上に並べてみた。 銀行の通帳、鍵が2つ、現金が5万円。中に入っていたのはそれだけだった。
俺は通帳を手に取って名義人の名前を見た。そこにはちゃんと "二宮翼" と書かれていた。
次に、通帳を開いてみる。 俺が最初に見た数字は "1" だった。その後に続く "0" の数は、6つだった。
ある程度の金。矢萩はそう言った。彼の言うある程度とは百万くらいなのか。
俺はすべてを封筒の中へもう一度入れ、引き出しの中へしまい込んだ。
今までの俺なら、すぐにこんな金は受け取れないと言って通帳ごと矢萩にたたき返したはずだ。 だけどそんなつまらない意地をはっている場合じゃない。カラスと一緒に残飯をあさるような事は絶対にしたくない。
矢萩に受け取ったファイルを開いてみる。 そこには法人向け融資の記録やなんかがぎっしり詰まっていた。 この情報が外に漏れたら、いったいどんな事になるのだろう。 俺にはまだこの情報の価値というものがまるで分からなかった。

 ノートパソコンを開いて電源を入れると、急に空が曇ってきた。灰色の空が、黒に近い色に変わった。
俺はさっき遠い所に見た黒い雲を思い出していた。 あの雲が風に乗って、やっと俺の所へ辿り着いたのかもしれない。
そのうち雨が降ってくるだろう。でも、ここなら雨漏りの心配はなさそうだ。

 パソコンを立ち上げると、すぐにパスワードを求められた。
半信半疑で "TUBASA" と打ち込んでみる。すると自動的にファイルが開いた。 矢萩は仕事についてあまり多くを語らなかったけれど、しばらくパソコンと向き合っているとデータの入力方法はすぐに分かった。
キーボードの "N" はすぐに反応した。 だが知らず知らずのうちに1番最初に "N" の反応をたしかめている自分がたまらなく嫌だった。
なんとなく気配を感じて外に目をやると、空からポツポツと雨が降り始めていた。
新しい俺のスタートには相応しすぎる空模様だ。
俺は都会の雨を見つめながら、この朝の濃密な時を思い返していた。
寝坊したと思ったらそうじゃなくて、矢萩にチクリとやられて、肩がこりそうな真新しいスーツを着て、ネクタイをするのに鏡の前で悪戦苦闘して……
俺はその後の事は思い出すのをやめた。
下のフロアの様子を思い出すと、なんだか気が遠くなってくる。
ここを俺に任せるって? そんなの絶対に無理だ。俺は矢萩のようにはなれない。
そして、雨を見て思う。
矢萩の言うように、もうあの町の事は忘れよう。
ここは園とは違う。矢萩は園長とは違う。 なんでも園を基準にして考えるこの頭をまずなんとかしなくちゃいけない。
社員が社長に挨拶するくらい、ごく普通の事なんだ。 声の揃った朝の挨拶を聞くたびにビクビクしていたんじゃここで生きていく事なんかできやしない。
早くここの暮らしに慣れなくちゃいけない。 大丈夫。人は慣れると何も感じなくなる。 きっとそのうちネクタイにも慣れるし、声の揃った "おはようございます" にも慣れるはずだ。 そして首が苦しいと思う事もなくなり、朝の挨拶で過去を思い出す事もなくなる。
もう少ししっかりしないと。
ここへ来る事は自分で決めた事なんだ。矢萩は俺を縛り付けてさらってきたわけじゃない。俺は自分の意思でここへ来たのだから。
黒い空から降ってくる都会の雨。
きっとこの雨が俺の過去を洗い流してくれる。都会の雨が乾く頃、もう洋輔とはさよならしよう。


 仕事に集中していると、あっという間に時間が過ぎた。
いつの間に雨が止んだのか気付きもしなかった。
暗いと感じて部屋の電気を点けたのが何時頃だっただろうか。 まだあの時には、雨が降り続いていた。

 外の景色がすっかり夜に変わった頃ドアがノックされ、久しぶりに矢萩が顔を出した。
彼はいつもの穏やかな口調で言葉を発した。 矢萩はいつも通りだ。こうじゃないと調子が狂う。そわそわしている彼なんて、もう見たくはない。
「6時だぞ。もう帰れ。明日からは時間になったら戸締りして勝手に帰れよ」
「ああ、うん」
目が疲れた。真っ暗な外の景色を見つめると、目の前にチカチカと星のような物が見えた。
「家まで送ろうか? それとも1人で帰れるか?」
この人は、基本的に優しいんだ。厳しい事を口にする時も、その目は優しい。でもきっとその事に、彼自身気付いてはいない。
「もう子供じゃないよ」
「そうか。じゃあ電車に乗って東山駅で降りろ。3番出口を出たら右へ行け。すぐにお前の家が見えてくる」
「分かった、ありがとう」
「お疲れ様。明日から、朝は10時出勤でいい。寝坊するなよ」
「寝坊なんかしてないよ」
矢萩の口許が微かに緩んだ。俺はその時、目覚まし時計を買って帰ろうと思った。

 エレベーターで1階まで下りて回転ドアから外へ出ると、そこには朝とは違う景色が広がっていた。
都会の夜景は煌びやかだった。
どこまでも続くビルの窓には白い光が灯され、次々とやってくる車のライトが雨に濡れたアスファルトに反射していた。
夜の景色に靄がかかっているのは雨上がりのせいなのか、それとも排気ガスのせいなのか。
ビルの隙間に軒を連ねる飲食店のネオンはやはり都会的で、ちょっと控え目で、キャバクラやパチンコ屋のものとは全然違っていた。
コンビニの明るいネオンが、通り過ぎる人たちを照らしている。
歩道を行く人たちの歩く速度は、朝より幾分遅く感じられた。車の方も、相変わらずゆっくりだ。

 ここは俺が育った町より暖かい。もうすぐ11月だというのに、コートを着て歩く人は少ない。
俺の体はあの町の気候に慣れているようだ。外へ出ると、ちょっと暑いと感じた。
つい上着を脱いでしまいたくなる。だけどワイシャツ1枚で歩いているようなヤツなんて、どこにもいない。
道行く人たちの顔がなんとなく晴れやかなのは、仕事を終えた解放感のせいなのか。
空を見上げると、やはり靄がかかっていて星は1つも見当たらない。
俺はほとんどの人が同じ方角へ向かって歩いて行く事に気付き、自分もその人たちの列に加わった。
きっと皆駅へ向かっているに違いない。そう思ったからだ。

 俺の周りを歩く女たちは、上品な香りを漂わせながら皆楽しそうに友達と会話を交わしていた。
高そうなスーツを身に着け、湿ったアスファルトをハイヒールで踏みつけながら。
「ねぇ、ご飯食べて帰らない?」
「週末友達の結婚式なの」
「昨日見に行った映画、結構おもしろかったよ」
聞こえてくるのは楽しそうな話ばかり。弾むような声ばかり。
これが普通の女たち。当たり前に幸せを抱えて生きている、ごく普通の女たち。
周りをどんなに探しても、俯いて歩くような女はどこにもいない。
上品なネオンに照らされながらしばらく歩いて行くと、どこからかけたたましい車のクラクションが聞こえてきて女たちの声が遮断された。
薄いオレンジ色の外灯が眩しい。
いつかこの道を、ナナと2人で歩く事ができるだろうか。
俺たちを知っている人がいないこの町で、ナナと一緒に暮らしたい。
大きく息を吸うと、湿ったアスファルトの匂いがした。
その匂いだけは、都会でも田舎でも全く同じだった。

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