月が見ていた  第1部
 6.

 都会の暮らしはとても穏やかに過ぎていく。
俺はたったの2週間で都会暮らしに慣れた。それは、ここの暮らしがあまりにも楽だからだ。
人は厳しい環境に慣れるのには苦労するかもしれないが、楽な環境に置かれるとあっという間にその暮らしに染まってしまう。
でも果たしてそれがいい事なのか悪い事なのか、今の俺にはまだ分からない。

 俺は毎朝目覚まし時計が鳴る前に起き上がり、シャワーを浴びた後朝食を取りながら朝刊を読む。
最初の2〜3日は起き上がるとすぐにガラスの壁から朝日を眺め、綺麗だなぁなんて思ったりした。 テレビのチャンネル権を自分が握っているという事実を楽しむために、わざと何度もチャンネルを切り換えてみたりもした。
でも、もうそんな事はしなくなった。
今はソファに座ってパンをかじりながら遠くの方から照り出してくる太陽の温かさで朝日の存在を確かめ、テレビではなく新聞ですべての情報を手に入れる。
自分1人だけのために、家のポストまで新聞が届けられる。 最初はその事に感動したりもしたが、今となってはそれが当然のように感じてしまう。 昔はくしゃくしゃになった1日遅れの新聞を読むのが精一杯だったのに。

 朝刊を隅から隅まで読み終えると、大体いつも出かける時間になっている。
毎朝家を出るのが、9時10分。住宅街の朝は静かだ。
9時を過ぎると出勤前のスーツ集団やランドセルを背負った子供たちにはあまりお目にかかる事がない。 恐らくほとんどの会社員はすでに出勤済みで、ほとんどの子供たちは登校済みなのだろう。
駅へ向かう間に出くわすのは、カラスが食い散らかしたゴミを掃除する女や、夫と子供を家から送り出した後で近所の仲間たちとお喋りに興じている主婦たち。
彼女たちは日の当たる歩道の上で、いったいいつまで話し込んでいるのだろう……
家を出てから駅へ着くまではたった5分の道のり。俺はその間、自分の目で見たいろいろな情報を頭に叩き込む。
思った通り、ここは住宅街だ。しかも、高級住宅街といっていいだろう。
駅へ続く道には高層マンションがいくつか並び、広い道路を挟んで向かい側にはまだ新しい一軒家がぎっしり並んでいる。
ほとんどのマンションの1階には、何かしら店舗が入っているようだ。
1番多いのが飲食店。そして衣料品店や雑貨屋などがその後に続く。 他にも輸入家具の店とか、エステティックサロンや美容室の看板が次々と見えてくる。
最初は住宅街にそんな店を出して商売になるのかと人の店の事を心配した。
でも考えてみれば、ここは金持ちばかりが集まるエリアだ。 金に余裕のある主婦たちは近所のこういった店へ通って自分を磨き、時々昼メシの支度をサボってお隣さんと優雅なランチタイムを過ごすのだろう。
「おはようございます。これからご出勤ですか?」
最近、美容室の従業員が店の前を掃除しながら俺に声をかけてくる。 綺麗にカールした淡い茶色の髪と大きな口が印象的な、40代くらいの女だ。
今日は秋の日差しが強く、彼女の淡い茶色の髪が金色に光って見えた。 かっこよく黒のパンツを履きこなしているけれど、手に持っている物はほうきとちりとり。 彼女はこの後店を開け、有閑マダムのお相手をするに違いない。
俺は時々この人を見ておふくろの事を考える。 こんな人が母親ならきっと俺はもっと幸せだったんじゃないかと、勝手にそんな想像をしてしまう。
「おはよう。仕事がんばってください」
「ありがとう。行ってらっしゃい」
俺が愛想よく挨拶を返すと、彼女はいつも "行ってらっしゃい" と言ってくれる。
どうやら俺は、勤勉なサラリーマンへ化ける事に成功したようだ。
灰色がかった秋の空を見上げると、彼女を照らしている朝日が俺の事も同じように照らしてくれているのが分かった。
自分はまたここへ帰って来る。 "おかえり" と言ってくれる人はいないけれど、それでもちゃんとここへ帰ってくる。
ずっとこの太陽の下で穏やかな日々を過ごして行けたなら、きっと幸せになれると俺は確信する。

 ウイングファイナンスのある川中ビルへ着くと、2台あるエレベーターの前に10人くらいの男女がいた。 その中にはウイングファイナンスの女子社員も3人いた。
11月に入ってからは急にコートを着て歩く人たちが増えた。 エレベーターの前にいた3人も、それぞれデザインの違うモノトーンのコートを羽織っていた。
俺が行くと彼女たちは軽く会釈しながら「おはようございます」と声を揃えて挨拶してくれる。 俺もすかさず愛想笑いを浮かべて返事を返す。
「田中さん、山本さん、今野さん、おはようございます」
俺はできるだけ早く皆の顔と名前を覚え、名前を付けて挨拶をするように心がけた。 その方が人間関係がスムーズにいく、と何かの本に書いてあったからだ。
右側のエレベーターのドアが開くと、待っていた人間が全員中へ乗り込んだ。男と女がちょうど半々くらいだ。
皆向かうフロアは様々で、エレベーターのボタンは5階だの10階だのとたくさん押された。
そのうち各階でエレベーターのドアが静かに開くたびに1人1人と降りていき、しばらくたつと四角い箱の中にはウイングファイナンスの女子社員たちと俺の4人だけになった。 部外者がいなくなってエレベーターが再び上昇を始めると、俺に背中を向けて立っていた彼女たちが突然振り返って俺を質問攻めにした。
小柄でショートカットの田中さんは「二宮さんって、おいくつなんですか?」と聞き、背が高くてロングヘアーの山本さんは「どこにお住まいなんですか?」と聞き、髪を1つに結んだ今野さんが「彼女はいるんですか?」と聞いてきた。
どうしてなのか、皆が敬語だった。
ここの単調な仕事にはすっかり慣れた俺だけれど、この敬語にはどうしても慣れる事ができない。 ずっと見下され、踏みつけられて生きてきたから、あまり手厚くされると逆に戸惑ってしまうんだ。
もしも矢萩があまりにもバカ丁寧に俺を誘ったなら、今俺はここにいなかったかもしれない。
俺が口ごもって何も答えられずにいると、エレベーターが止まってドアが開いた。
3人はちょっと残念そうにエレベーターを降りて行った。 俺は呆気に取られたままで3人の背中を見送った。 彼女たちが去った四角い箱の中には、ほのかに甘い香りが残されていた。


 俺はたった1人で最上階に降り立ち、白く光る廊下を歩いて自分専用のオフィスへ向かう。
このフロアには俺専用のオフィスと社長室と副社長室、その他には広い応接室だけしかない。 しかも矢萩と中本さんはほとんどここにはいない。だからこのフロアはいつも静かだ。 自分の足音以外に聞こえてくるものは何もない。
その足音が止まると、次に聞こえるのがオフィスの鍵を開けるガチッという音、そしてドアを開けるガチャッという音。 これらの音が静かなフロア全体に冷たく響く。
すぐに中へ入って鏡の壁から外を見つめると、太陽が雲に隠れているのが分かった。
オフィスの中は日差しが入らないとちょっと寒く感じる。 俺の体も都会の気候に慣れてきたのかな、とふと思う。

 座り心地のいい椅子に腰掛けて、パソコンを立ち上げる。 皮の椅子の肘掛けは、触れるとちょっと冷たかった。
パソコンが立ち上がるのを待つ間に今度は金庫の鍵を開けてブルーのファイルを取り出す。 大型金庫だというのに、中に入っている物はブルーのファイル以外に何もない。
デスクの上にファイルを開いて置き、俺は灰色の空を見つめて考える。
この2週間、俺はずっと1つの事だけを考えて過ごしていた。 過去を振り切る決心はしたが、決して振り切れない事がある。 それは、ナナの事だ。俺はこの2週間、どうやって彼女を助け出すかをずっと考えていた。
ナナは俺と同じように園で育った。 だが彼女は園長の手によって売春組織に売られた。彼女がまだ12歳の頃の話だ。
俺が思いついた方法は、ナナを買い占めるというやり方だった。だがそれには問題がある。
中本さんにさぐりを入れたところ、俺の給料は月50万くらい。 そして今現在俺の口座には百万という金が入っている。
ナナは一晩10万円で売買されるから、それでもたったの半月分にしかならない。
ナナを買い占めるためには最低でも月3百万の金が必要になる。 さて、その金をどうやって工面しようか。 毎月3百万という金は簡単に手に入れられる金額とは思えない。だけど、この灰色の空の下ではチャンスがありそうな気がする。
でも、何をするにも慎重にならざるを得ない。つまらない事でここを追い出されたら、俺は路頭に迷う事になる。 そんな事になったらナナは一生あのハキダメで暮らす事になってしまう。
俺はパソコンが立ち上がった事に気付き、キーボードを使ってパスワードを打ち込んだ。 今日のパスワードは "MOON" それを打ち込むと、すぐにいつものファイルが開いた。
俺はそこに次々とデータを打ち込んでいく。だけど、頭の中では常にナナの事ばかりを考えていた。

 1時間後。俺はキーボードを打つ手を止めた。
数日前から気になっている事があって、どうしても集中する事ができない。
ブルーのファイルを両手に持ち、そこに並ぶ細々とした文字を目で追っていく。 雲の切れ間から顔を出した太陽が、その黒い文字を鮮明に俺の目に焼き付けてくれる。
そこには貸付をした法人名と代表者名、そして貸付金額とその返済計画もはっきりと示されていた。 貸付金額はどこもかなり大きい。
ここに載っている顧客情報は極秘だと矢萩は言った。決して口外するなと、そう言った。
これを何かに利用できないか。
極秘という事は恐らく、ここから多額の金を借りている事がばれるとファイルに名を連ねている連中に何かデメリットが発生するという事だ。
だけど、そのデメリットとはいったいなんだろう。
それさえ分かれば、このデータを握っているという事を利用して相手を揺する事ができるかもしれない。 でも、やるならそれなりの覚悟が必要だ。とにかく絶対に矢萩にばれないようにやらなければならない。
だけどこの俺に、本当にそんな事ができるだろうか。矢萩を欺く事ができるだろうか。
なんだかとても危険な香りがした。俺はひどく危ないエリアへ足を踏み入れようとしているのかもしれない。

 「入るぞ」
昼頃だった。突然白いドアの向こうから矢萩の声がして、俺は口から心臓が飛び出しそうになった。
矢萩は多分ドアをノックしたと思うが、俺は考え事に夢中でその音さえ聞こえていなかった。
声の後すぐにピンストライプのスーツを着た矢萩が長い前髪をかき上げながらオフィスの中へ入ってきた。 彼は俺を見てちょっと不思議そうな顔をした。その時の俺は、気まずい顔をしていたに違いない。
だって、俺は今の今まで矢萩を裏切るような事ばかり考えていたのだから。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
彼がベージュのカーペットの上を音もなく歩き、俺のすぐ目の前へやってきた。
こういう時の彼の優しい目は苦手だ。
矢萩は何も言えずにいる俺をじっと見下ろしていた。俺は後ろめたさを隠すために、決して彼から視線を逸らさなかった。
「お前、ちゃんと食ってるのか?」
矢萩は大きい茶封筒を俺に差し出して、そう言った。
「うん。食ってるよ」
短く答えて封筒を受け取る俺。
俺は、優しくされる事に慣れていない。 でも優しさに慣れる必要はないと感じていた。 それに慣れると、きっとそのうち自分は優しくされて当然だと思うようになる。
でも、こういう時に受ける優しさは辛い。俺はあんたを裏切るかもしれない。 そう思っている相手に優しくされるのはたまらないものだ。
デスクを挟んで交わす会話も、今はちょっと辛い。 彼の声が穏やかで、彼の目が俺を心配げに見つめているからだ。
「昼メシはどうしてる?」
「ああ、食ってない」
「ダメだな。ちゃんと食え。言っただろ? 腹が減ると判断能力が鈍る。仕事の効率も落ちる。これからは3食しっかり食えよ」
「ねぇ、デスクワークをやらせるために俺を雇ったの?」
「デスクワークをバカにするな。机上で物を考えられないヤツが、現場で物を考えられるはずはない」
心臓がドキドキした。 まるで俺が今まで何を考えていたのか全部分かっているかのような発言だ。
無理だ。この人を欺く事なんて、俺にはできない。 彼は俺の裏切りにすぐに気付くだろう。想像の段階でもう気付かれているのだから。
「1日中ここにいると息が詰まるだろ? ちょっと頼まれてくれないか。 その封筒を客の所へ届けてくれ。すぐ向かい側のビルの3階へ行って受付の女の子に渡してくれるだけでいい。 その後は、どこかでメシを食って来い。分かったな?」
「うん……」
「気分転換も仕事のうちだ。分かったら早く行って来い」
矢萩は口許だけでそっと微笑み、最後まで穏やかな口調でそう言ってまた音もなくドアの方へ引き返し、静かにオフィスを出て行った。
俺は彼の大きな背中を黙って見送った。
そんなに優しくしないでくれ。俺の本能が今、そう叫んでいる。
彼はきっと俺の裏切りを許さない。そして、俺が裏切らないように仕向ける事も決して忘れない。
想像する自由は与えてくれるけれど、行動を起こす自由は与えようとしない。
彼にはいつも付け入る隙がない。いつだって肩に力が入っていて、優しくしながら俺を突き放す。
俺は封筒を持って立ち上がった。
矢萩の言うように、ここは息が詰まる。ずっとここに1人でいると、ろくな事を考えない。

 向かい側のビルへ行って用を済ませ、外へ出るとまた太陽の日差しが強く俺を照らしていた。
気温は低いはずなのに、体は温かい。今日はほとんど風がないから余計にそう感じるのだろうか。
目の前の広い道路を車がビュンビュン走り抜けて行く。
そうか、朝の渋滞は通勤ラッシュで、夜の渋滞は帰宅ラッシュなんだ。
日中外へ出たのは初めてで、そんな事に気付いたのも今日が初めてだ。
街路樹を見つめると冬が近い事を感じる。夏には鮮やかな緑だったはずの葉っぱが、今は半分くらい枯れそうになっていた。
車が走り抜ける時の風で落ち葉が舞う。 俺はそんな中、横断歩道の手前で信号が変わるのを待っていた。 都会はやはり人口が多い。俺の周りにはあっという間に信号待ちをする人だかりができた。
矢萩はメシを食って来いと言ったけれど、ちっとも腹が空いていない。
俺の体は食わない事に慣れていた。 小学校の6年間と中学校の3年間、ろくに夕食を食べられなかったせいだ。
園で朝食を食べて、昼は学校で給食を食べる。学校へ通っている子供たちはその給食が1日で最後の食事と決まっていた。
でももう昔の事は忘れると決めたのだから、矢萩の言う通り3食しっかり食べるようにした方がいいのかもしれない。 それを続けていけばいつかきっと体が慣れて、昼になると腹が減ってくるようになるだろう。
信号が青になり、俺の前を往来していた車の列が一斉に止まった。 すると目の前に白とグレーのストライプが現れた。 その時どこかから時報が聞こえてきた。きっと、正午を知らせる時報だ。
俺はどこで何を食っていいのか分からなかった。 とりあえず横断歩道を渡って川中ビルの側へ戻り、その近くで適当な店を探そうと考えていた。
広い道路を横断する際、ノロノロと歩くのは禁物だ。 都会の信号はあっという間に変わってしまう。道路を渡っていた大勢の人たちが信号の点滅に気付いて急に駆け出す。 俺もそろそろやばいのかな、と思って皆と同じく駆け出した。

 何か食おうと思ってビルの裏手を歩くと、どこからかカレーの匂いが漂ってきた。
不思議なもので、その匂いが鼻をつくと急に腹が減ってきた。 俺は鼻をクンクン鳴らしながら犬のようにカレー屋を探して歩き、その店へ入った。
全面ガラス張りのその店は、昼になったばかりだというのに随分込み合っていた。 だけど満席というわけではないらしく、俺は店の1番奥の席へ通された。
川中ビルのちょうど裏手に当たるその店は抜群に日当たりが悪かった。 しかも狭い店内に安っぽい椅子とテーブルがぎっしりと並び、客は隣の人とぶつからないよう皆腕をたたんで食事を取っている。
安っぽい椅子に腰掛けてカレーを食っているのは、サラリーマン風の男ばかりだった。 誰も彼もがおもしろくなさそうな顔をしてテーブルの上に広げたスポーツ新聞や雑誌を見つめ、ただ無言で口の中へカレーを運んでいる。
周りを見ているようなヤツは、俺以外に誰1人いない。 店の奥にせっかく綺麗な白い花が飾られていても、誰もそんな物には目もくれない。 そしてそれはカウンター席に座って背中を丸めている連中も同様だった。
俺は矢萩の大きな背中を思い返した。彼はこんな連中とは全く違う。まるでかけ離れている。
俺はこっち側の人間にはなりたくない。絶対に矢萩側の人間になりたい。
「ご注文は?」
黒いエプロン姿の若い女にそう言われ、チキンカレーを注文してみる。
するとあっという間に底の深い入れ物に入ったスープカレーが目の前へ運ばれてきた。
俺は早くここを出たかったからすぐにスープの中へスプーンを突っ込んで、具を拾い上げた。
だがその次の瞬間、俺は一気に食欲をなくした。 スプーンが最初に拾い上げたのが、真っ赤な色をしたニンジンだったからだ。

 少し忘れかけていたのに、またナナの事を思い出す。
彼女が突然園からいなくなって2年後。俺はネオンの下で偶然ナナと再会した。
あれは夏のとても暑い日だった。夜になってもちっとも気温が下がらない……そんな日だった。
ネオン輝く町の人ごみの中。少し前まで都会だと思っていたあの町で、俺はナナを見つけた。
ナナはその時デニムのミニスカートを履き、薄い水色のTシャツを着て、つばの付いた白い帽子を目深にかぶっていた。 彼女の髪は、以前よりだいぶ長くなっていた。透き通るような灰色の目と形のいい鼻は、帽子のつばで隠されていた。 唯一露になっている薄い唇には、俺の知らない真っ赤な口紅が塗られていた。
それでも俺は、すぐに彼女だと分かった。
決して見間違えるはずなんかない。彼女は俺が物心ついた時からずっと側にいた女なんだから。
「由利!」
俺はすれ違いざまに彼女の手首を掴んで、その名前を呼んだ。"由利" それは園長が彼女に付けた名前だった。
彼女は俺を見てハッとした。そしてすぐに手首に絡まった手を振りほどいて駆け出そうとした。
その時は周りにたくさんの人たちがいた。でも、誰も俺たちの事なんか見ていなかった。 だがその無関心な人ごみに邪魔されてナナは駆け出す事に失敗した。俺はあの時だけは幸せそうなあの人たちに深く感謝した。
「待てよ!」
俺は3歩走ったところですぐに彼女を捕まえた。その時はもう絶対に彼女を離したくないと思っていた。
歩道の端。夜の帳が下りかけた頃。俺は彼女の白い帽子をそっと右手ではずした。
彼女の両瞼は青く腫れ上がり、その奥のつぶれた灰色の目から涙が零れ落ちていた。
「誰にやられたんだ?」
彼女は答えず、ただ俺の手を引いてビルの谷間へ向かった。 そこは大きい通りから死角になる、とても狭い空間だった。ネオンの灯りさえ届かないような、忘れられた場所だった。 俺たちが行くと足元にいたでっかいネズミが大急ぎでどこかへ逃げて行った。
彼女の顔がすぐ近くにあった。 2人で立っているのがやっとのとても狭い空間だったからしかたがなかったけれど、どうやっても視界に入ってしまう腫れ上がった瞼が、俺を苦しめた。
「由利、お前幸せに暮らしていたんじゃなかったのか?」
右手に感じるナナの手の感触。その手はとても小さく、とても冷たく、ひどく震えていた。
彼女に限らず、園では突然姿を消す子供が時々いた。 園長はそのたびに「あの子は新しい両親に貰われていったんだ」と言っていた。
俺は彼女がいなくなった時、すごくショックだった。 だけどこの世に園よりもひどい所はないと分かっていたから、彼女はきっと幸せに暮らしているものだと思い込んでいた。思い込もうとしていた。

 「洋輔、今お金持ってる?」
彼女はなんの説明もなく、俺の目を見てそう言った。
次々と零れ落ちる涙を拭おうともせず、年齢にそぐわない派手な化粧が剥がれ落ちるのも全く気にせず、ただその時の彼女の手は俺の手を握るためだけに存在していた。
その時俺のシャツの胸ポケットには1万円札が2枚入っていた。スポンサーの相手をして金を受け取ったばかりだったからだ。
彼女は背伸びをしながら胸ポケットの中を覗いてうなづき、それから俺の耳元でこう囁いた。
「この先にキャバクラがあるの。派手なネオンが目立つから、すぐに分かると思う。 私はその手前の通りを曲がって帰るから、10分たったら迎えに来て。 外に立っている白髪の男にそのお金を渡して、ナナを呼べと言って。いい? 分かった?」
俺は黙ってうなづいた。
あの時彼女はまだ14歳。子供っぽさの残るあどけない顔で俺を見上げ、震える両手で俺の右手をしっかりと握っていた。
ナナの時間は、金で買わなければならない。 ナナと話したければ、金を払って彼女を連れ出さなければならない。
何も聞かなくても、俺にはそれが分かった。 俺も同じ事をやっていたからだ。金を払う女としか話さない。金を払う女しか相手にしない。 俺はずっとそうやって金を手に入れていた。ただナナと明らかに違うのは、俺が自分の意思でそうしていたという事だけだった。

 あの後彼女に言われた通り10分後にナナを呼び出し、俺たちは近くの公園へ向かった。
あんなゴミタメの中に公園があるなんておかしな話だが、女を買った男がホテル代をケチってその公園で事を済ませるのだと、彼女はそう言った。
「大丈夫。ここなら誰かに見られても変に思われないから」
ナナは俺の手を引いて空いているベンチへ腰掛けた。 少し離れた向かい側のベンチではそれらしい男女が人目も気にせず抱き合っていて、目のやり場に困った。
ベンチの周りには草むらがあり、その辺りにも似たような連中がいる気配を感じてものすごく気分が悪くなった。
あの公園には外灯らしき物がなく、夜になれば何をやっても暗闇が包み込むのだろう。 だがその時はまだ空に多少の明るさが残っていた。俺は視力のいい自分が恨めしかった。
「もっとこっちへ来て。早く」
彼女は強引に俺の手を引っ張り、できるだけくっついているようにと促した。 俺はスポンサーの相手をしたばかりで、金持ち女を抱いたその手で彼女に触れるのが本当はすごく嫌だった。
ふと見下ろしたベンチの上には、ひどく短いデニムのスカートから伸びた痛々しいほど細い足。 その細すぎる太腿の上には、がっちり握った俺と彼女の手。
俺はあの時、いったい彼女に何を言おうとしたのだろう。
「由利……」
「ダメ。私はここではナナ。絶対に由利なんて呼んじゃダメ。洋輔が昔からの知り合いだってばれたら、きっとどこか他へ行かされる」
消え入りそうな彼女の声。俺はそれから2時間、延々とその声に耳を傾けていた。

 あの時彼女が涙ながらに話してくれた事は絶対に忘れられない。
彼女がナナになって、初めて客を取らされた時の話だ。
頭の剥げたオヤジに裸電球のぶら下がる薄汚いホテルへ連れ込まれ、ナナはシミがいっぱいついた畳の上に押し倒された。
12歳の華奢な少女がどんなに抵抗しても、大人の男にかなうはずなどない。 泣いても叫んでも、誰も助けになんか来てくれない。
「うるさい! 俺は金を払ったんだぞ!」
男に平手打ちを食らい、彼女はその時泣き叫んでも無駄だという事を理解した。
剥げたオヤジは額に汗を浮かべていた。 唇の端を歪めてニヤッと笑った男の顔が、彼女の顔に覆いかぶさる。
ナナは唇を噛み締め、きつく目を閉じて必死に抵抗した。 重くのしかかる男の体。手足は全く動かす事ができない。 だけど、顔を背ける事くらいはなんとかできそうだった。
やがて彼女の全身に鋭い痛みが走り、あまりの苦痛にナナは気を失いかけた。
ナナはその時、自分はシミのついた畳の上でこのまま死んでいくのだと思っていた。 でも、それが怖いとは思っていなかった。このまま死ねたらきっと楽になれる。彼女はそう思っていた。
やがてきつく閉じていた灰色の目がゆっくりと開かれた。 それは彼女の意思でそうしたのではなく、ただ瞼に込める力が失われたせいだった。
切れかけた裸電球が点滅を繰り返すカビ臭い部屋の中。 彼女の頭の横には、低いテーブルの足があった。
薄れ行く意識の中で彼女はその足の向こうに真っ赤な色を見た。それは、テーブルの下に落ちていた1本のニンジンの色だった。
真っ赤なニンジンは、彼女が壊れていくのを黙って見ていた。彼女を助ける事もせず、ただ黙って一部始終を見ていたんだ。

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