月が見ていた  第1部
 7.

 今日は11月末日。
俺はこの朝いつもより早く家を出た。
空は晴れていた。でも外はすごく寒くて、冷たい両手に吹きかける息は白かった。
月末の朝はいろいろ決済などがあるようで、矢萩はしばらく社長室へ止まるらしい。
俺は彼が忙しくなる前にどうしても話したい事があった。

 ビルの最上階へ辿り着いたのが、午前9時ちょうど。いつものように、白く光る廊下に響くのは俺の足音だけ。
俺は自分のオフィスへは寄らず、冷え切った右手ですぐに社長室のドアをノックした。
だが返事はない。
銀色に光る冷たいドアノブに手を掛けて回すと、あっさりとドアは開かれた。
するとそこには何もない空間があり、ただ2メートル先にもう1つ同じドアがあった。二重ドアというやつだ。
今度はそのドアをノックしてみる。すると遠くの方から「はい」という声がした。
俺は2つ目のドアノブを回して恐る恐る手前に引いた。
社長室へ入るのは今日が初めてだ。そこはとてもゆったりとした空間だった。

 俺のオフィスは5メートル四方だが、社長室はその4倍くらいある。 部屋の中は心地よい暖かさに包まれていた。
矢萩はドアから1番遠い所にいた。 彼はデスクに向かって何か書き物をしているようだったが、俺が行くと一瞬顔を上げて左手で手招きをした。
「今朝は早いな。何か用か?」
俺がデスクへ向かって真っ直ぐに歩き出すと、彼はまた視線を落として書き物の続きを始めた。
カーペットを一歩踏みしめるたびに2人の距離がだんだん縮まっていく。俺はその時、すごく緊張していた。
「悪いが、ちょっと座って待っててくれ。すぐに済むから」
俺が部屋の真ん中辺りへ来た時、矢萩はそう言って俺の目をチラッと見た。 だけどまたすぐに視線を落としてデスクの上の書類に目を通していた。
横幅の広いデスクの手前には応接セットがあり、俺は彼に言われるままどっしりとソファへ身を投じた。
しゃれたガラステーブルの上には白い電話機があり、その上には二つ折りにされた朝刊が無造作に置いてあった。
矢萩はブツブツと何かつぶやきながら真剣な目をして書類に文字を書き込んでいる。
社長室は広かったが、床に敷き詰められたカーペットは他の部屋と同じだった。 デスクを挟んで両側の壁は天井から床まで全面が本棚になっている。 そこにはぶ厚い辞書や洋書などがぎっしりと詰め込まれていた。 デスクの横には大きなシュレッダーが置いてあるが、金庫がどこにも見当たらないのは少し意外だった。
本に囲まれながらデスクに向かう矢萩。彼の左手には書類が山積みになっている。
「何か飲み物を持って来させようか?」
そう言う矢萩の目は、まだ書類を見つめたままだった。
俺はすかさず「何もいらない」と答え、本当は渇き切っている喉へ唾を流し込んだ。
社長室は恐らくこのフロアで1番日当たりが悪い。
矢萩は大きな窓を背にしていたけれど、今日のように晴れた日でも外の光はほとんど入って来ないようだ。
天井を見上げると、白い蛍光灯が人工的な光を放っている。 ここは日が当たらないから、朝から電気を点けているらしい。
「よし、終わった」
矢萩の声を聞いて再び彼に目を向ける。
彼はデスクの上に万年筆を投げ出し、自分の左の拳でポンポンと2回右の肩をたたいた。

 矢萩が疲れを見せたのはほんの一瞬だけだった。
彼はそれからすぐにブハッと音をたてて俺の目の前に座り、一仕事終えた後の充実した声で言葉を発した。
「月末は忙しくてな……ああ、それを知っていたからこの時間に来たのか?」
俺は目線を落としてうなづいた。 ガラステーブルの上には白い蛍光灯の光が反射していた。人工的な光の反射は意外に眩しかった。
矢萩は品のいい紺色のスーツを身にまとい、それによく合うブルーのネクタイをしていた。そしていつも通り靴はピカピカだ。
彼はソファに腰掛けて足を組んだ後、しばらく黙っていた。 彼は俺が話を切り出すのを待っている。だけど、待ち構えられるとますます緊張した。
心地よい空気が流れる密室の中。ここにはもちろん俺と矢萩の2人きりだ。
俺は自分の権利を主張しに来たに過ぎない。それでもなんとなく後ろめたかった。
きっと俺たちが黙って向き合っていたのはほんの短い間だった。 でも矢萩はその間に2度も腕に巻いたスポーツタイプの時計に目をやった。
早く話さなきゃ。
彼のその仕草は、俺に早く言いたい事を言えと訴えかけているように見えた。

 俺が矢萩に視線を合わせると、彼も同じように俺に目を向けた。俺はその瞬間すぐに1つ目の用件を切り出した。
「口座に入っている金をおろしたいんだ。それで、俺まだ銀行印を受け取っていないんだけど……」
実際俺は、最初からつまづいた。 ここはすんなり行くかと思っていたのに、最初の一歩からつまづいた。
矢萩はその時は物分かりのいい大人の顔をして小さくうなづいた。 だがその後彼はいつもの優しい目でどんどん俺を追い詰めていった。
「最初に5万を渡したよな? お前、今まであれで足りたのか?」
矢萩の声にはちょっとした驚きの色が感じられた。
「うん、まだ少し残ってるよ。食う物は冷蔵庫にいっぱいあったし、あまり金を使うような事もなかったから」
「へぇ、すごいな。お前、いい婿になれるぞ」
「何言ってるんだよ」
ここまではまだ良かった。この時までまだ俺たちは笑顔で話していた。
だが問題なのは、この後だ。
「それで? いくらおろすんだ?」
「ちょっと買いたい物もあるし、10万くらい」
「そうか。分かった」
矢萩は軽くそう言って立ち上がり、デスクの引き出しを開けて何かゴソゴソやっていた。 それから再び俺の目の前に座った矢萩は、なんとその場で俺に現金を差し出した。
「お前の口座からちゃんと引いておくぞ」
俺は戸惑いながらも矢萩の手から現金を受け取った。すぐに指で数えると、ちゃんと1万円札が10枚あった。
「今日の日付で給料を振り込んであるから、残高は増えているはずだ。後で記帳して来いよ」
彼は何事もなかったかのように淡々と俺の目を見てそう言った。
まさか、こんなふうになるなんて思ってもみなかった。彼は、いつも俺の予想を裏切った。 俺は矢萩があっさり銀行印を渡してくれると思っていたんだ。

 「用はそれだけか?」
矢萩は人工的な光の下でそう言いながらまた腕時計を見つめた。
こうして急かすのは俺に考える隙を与えないためなのか。それとも、単純に彼の自由な時間が終わりを告げようとしているだけなのか。
とにかく、俺はこのままで終わらせるわけにはいかなかった。
さっきまで万年筆を握っていた彼の大きな手。その手から銀行印を受け取らない限り、帰れない。
「矢萩、銀行印をくれよ」
「10万じゃ足りないのか?」
矢萩はまた目線を上げてそう言った。彼は別に怪訝な顔をするというわけでもなかった。
左目の下の小さなほくろが、彼の目と一緒になって俺を見つめていた。
「そうじゃない。あんた、あの金は好きに使えと言っただろ?」
「言ったよ」
「だったらそうさせてくれ。金の管理くらい自分でできるよ。銀行印を渡してくれ」
「……ダメだな」
「何がダメなんだよ」
「俺はたしかに口座に入っている金を好きに使えと言った。だが金の管理は俺に任せてもらう」
「なんだよ! それ」
俺はこの時から、自分でも意識しないうちに声高になっていった。
俺はずっと我慢して、がんばって、矢萩を見習って、できるだけ冷静に話をするよう心がけていた。 だけど俺は矢萩と違ってまだガキだから、彼のように淡々としてはいられなかった。
矢萩はこんな話の最中でも終始穏やかで顔色一つ変えず、まるで昨日見たテレビの話でもしているかのようだった。
そんな彼の大人ぶりとガラステーブルに反射する人工的な光が、俺をイライラさせた。
心地よい暖房の入り具合も、もう苦しくなくなったはずのネクタイも、矢萩が腕にはめているスポーツタイプの時計さえも、何もかもが俺をイライラさせた。
「お前はまだ未成年だ。きちんとした保証人がいないと金融関係の仕事には就けない。 俺はお前の保証人になっているんだ。金の管理はお前を保証する俺に任せてもらう」
「そんなの、聞いてない」
「世間の常識というやつさ。俺にはお前を雇った責任というものがあるんだよ」
世間の常識。それは今まで矢萩が口にした言葉の中で最も最悪な言葉だった。
「だったら言うけど、これじゃ足りないんだ」
「お前が10万と言ったんだぞ」
「それはそうだけど……」
「言えよ。いったいいくらいるんだ?」
俺は口ごもった。その先何度も口ごもった。
俺はすべてを話さなければいけなくなる。その時にはもうそんな事は分かり切っていた。
だけど俺が話そうが話すまいが、矢萩はきっとすべてを知っていた。
「翼、俺にウソは言うな。お前は俺を騙せない」
彼はソファに座り直し、背もたれに寄り掛かり、自信たっぷりにそう言った。
彼の切れ長の目は俺を挑発しているように見えた。 この挑発に乗ってはいけない。俺はそう思って冷静になろうと努力した。 だけど彼はその目で更に俺を追い詰めていった。

 結局のところ、俺が社長室へ行った事からして彼の思惑通りだったのかもしれない。 だけどその時の俺は、まだそこまで分かってはいなかった。
ただ話せば話すほど空気が淀んでいくような、そんな気配は体全体で感じ取っていた。
ここを乗り切って次の用件を伝えなければならない。俺は人工的な光の下で、まだそんな事を考えていた。
「口座に入っている金を、全額おろしたい」
「何に使う?」
「あんたに関係ない」
「関係あるさ。お前は俺を納得させない限り金を手に入れられないんだからな」
「汚ねぇな」
「汚いのはそっちだろ? 俺が何も知らないと思っているのか?」
その言葉。それは "俺はなんでも知っている" と聞こえた。
「考えている事を全部話せ。じゃないと何も始まらないぞ」
俺はまた口ごもった。
俺が考えている事を全部話したら、矢萩との関係は終わる。
さっきまで心地いいと感じていた暖房の入り具合が、急に俺の体に合わなくなった。 掌にも背中にも、じんわりと汗が滲んでいる。
なのに矢萩は涼しい顔をしていた。人に汗をかかせておいて、自分はいつだって涼しげだ。

 「女か?」
"おはよう" と同じ言い方で、彼の声がそう言う。
俺はやっぱりすべてを話さなければいけなくなる。
俺は矢萩から銀行印を受け取り、たった半日休みを欲しいと言うつもりだった。 でも、これでは2つ目の用件を切り出せない。 矢萩はなんでも知っている。 金を持って休みを取って、俺がどこへ行こうとしているか。そんな事はすぐにばれる。
俺は自然と笑いがこみ上げてきた。 ここしばらく半日休むための言い訳をずっと考えていたが、思い付いたのは我ながら説得力のない理由ばかりだったと今更ながらに反省した。
調子が悪いから病院へ行くとか、ちょっと遠出をしてみたいとか、そんなウソが彼に通じるわけはない。
「本当は言わなくたって分かってるんだろ?」
「俺が分かってるからって何も言わないのか? 何も言わなくても分かってくれると思ってたのか? どっちだ?」
俺の声が半分笑っていても、矢萩はその事に関心を示さなかった。 俺は何も言い返せず、ただ俯く事くらいしかできなかった。

 ガラステーブルに反射する人工的な白い光。俺はその中にナナの姿を見た。
彼女の長い髪と人形のように透き通る灰色の目が鮮やかにフラッシュバックする。
辛い事ばかりだった暮らしの中で、俺にはナナの存在だけが唯一の救いだった。 あの灰色のキラキラした目で見つめられると、なんでもしてやりたくなった。
でも今、彼女の目を光らせているのは下品なネオンの数々だ。
本当は矢萩に彼女の話なんかしたくはなかった。 俺が過去を振り切れずにいるという事実は、ここではマイナスだ。
俺はもう下を向くのはやめた。矢萩の真似をするのもやめた。 その時矢萩は俺の変化に少しは気付いただろうか。
「灰色の目をしたナナを知ってる?」
「ちょっとはな」
「彼女が今どんな環境に置かれているのかも?」
俺が質問を2つ続けると、矢萩が初めてイライラする仕草を見せた。 そんな事は分かっているから先を急げと言わんばかりに顔をしかめ、彼は2度3度と首を振って見せた。
「俺が聞きたいのはお前がどうしたいのか、って事だ」
「ナナを助けたい」
「それで? どうやって助ける?」
「金さ」
「たった百万かそこらでカタがつく話なのか?」
「いや。でも、百万あればナナはしばらくの間自由になれるんだ」
「しばらくって? 10日くらいか?」
やっぱり、分かってるんじゃないか。
「それで? お前は彼女に10日間の自由を与えた後また帰すのか?」
「……」
「それで本当に助けた事になるのか?」
「分かってる。その場しのぎだって事くらい、よく分かってるよ」
「いや。お前は全然分かっていない」
矢萩の声が変わった。それはよく聞いていないと分からないくらいの小さな変化だった。
俺は恐らくこの時、矢萩を本気で怒らせた。

 矢萩の切れ長の目が真っ直ぐ俺に向けられている。でもその目はもう優しくはない。
俺はこの時、彼を怖いと感じていた。この密室に彼と2人でいる事がすごく怖かった。 最初に彼と会った日、もっと狭い車の中に2人きりでいた時よりもずっと怖かった。
心地いい暖かさが漂うはずのこの部屋でついさっきまで汗をかいていたのに、その時は逆に寒気を感じていた。
矢萩を本気で怒らせたらどうなるのか。俺はまだその答えを知らなかった。 ただ、この人を怒らせたら怖いという事だけは直感で分かった。
矢萩が身を乗り出し、白い電話機の上に乗った朝刊を床の上に落としてその受話器を手にした。 その後俺は1番聞きたくない言葉を彼の口から聞く事になる。
「翼、お前はクビだ。さっさと出て行け。園長には俺が電話しておいてやるよ。お前を一生よろしく、ってな」
矢萩がカードを切った。しかも、最強の切り札だ。
彼は俺が冷静でいられなくなるのをちゃんと知っていてこのカードを切ったんだ。
矢萩は受話器をしっかりと握り、ある番号を右手の指でプッシュしていった。それは紛れもなく "ひかり園" の電話番号だった。
「やめろよ!」
俺は矢萩の手から受話器を奪い、電話線を引きちぎった。 白い電話機は床の上に落下して、恐らく二度と使い物にならなくなった。
「あそこへ帰るのは嫌だよ!」
「どうしてだ? 18年も暮らして来た所へ帰れるんだぞ。もう慣れ親しんだ土地だ。今まで通りやっていけるさ」
矢萩はそう言って床に落ちた電話機を拾い上げようと手を伸ばした。 俺は彼より先に電話機を拾って立ち上がり、遠くの方へ放り投げた。
白い電話機は鈍い音をたてて遠くの床の上で転がり、その衝撃で割れてしまったどこかの部品がシミ1つないカーペットの上に散らばった。
「嫌だ。絶対に嫌だよ! あそこへはもう二度と帰らない。帰るなら死んだ方がマシさ」
「彼女もきっとそう言うぞ」
反応が早い矢萩の声。目の前に立ちはだかる彼が俺を見下ろしていた。
俺はひどく呼吸が苦しかった。矢萩の声はとても小さく聞こえた。 胸を押さえて深呼吸し、ガラステーブルを見下ろすと白く反射する人工的な光の中で今度は園の様子が鮮やかにフラッシュバックした。
土いじりをしながら見上げた朝日。 食堂の張り詰めた空気。 密室の中で園長にぶん殴られる俺。
頭の中で声の揃った "おはようございます" が何度もこだまする。
俺の隣で泣きじゃくる幼い日のナナの声が容赦なく耳に響く。

 俺がこんなに苦しいのに、誰も助けてはくれない。矢萩も俺に容赦しない。
彼の薄い唇から放たれる言葉すべてが俺を追い詰めた。 淀んだ空気を震わせる彼の低い声。その声が、園長のダミ声と重なって聞こえる。
「彼女は幸せな10日間を過ごした後、きっと帰りたくないと言って泣くぞ。その時お前はどうするんだ?」
頭の上から降り注ぐ矢萩の声。いつかこの声も、恐怖の瞬間として思い出すようになるのかもしれない。
彼を見上げる小さな俺も、涙を堪えて握った拳も、いつの日か辛い思い出として心のスクリーンに蘇る。
俺はきっとガラステーブルに反射する人工的な光を見るたびに、今の自分を鮮明に思い出す。
「いろいろ考えたよ」
「どんな事だ?」
「月3百万あれば、ナナはずっと俺と一緒にいられる」
「甘いな」
「どうして?」
俺は立っていられなくなった。俺は園の事を思い出すとパニックに陥る癖があるようだ。
わずかにフラついた俺を支えて再びソファへ座らせたのは矢萩だった。 俺の頭はもうぼんやりとしていた。なのにまだ喋っている自分が不思議でたまらない。
オマケにすぐ近くで矢萩の声が呪文のように聞こえてくる。
「彼女を拘束している組織はお前に1ヶ月もあの子を預けたりはしない」
「だから、どうして?」
「彼女は高給取りだ。1ヶ月も目の届かない所へ置いて逃げられたら大損だからな。そのくらい分かれよ。相手の身になって考えればすぐに分かる事だろ?」
俺は絶望的な気分でその言葉を聞いた。
相手の身になって考える? 笑わせるな。 今まで誰が俺やナナの身になって物を考えてくれたというんだ。
「じゃあ、どうすればいいんだよ?」
「組織から彼女を買い戻すんだな」
「そんな事できるの?」
「できない事はないが、不可能だ」
「どっちなんだよ!」
「彼女はいくつだ?」
「17歳」
矢萩は頭の中で素早く計算して、更に絶望的な事実を述べた。
「彼女の稼ぎは月3百万。今17歳って事は、あと20年は十分使い物になる。 20年分の稼ぎを計算すると約7億だ。 あの子は恐らくはした金で売られたんだろうけど、あと2〜3年たてば彼女の値打ちは上がると言ってもっと吹っ掛けてくるぞ。 8億か9億か、もしかして10億寄こせと言ってくるかもしれない。とてもお前の手には負えないよ」
「じゃあ、放っておけって言うの?」
「そうは言ってない。そんなに助けたいなら自分で10億稼いで来いって事さ」
その話はそれで終わってしまった。何も言い返す言葉が見つからない。
矢萩はスポーツタイプの腕時計に目をやって立ち上がり、さっさとデスクの前へ行ってオンフックのまま内線ボタンを押し、経理担当者に社長室へ来るよう呼びかけた。


 俺は座ったまま目を閉じて呼吸を整えながら思った。
きっと矢萩には分からない。
俺たちがこうして暖かい部屋で顔を突き合わせている時にも、ナナはケチなオヤジの相手をさせられているんだ。
社長室のカーペットの上にはシミ1つない。ここはあまりにも綺麗すぎる。
ナナがシミのついた畳の上で何をされたか。彼女がどんな顔で、どんな声で俺にその時の事を語ったか。
ナナはあの時、俺の手をぎゅっと握り締めながら声を殺して泣いていた。 あの小さな冷たい手の感触と、俺の右手にポタリと落ちた温かい涙の感触。あの時の風。あの時の匂い。
それを知っているのは、この俺だけだ。
ゴミタメの真ん中にあるケチな男のための公園。あんな最悪な場所で、あんな最悪な話をしなければならなかった俺たちの事なんか、矢萩に分かるはずがない。
矢萩はなんでも知っているような顔をしているが、肝心な事は何も知らない。何も分かっていない。
俺はナナをたった一晩自由にするために今まで何人もの金持ち女と寝た。
ヨーロッパから取り寄せたフカフカなベッドの上や、1台何百万もするウォーターベッドの上で。
でも、辛くなんかなかった。
ナナはもっとひどい思いをしている。羽根布団の感触を味わえる俺は幸せだ。俺はあの頃本気でそう思っていた。
たとえ刹那的でも構わない。
ナナは俺が会いに行くと喜んだし、一晩休める事が分かるとほっとしていた。 束の間の休みがすぐに終わってしまうと分かっていてもだ。
でも、最後に会った時のナナはいつもと少し違っていた。 もう限界なんだ。俺もナナも、もうとっくに限界を超えているんだ。
俺たちに先の事を考える余裕なんかありはしない。今を精一杯生きる。それしか考えられない。
仕立てのいいスーツに身を包み、ピカピカの靴を履いてリタイアした後の事を考えているような ヤツに、俺たちの事なんか分かるはずがない。

 矢萩はデスクに寄り掛かってまだ立ち上がれない俺を見下ろしていた。 窓の外からわずかに入り込む朝日が、彼の真っ黒な髪を光らせていた。
もう彼との関係は終わったんだ。 俺はここを出て行くべきだ。ここには俺の居場所はない。それは明らかな事実だった。
悔しさを噛み締め、できる限り平気を装って、俺は立ち上がった。
本当はドアへ向かって走り出したい。早くここから遠ざかりたい。 それでも俺はゆっくりと人工的な光の下、一歩一歩カーペットを踏みしめて歩いた。 靴の裏に伝わる柔らかな感触を味わうのはもう最後だと思っていたからだ。
すると、矢萩の声が背中を追いかけてきた。
ナナと最後に会った時の事を思い出す。
下品なネオンが光る町。幸せな人たちが行き交う歩道の上。 俺は胸が締め付けられる思いで彼女の冷たい手を振りほどいた。
走り去る俺の背中に向かって、あの時彼女はなんと言ったのだろう。 どうしてあの時、もう一度振り返って彼女の話を聞いてやらなかったのだろう。
「データは全部打ち込んだのか?」
俺は振り向かずに立ち止まり、背中でその声を聞いた。矢萩の声は普段通りの穏やかな声に戻っていた。 でも、当たり前だがそれはナナの甘い声とはまるで違っていた。
「もう全部打ち込んだよ」
当然俺もナナと話す時とは違う声で返事をした。 俺の足元には、壊れた電話機の小さな部品が2つ転がっていた。
「何か気付いた事はなかったか?」
「え?」
「何か気付かなかったかと聞いているんだ」
今更隠し立てするような事は何もない。 この10日間必死になって調べた事実を俺はあっさりと矢萩に打ち明けた。
「あのファイルに載っていた会社は全部、どこにも存在していなかったよ」
「その事にいつ気が付いた?」
「分からない。10日くらい前かな」
「お前、バカか?」
また矢萩の声が変わった。俺もその言い草に腹が立ってとうとう振り返った。
彼は俺が今どれほど自分を抑えているのかちっとも理解していなかった。 俺が握った拳の意味を、全く分かっていなかった。
「銀行印を受け取っていない事に気付いたのはいつだ?」
「分からない」
「そんな事くらい、すぐに気付けよ! 通帳にいくら数字が並んでいたって銀行印がないと1円もおろせないんだぞ」
「知ってるよ」
「俺はな、お前が銀行印を寄こせと言いに来るのをずっと待っていた。 ファイルの中身が異常だって事も、言いに来るのをずっと待っていたんだぞ」
「……」
「もっと気を引き締めろ! 百万払うと言われても実際に現金を手に掴むまで安心するな! 何かおかしいと思ったらすぐに言いに来い! もう少し考えて仕事をしろ。 窓を拭けと言われたら同時にドアの汚れも拭けるくらいにはなれ! ついでに汚れたカーテンも洗うくらいの事をしろ! お前はいったいこの1ヶ月間何を考えて生きていたんだ? 何も考えずにただ指を動かしていたのか? どうなんだ?」
「俺だって、いろいろ考えたよ」
もう何も喋れない。これ以上何か言うと、涙声になってしまいそうな気がした。
「俺との約束を破って彼女のいる町へ行って、英雄気取りになる事を考えていたのか?」
「……」
「もう行け。外へ行って頭を冷やして来い」
「……」
「早く行け。もうお前の顔なんか見たくない」

 彼の大きくて温かそうな右手が、俺を追い払う仕草を見せた。その仕草は、まるで薄汚い犬を追い払うかのようだった。
俺は彼に背を向け、とうとう走り出した。 靴の裏に連続して何度も柔らかいカーペットの感触が伝わってくる。
俺はもう絶対に振り向くまいと思っていた。頬を伝う涙を矢萩に見せたくなかったからだ。
「ああ! それから……」
俺が1枚目のドアへ辿り着いた時、また矢萩の声が追いかけてきた。 もう立ち止まりたくなんかないのに、どうして俺は足を止めてしまったのだろう。
「お前が打ち込んだデータは全部ダミーだ。全部ウソっぱちさ。ブルーのファイルは破棄してくれ」
俺はもう一度だけ後ろを振り返った。もう振り向かないと決めていたのに、最後にもう一度だけ振り向いた。
人工的な光の下で一定の距離を保ち、俺たちは目線をしっかりと合わせていた。
俺はこんな屈辱には慣れている。あんたが思うより、俺はずっと強い。 俺は矢萩にその事を思い知らせてやりたくて、じっと彼の目を睨み付けた。
その目が気に食わなかったのか、矢萩は最後の最後に冷たい言葉で俺を蹴り付けた。
「この俺がお前に極秘情報を預けるなんて、本気で信じたのか?」
人工的な白い光に涙のフィルターが加わって、遠くに立っている彼の表情がはっきりと見えた。
そこにはいつもの優しい目は存在していなかった。 デスクに寄り掛かり、腕を組んで俺を見つめる矢萩の目は、とても厳しかった。
やがて背後で社長室のドアがノックされた。きっと経理担当者がやってきたのだろう。
矢萩は何事もなかったかのように長く伸びた前髪を右手でかき上げ、「はい」と軽く返事をした。
彼の前髪をかき上げた右手は次の瞬間、 "バイバイ" と俺に手を振っていた。

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