月が見ていた  第1部
 8.

 俺は社長室を飛び出し、川中ビルを飛び出し、すぐにタクシーを捕まえて乗り込んだ。
「東山3丁目まで」
冷たいシートへ腰掛け、坊主頭の運転手になんとか声を振り絞って行き先を告げる。 そして車が走り出すと、失恋した女のようにひたすら泣き続けた。
俺だって別に泣きたくて泣いていたわけじゃない。 なんとかして涙を止めようとしたけれど、どうしてもうまくいかなかったんだ。
タクシーの走行中はルームミラー越しに何度も浅黒い顔の運転手と目が合った。 でももう二度と会う事のない相手だから、俺が今どんな顔をしていようと関係ない。
タクシーはオフィス街を素早く走り抜けて行った。
見上げると首が痛くなるほど背の高いビル。 秋晴れの空の下を颯爽と歩く都会の女たち。背中を丸めたサラリーマン。そしてせっせとチラシを配る若い男。
俺はもうすぐここにいられなくなるかもしれない。なんとかそんな都会の景色をしっかり目に焼き付けておきたい。
なのにこんな時に限って車はスイスイと走る。わずかに込み合っているのは、対向車線だけだ。

 俺は涙を止められないままタクシーを降り、涙を止められないまま家の鍵を開け、涙を止められないままベッドへ倒れこんだ。
太陽の光がいっぱい差し込む寝室の中は社長室の何倍も明るい。 だが俺はその明るい光をパスしてフカフカの枕に顔を埋めた。
止められない涙の訳は自分が1番よく知っている。
矢萩はいつも正しい。1ヶ月間この大きなベッドを独り占めした俺は、もう園に帰って暮らす事には耐えられない。
それはナナだって同じだ。10日間もここで穏やかな日々を過ごしたら、彼女はもうあのハキダメで暮らす事に耐えられなくなる。
俺を "英雄気取り" と言った矢萩の言葉が頼りない俺の肩に重くのしかかる。
未熟者の俺を照らす朝の光は温かい。その自然な光は俺を眠りの世界へ誘い込んだ。
枕に顔を埋めて目を閉じると、すぐに意識が遠のいていく。
もう2度と目覚めたくはない。万が一それが無理だとしても、今はぐっすり眠りたい。

 その後俺がどのくらいの間眠っていたのかはよく分からない。
とにかく、まだ日の高いうちに俺の静かな眠りを邪魔したのは、何十回も鳴り響くインターホンだった。
しばらく聞き流しても、布団をかぶって耳を塞いでも、ちっとも鳴り止まない電子音。
それでも俺は、無視を決め込んだ。温かな太陽の光が心地よくて、眠くてたまらなかったからだ。
俺は布団をかぶり、枕に頭を乗せ、ただじっと目を閉じて心を無にしていた。
だがしばらくして玄関のドアが開くガチャッという音が聞こえた時は、一気にパッと目が開いた。
そしてトントントンと足音が近づいてきて、すぐ側で寝室のドアの開く音がして、俺は突然頭からかぶっていた布団を誰かに剥ぎ取られた。そこまではあっという間の早さだった。

 心臓が止まりそうなほどの驚きを感じながら素早くベッドの上に起き上がる。
俺の目の前には太陽を背負って布団を抱えている中本さんの姿があった。
「お前なぁ、生きてるなら早く出ろよ。死んじまったかと思って心配したぞ」
中本さんは腕に抱えていた布団を床の上に放り投げ、仁王立ちになって寝起きの俺をじっと見下ろした。 彼の影が俺にかぶさり、せっかくの太陽が遮られている状態だ。
彼の顔は元々そういう造りなんだろうけど、こんな時でも目尻が下がっていて、しかも白い歯を見せて微笑んでいた。
「月末は忙しいんだ。サボってないで、出かけるぞ!」
俺は彼にそう言われてやっと矢萩とやり合った事を思い出した。
そうだ。俺はあいつに散々罵声を浴びせられて帰って来たんだ。
「中本さん、俺クビになったんだ」
俺は彼を見上げてその事実を告げた。 だが中本さんは俺の深刻な状況を知ってか知らずか、相変わらず微笑んだままでそこにいた。
「智也と喧嘩したのか?」
俺は大きく首を振った。すると、軽いめまいを感じた。
「あんなの、喧嘩とは言えない。俺が一方的に怒鳴られてただけだよ」
「ふぅん……」
いつも微笑みを絶やさない中本さんが、その時は随分不可解な顔をしていた。 その時の俺には、彼がどうしてそんなにおかしな顔をするのか理解できなかった。
「お前、大物だな。智也を本気で怒らせるのはお前くらいのものだぞ」
そう言って、彼はまたいつもの笑顔に戻った。
いったい褒められているのかけなされているのかよく分からない。
「だから、もう会社へは行かないよ」
中本さんは俺が言い終わらないうちにその言葉を笑い飛ばした。
「何言ってるんだ。上司と喧嘩するたびに会社を辞めてたら、この辺りは失業者だらけだぞ」
「だから、喧嘩じゃないってば」
「まぁいいから、顔を洗って来い。とにかく出かけるぞ」
俺は中本さんに押し切られ、その後彼と2人で家を出た。
本当は合鍵を返してほしいと言いたかったけれど、言っても無駄だと思って黙っていた。

 マンションの前には、中本さんの白い乗用車が止められていた。 外の空気は冷たかった。 俺たちはすぐに車へ乗り込み、彼の言うようにとにかく走り出した。
車に備え付けられている時計は午後2時を差していた。
俺はある事が気になってハンドルを握る中本さんの左手首に目をやった。 だがいつもその辺りで輝いていた金色の時計がない。 その代わり、黒い皮ベルトのシックな時計がジャケットの袖口から時々見えた。
「金色の腕時計は?」
さりげなく聞くと、中本さんはチラッと俺の方を見て白い歯を見せた。
「智也に趣味が悪いからやめろと言われたのさ」
俺はそれを聞いて少しほっとした。園長とお揃いのあの時計はもう見なくて済みそうだ。
車線変更をしながら中本さんが言う。
「お前も時計くらい買えよ」
俺はちょっと上機嫌で答える。
「そんな金ないよ」
「智也に買ってもらえ。あいつ、今ならなんでも買ってくれるぞ」
意味が分からない……
俺は彼にそっぽを向いた。 車の中は温かくて、太陽の光もいっぱい差し込んでいて、なんだかまた眠くなりそうだった。

 それからしばらく会話はなく、俺はじっと窓の外の景色を見つめていた。
街路樹の葉っぱは枯れて、大部分が散っていた。歩道に落ちた枯れ葉を掃除している人も、たびたび見かけた。
いつも朝俺に声を掛けてくれる美容室の女がガラス張りの店の中で忙しく動き回っていた。 飲食店の窓際の席では、若い女たちが向き合ってお茶を飲んでいるようだった。
中本さんがいったいどこへ車を走らせているのか。そんな事にはあまり興味がなかった。 その時の俺は思い切り泣いた後ですっきりしていたというか、わりと気分が落ち着いていた。
俺は強いというより図々しいのかもしれない。 起き上がった後少し頭が回転してくると、 "まぁなんとかなるだろう" という楽観論が心の中に広まりつつあった。
大きな交差点へ差し掛かると、一瞬この車は会社へ向かっているのかと思った。 だが車は会社へ向かう道へと左折する事はなく、そのまま真っ直ぐに進んだ。 どうやら俺たちは郊外の方へ向かっているようだ。
「お前、川中さんの息子らしいな。智也のヤツ、今日までそんな事全然話してくれなかったよ」
俺は大きな交差点を過ぎた後中本さんに急にそう言われ、目線を外の景色からニコニコ顔の彼へと移した。
「川中さんって?」
「川中良三。お前の親父さんだよ。智也に聞かなかったのか?」
「いや……」
中本さんは気のない返事を聞きながら左手の親指を立てて後ろを指した。
「後ろに缶コーヒーがある。毒は入っていないから、飲めよ」
俺は前方から差し込む強い太陽の光を避けるようにシートの隙間から後部座席を覗き、そこに転がっていた缶コーヒーを手に取った。
ここは中本さんを信用して、ぐっと一息飲んでみる。 すると温くて甘ったるいコーヒーの味が口の中全体に広がった。
前を向くと、太陽が眩しい。俺は目を細めながら少しずつコーヒーを口へ運んだ。
「お前を川中さんの籍に入れてやれなくて悪かったな。その辺にはいろいろと深い事情があるんだよ」
「いいよ、別に」
「川中さんとの付き合いは俺より智也の方が長いんだ。 俺はあの人に息子がいるなんて、全然知らなかったよ。でもお前は親父さんとは似てないな」
「そう? 興味ないよ」
俺はそう言ってコーヒーを飲み干し、また窓の外へ目を向けた。
親父に興味がないと言ったのは本当だった。 俺にはずっと親がいるという感覚なんかなかったし、いたとしてももう殺す気なんかないし、殺そうと思っても死んでいるわけだし。

 しばらく走って行くと、左手に海が見えてきた。
こんな都会にも海があるんだ。俺はちょっと感動した。
防波堤の向こうに果てしなく続く海の波は高く、白い波しぶきがあちこちで見えた。
しばらく忙しい都会の景色ばかりを見ていた俺だけど、たまに自然と向き合うとなんとなく気持ちが和んだ。
夏になったら泳ぎに来よう。 一瞬そう思ったが、"お前はクビだ" と言った矢萩の言葉がまだほんの少し俺の心を支配していて、そんな希望を持つべきではないと思い直した。
海沿いの道をしばらく走り、前方に大きな白い建物が見えてくると、中本さんは車を道路の左端へ寄せて止めた。
「あの家へ行って集金して来てくれ。車椅子に乗った婆さんが応対してくれるはずだ。何か聞かれたら中本の代理だと言えばいい」
中本さんは綺麗にサイディングされた白い家を指差してそう言った。
「いくら貰ってくればいいの?」
「78万だ。領収書は切らなくていい。ただ婆さんが差し出す現金を貰って来てくれればそれでいい」
俺はその時、自分が本当にまだ仕事に関わっていていいのか半信半疑だった。 だけど中本さんが背中を押すから、まぁいいやという思いで車を飛び出した。

 それから、何軒か家を回って同じように集金した。
中本さんは助手席の俺に集金してきた金を数えさせながら上機嫌で車を走らせていた。
「お前がいると助かるよ。集金が早く終わった。俺は金勘定が苦手なのさ。お前が車の免許を取ったら集金は全部任せるからな」
俺は彼の独り言を黙って聞きながら、ひたすら金を数えていた。
心は上の空だった。中本さんはこんなふうに言うけど、矢萩はきっと俺を許さない。
俺は園に帰るのは絶対に嫌だったし、かといって他に行く所もない。 頭の中で何度も矢萩に謝る自分を想像してみたけれど、想像の中の矢萩はいつも俺を許してはくれなかった。
窓の外には海が見える。だけどその海の水は夏と違ってきっと冷たい。

 海沿いの道を更に30分ほど走ると、車はある坂道を一気に上って行った。
さっきまですぐ側にあった波の荒い海が眼下に広がる。 俺は車の窓ガラスに張り付いて白い波しぶきをずっと目で追いかけていた。
「どうだ。眺めがいいだろう」
中本さんは坂道を上り切った所でそう言った後、車を止めた。
そこは小高い丘の頂上で、後ろを振り返るとアスファルトの上に白線の引かれた駐車場が果てしなく広がっていた。
そして前を向くと、眼下に海。絶景だ。
丘の上には強風が吹き荒れ、車の中にいてもビュービューとものすごい風の音がした。 サイドミラーに映るほとんど葉のない木の枝が大きくしなっている。 太陽の位置は少し低くなっていた。
俺たちは風の音を聞きながらしばらく海を眺めた。
中本さんは少しシートを倒し、ツイードのジャケットを脱いでネクタイを緩めていた。
「翼、秘密を守れるか?」
突然そう言われ、俺は海を見つめたままでのんびりと返事をした。
「うん、守れるよ」
中本さんは何やら思い出し笑いをしているようだった。彼は右手で缶コーヒーを開けながら、ちょっと信じがたい事を口にした。
「俺なぁ、智也にお前の様子を見てきてくれと頼まれたんだよ」
俺は彼の顔を横目で睨み、率直な言葉を返した。
「ウソだ」
「信じなくてもいいけど、あいつはきつい事を言い過ぎたと反省してたよ。でもこんな事俺が言ったなんて、智也には絶対秘密だぞ」
とても信じられない。朝の矢萩を思い出すと、彼がそんな事を言うなんて絶対に信じられない。
「お前の涙が相当堪えたみたいだぞ」
中本さんが、そう言ったような気がする。 だけど大きな風の音にかき消されてその声はよく聞き取れなかった。
眼下に荒波が見える。
冷静になって思い返すと、恥ずかしかった。 今まで人前で泣いた事なんかなかったのに。園長に斬りつけられた時でさえ、決して泣くような事はなかったのに。
考えてみると、あれほど感情的になった自分を体験するのは生まれて初めてだったような気がする。
以前はどんなに腹が立ってもその思いを表現する事は避けていた。ずっと自分を殺していた。
俺の怒りの矛先はいつも園長と決まっていたが、あいつに逆らう事は地獄を意味する。 園にいるというだけで十分地獄なのに、下手に逆らってメシを抜かれたり斬りつけられたりするなら 自分の感情を無視していた方が利口だと思っていた。
俺は、どうして矢萩に歯向かう事ができたのだろう。
状況は以前と変わらない。彼に逆らったら地獄行きだという事に変わりはない。
なのに、どうしてあんなに感情的になってしまったのだろう。

 「ちょっと降りてみるか」
中本さんにそう促され、俺たちは車外へ飛び出した。外は目を開けていられないほどの強風が吹き荒れていた。 なんとかして目を開けようとすると今度は風に乗ってどこからか飛んできたゴミが目に入り、さっきとは違う意味で涙が出た。
中本さんが指差す方角へ歩く。ほとんど車のない広い駐車場を突き抜けて真っ直ぐに行くと、やがてコンクリートの階段が見えてきた。
「下へ行けば風が止むから!」
中本さんがそう言うので、俺は急いでコンクリートの階段を駆け下りた。 するとたしかに、突然風が止んだ。前を行く中本さんの後を追うとしばらく細い道が続き、その奥にまたコンクリートの階段があって、そこからはたくさんの墓石が見えた。
「ここ、墓地なの?」
中本さんは何も答えずに俺を振り返って手招きし、俺たちは更にコンクリートの階段を下りて行った。
ズラリと並ぶ墓石。その中で一際目立つ黒い墓石に俺は目を奪われた。
近づいてよく見ると、その黒い石には "川中家" と刻まれていた。 俺はすぐにここが親父の墓なんだという事が分かった。
横幅の広い立派な墓石の手前には、白や黄色の花がたくさん供えられていた。
「智也だな」
中本さんが花を見てそう呟いた。
"川中家" と刻まれた墓石の裏側へ回ると、そこには "川中良三" と "川中絵理" という名が小さく刻まれていた。
「絵理って、誰?」
俺はすぐ隣に立つ中本さんの顔を見上げて尋ねた。だけど彼は何も答えずにそっと目を伏せた。
遠くの方で、波の音が聞こえた。


 次の朝。俺はいつも通り出勤した。 中本さんに絶対そうしろときつく言われていたし、何よりも他に行く所がなかったからだ。
俺はやっぱり、図々しいのかもしれない。
少し前までの俺なら、あんな事を言われた後ここへ来る事を躊躇していた。
きっと俺は矢萩に飼い慣らされたんだ。 月50万の給料とキングサイズのベッドは、簡単に捨てられないほど魅力的なエサだった。
昨日の事がウソのように、最上階のオフィスはいつも以上に静かだった。
椅子に腰掛けて鏡の壁の向こうの空を見つめる。 灰色の空はどんよりしていた。靄がかかっていて、ろくに何も見えやしない。
その時俺は、何をするべきか分からなかった。
パソコンを立ち上げる事もせず、椅子の背もたれに寄り掛かり、昨日墓場で中本さんが言った言葉を思い出す。
彼は言った。
矢萩はこれからも俺に辛く当たるかもしれないが、あいつは絶対に俺を裏切ったりはしない、と。
確信めいた中本さんの言葉を聞いて、俺は思った。
きっと、まだ俺の知らない事がたくさんある。 矢萩は都合の悪い事は話さない。彼はきっと、まだ俺に黙っている事がたくさんある。
墓石の裏に名のあった "絵理" という女の事も気になる。
矢萩はおふくろが今どうしているかという事は何一つ話してくれていない。
"絵理" というのはもしかして、俺のおふくろの名前だろうか。 いや、あり得ない。親父が逃げた女と同じ墓に入るとはとても思えない。
矢萩に "絵理" という女の事を聞いてみようか。でも、俺の本能がそれはやめておけと主張している。

 ノートパソコンを開いて、真っ黒な画面に自分の顔を映してみる。
俺の目はそれほど大きくはない。鼻は高くもないし、低くもない。 頬はこけているし、顎は尖っている。特徴があるのは、だらしのない唇だけ。
中本さんは、俺と親父は似ていないと言った。だとしたら、この顔は母親似なのだろうか。
「はぁ……」
「入るぞ」
俺のため息と、ドアの向こうの低い声が重なった。
矢萩はいつもこうだった。いつだって心の準備が整わないうちに俺の前へ姿を現す。 しかも足音もたてずにやってくる。
昨日は中本さんの集金に付き合った後ここへ戻らずに家へ帰ったから、あれ以来彼と顔を合わせるのは初めてだった。 どうしたって気まずくなるのは必至だ。
「何ぼんやりしてるんだ。仕事中だぞ」
だが今朝の彼は、見事なくらいにいつもの矢萩だった。 ビシッとスーツを着込み、肩に力が入っていて、お決まりの優しい目で俺を見つめている。
"反省してたよ" という中本さんの言葉が遠く彼方へ消えていく。
彼はさっさと歩いて俺の目の前に立ち、ぶ厚いブルーのファイルを俺に差し出した。 またかと思ったがそうも言えず、しかたなくデスクを挟んで彼の手からファイルを受け取った。
その時、ほんの少しだけ矢萩の指と俺の指が触れ合った。 だけどそれはほんの一瞬で、そこから彼の体温を感じ取る事はできなかった。
「今まで打ち込んだデータ、まさか消してないよな?」
その言葉は、ちょっと意外だった。あれは全部ウソだと言っていたのに。
「あれは暗号化されているんだ。絶対に消すなよ」
俺は何も言えず、ただ矢萩を見上げている事しかできなかった。

 やっと分かった。
俺は自分を信じている。
矢萩と会った最初の夜。あの時俺は彼の手が温かい事を信じた。 あの時のカンが俺を今朝ここへ来させたんだ。
今の俺の心の中が見えたら、矢萩は怒るだろうか。簡単に人を信用するなと言って、また怒るだろうか。
でも俺は彼を信じているわけではない。ただ、自分のカンを信じているだけだ。 今までずっと自分だけを頼りに生きてきたのだから。
「ファイルの中身がウソだと言ったのはウソだよ」
俺を見下ろし、悪びれた様子もなく淡々とそう言う矢萩。
彼にとっては二重のウソ。でも、ウソが2つ重なるとそれは真実になる。
「それから、秘書課で仕事が行き詰まっているらしいから、何か頼まれたら手伝ってやれ。それと、もう手続きは済ませてあるから今日の午後から自動車教習所へ通え。免許書を偽造するのは面倒なんだ」
またいっぺんに早口でいろいろな事を言われ、頭が回転しない。
俺は矢萩に関してはまだまだ手探りだった。俺の頭の中は今朝の空模様と同じで靄がかかっている。 でも、その中に小さな光が差した。俺はその光を決して見逃しはしない。

 矢萩は今日も忙しそうに腕時計を見て時間を気にしている。
俺は彼の腕に巻かれたスポーツタイプの時計が気になっていた。 本当は昨日から、ちょっといいなと思っていたんだ。
「ねぇ、それ」
「ん?」
俺が腕時計を指差すと、矢萩はちょっと不思議そうな顔をしてもう一度自分の手首に目をやった。
「その時計、欲しいな」
「これか? 安物だぞ」
「昨日から欲しいと思ってたんだ」
矢萩は "昨日" という言葉に敏感だった。俺はその言葉を聞いた時の彼の目を見逃さなかった。
急に俺と目を合わせようとしなくなった矢萩。親父が死んだ事を俺に告げた時と同じ態度だ。
矢萩は親父が生きているうちに俺と会わせられなかった事に対して負い目を感じていた。
彼は確かに今、昨日の事で俺に負い目を感じている。
矢萩はちょっと考えた末に腕時計を外し、案外あっさりと俺にくれた。
俺は強いというより、やっぱり図々しいのかもしれない。

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