夢の続き
 2.

 自分は人にはない不思議な力を持ち合わせている。その事をはっきりと認識したのは小学6年、12歳の時だった。
それまでにも何度か思い当たる事はあったけど、12歳のあの日まではまだはっきりとした確信がなかった。

 最初の夢。それはたしか5歳の時だったと思う。
俺の夢はものすごくリアルだった。
他の人がどんなふうに夢を見るのかはっきりとは分からないけど、俺の見た夢はあまりにもリアルな映像で、まるで夢と現実の境界線が分からないほどだった。

 母さんは俺の目の前にいた。だけど母さんには俺が見えないらしい。
そこはどこかの家だった。そう広くはないアパートだ。
カーペットはうすい水色。茶色の革張りのソファとガラステーブル。そして、その部屋には大きすぎるくらい大きなテレビ。
シンプルな部屋にはその程度の物しか置かれていなかった。
いったいここは誰の家なんだろう。

 まだ小さかった俺はキッチンに立つ母さんを見上げていた。
母さんはオレンジ色のエプロンをしてハンバーグを作っているところだった。どうやら2人分だ。
俺は当然自分と母さんが食べる分だと勝手に思い込んでいた。
ハンバーグは俺の大好物で、母さんの得意料理だった。
早く食べたいな……
俺は母さんの側でハンバーグができるのを心待ちにしていた。

 ハンバーグが皿に盛りつけられる頃、玄関のドアが開いて1人の男が現れた。
見た事もない大人の男の人だ。
その人は背が高くて、とても優しそうな感じの人だった。
彼が何か言うとその声に母さんが応えた。
どうやら俺の夢は音までは聞こえないらしい。
俺はがっかりしていた。2人分のハンバーグは母さんとその人の分だったんだ。
母さんには俺が見えない。それじゃしかたがない。

 今来たばかりの彼はハンバーグの乗った皿を2つ、ガラステーブルへと運んだ。それからご飯の入った茶碗と味噌汁の入ったお椀も2つずつ運んだ。
それは見慣れない光景だった。うちの父さんは絶対そんな事をする人じゃなかったからかもしれない。
母さんはエプロンをはずしてソファに腰掛け、彼が座るのを待っていた。
そして2人が揃うと食事が始まった。
俺は自分だけ食べられない事が悲しくてしょうがなかった。

 「あきらくん、起きて」
その声が夢と現実の境界線だった。
今のは夢だったんだ。
俺を起こしたのは保育園の先生だった。どうやらハンバーグの夢は保育園の昼寝の時間に見た夢だったらしい。
昼寝の後は大勢の友達と元気に外で鬼ごっこをして遊んだ。
そのうちにそんな夢の事なんかすぐに忘れてしまった。

 忘れてしまったはずの夢を今ここで語っているのは何故か。
それはその後母さんが保育園に俺を迎えに来た時、すべてを思い出したからだ。
「あきらくん、ママがお迎えに来たよ」
先生に呼ばれて走って行くとそこには笑顔の母さんがいた。
俺はその瞬間すぐにさっきのリアルな映像を思い出した。
母さんがブルーの花柄のワンピースを着ていたからだ。
間違いない。母さんは夢の中でも同じ花柄のワンピースを着ていた。

 俺は母さんに手を引かれて保育園を出た後もずっと母さんの顔を見上げていた。
あの夢はいったいなんだったんだろう。あの部屋はいったいどこだったんだろう。母さんは何故あの人と一緒にいたんだろう。
「あきら、お夕飯の買い物して帰ろうか。今日、何が食べたい?」
俺は母さんの問い掛けに即答した。
「ハンバーグ」
すると今まで機嫌よく笑っていた母さんの顔が見る見るうちに曇っていった。
「ダメよ。いつも同じものばかり」
俺はその時思った。母さんは今日ハンバーグを食べたんだ。

 それから後もずっとリアルな夢を見続けた。それはそれはいろんな夢を見た。
だけど、夢の中で起こった事が本当に現実とつながっているのか、その事については確信が持てずにいた。
そして12歳の時の、あの夢だ。
俺はあの夢ではっきりと自分の持つ不思議な力を自覚する事になる。

 外は小雨が降っていた。
4つ年上のお姉ちゃんは昼間から自分の部屋にいた。
そして押入れの中から旅行用の大きなかばんを取り出し、その中に次々といろいろな物を詰め込んでいった。
お気に入りの洋服、バッグ、靴、髪に巻くカーラー、弁当箱、そして洗面道具。
またいつもと同じだった。お姉ちゃんには目の前にいる俺が見えないらしい。
俺は最初、お姉ちゃんがどこか旅行へ行くんだと思っていた。でも、それにしてはどうも様子がおかしい。

 お姉ちゃんは荷造りが終わるとしばらく自分の部屋の中をじっと見つめていた。まるでもう戻らないかのような視線だった。
その後お姉ちゃんは俺の部屋を覗き、あちこちに脱ぎ捨ててあった俺の洋服や靴下を丁寧にたたんでベッドの上に並べた。
そして俺の机の上にそっと手紙を置き、その後は何かを吹っ切るようにしっかりとした足どりで自分の部屋へ戻り、荷物を詰め込んだ水色のかばんを重そうに持つと今度は玄関へ向かった。

 俺はお姉ちゃんの後を追って一緒に玄関まで行った。
声を出したいのに、どうやっても言葉を話す事ができない。
その時俺にはもう分かっていた。お姉ちゃんはきっともう家へは戻らないつもりだ。
「お姉ちゃん、どこへ行くの? 一緒に連れて行って」
そう言いたいのに言葉が出ない。早く止めないと、お姉ちゃんが行ってしまう。
お姉ちゃんはチェックの柄の傘を持ち、玄関のドアを開けて外へ出た。
そしてしっかりとドアに鍵をかけ、その鍵をポストの中へと投げ入れた。
俺はそれ以上追いかける事ができなかった。足が地に張り付いたように急に動けなくなってしまったんだ。
お姉ちゃんは一度だけ長年住み慣れた家を振り返った。でもその後は前だけを見て真っ直ぐに歩き、そのうち姿が見えなくなってしまった。

 その夢を見た後はずっとお姉ちゃんの言動に気を付けていた。
お姉ちゃんが出て行く気なら俺はその時家にいて絶対に止めなければならない、そう思っていたからだ。
ただ、しばらく日がたつとだんだんリアルな夢の映像が薄れていった。
その間お姉ちゃんは俺が知る限りいつも通りの生活をしていたと思う。
あれは単なる夢で現実に起こる事ではないんだ。俺はしだいにそう思うようになりつつあった。

 ところがそれは突然だった。
夢を見た日からちょうど1週間後の事だ。
その日は朝から晴れていて、俺は学校の体育の時間に皆と外でなわとびをしていた。
小雨がパラついてきたのはその時だ。
今までカラッと晴れていたのが突然雨が落ちてきたので、先生が俺やクラスの皆に「急いで体育館へ移動して」と言った。
俺は手に持っていた黄色のなわとびをグルグルと振り回しながらげた箱へ走り、上靴に履き替えると体育館へ素早く移動した。
その時はお姉ちゃんの夢の事なんかまるっきり忘れていた。

 だけど、放課後になって小雨の降りしきる中ダッシュで家へたどり着き、母さんにタオルで頭を拭いてもらって着替えを済ませ、自分の部屋へ入ったその瞬間にすべてを思い出した。
机の上に手紙が置いてあったからだ。
俺は手紙を手に取るとむさぼるように封を切り、中に入っていた1枚の便箋を広げた。
別れの手紙にはそぐわない、赤とピンクのチューリップの絵の便箋だった。

あきらへ
あきら、ごめんね。お姉ちゃんはこの家を出て行きます。
でも、あきらの事が嫌いになったからじゃないよ。
あきらと離れるのはすごく淋しくて泣いちゃいそうだけど、
それでも行きます。
パパやママと仲良くね。 早く大きくなって。
それから、女の子には優しくしなくちゃダメだよ。
お姉ちゃんはずっとあきらの事を見守ってるからね。
ばいばい。元気でね。

 短い手紙だった。俺はその手紙を何度も何度も読み返した。
三度目に読んだ時には涙でほとんど文字が見えなくなってしまった。
鉛筆で書かれたその手紙には何回も書き直した跡がある。
お姉ちゃんはその手紙を書く時にはきっとまだ迷っていたんだ。

 自分を悔やんだのはその時が初めてだ。
俺はすべてを知っていた。それなのに、お姉ちゃんを止める事ができなかった。
小雨が降り始めた時すぐに気づいて家へ帰ってくれば、そうすればお姉ちゃんはまだ家にいたかもしれないのに。
俺が泣いて頼めば思いとどまってくれたかもしれないのに。
今更悔やんでも遅すぎる。その事がますます自分を追い詰めた。

 そうだ、母さんは?
母さんはお姉ちゃんが出て行った事を知ってるのか?
俺は急いで母さんのいるリビングまで走っていった。するとそこでは母さんの笑い声がした。
母さんはソファに深く座り、楽しそうに誰かと電話で話をしていた。
俺はもどかしくて長々と話し込んでいる母さんの腕を何度もしつこく引っ張った。
それでも母さんはなかなか電話を切ろうとしない。母さんは俺の手を何回振りほどいたか知れない。
やがて母さんは電話の相手に「子供がうるさいからかけ直す」と言い、やっと受話器を下ろした。
その間、どれくらいの時間がたったのかはっきりとは分からない。
きっと5分くらいの時間だったと思うけど、俺にはその時間が永遠にも感じられた。

 電話を切った母さんはひどく不機嫌だった。
「もう! 大事な電話の最中に何なの?」
そう言って睨まれると思ったように言葉が出てこなかった。正直言って、その電話がとても大事なものとは思えなかったんだけど。
「何なの? 早く言いなさい」
俺はしぼり出すような声で恐る恐る母さんに尋ねた。
「お姉ちゃんは?」
「お姉ちゃんは学校でしょう? まだ帰って来ないわよ」
「母さん、今日ずっと家にいた?」
「さっき帰ってきたばかりよ。今日は朝から買い物に行ってたの。どうしてそんな事聞くの?」
"お姉ちゃんが出て行っちゃった"早くそう言わなくちゃ。
なのに、言葉が出てこない。
そう思っているうちに母さんは再び電話の受話器を手に取り、さっきの話の続きを始めてしまった。

 俺は床の上に濡れたまま無造作に置かれた洗濯物に目をやった。
それはきっと母さんが朝洗濯してベランダの物干しに干していった洗濯物だ。
それらは乾く前に雨にあたってしまったようで、湿った状態のまま慌てて取り込んだという感じだった。
俺はその中にお姉ちゃんの洋服を探した。でも、お姉ちゃんのものは何一つなかった。
次に、食器棚の中を覗いた。
お姉ちゃんが使っていた弁当箱のスペースだけがからっぽになっていた。
洗面所へ行ってみる。
お姉ちゃんのピンクの歯ブラシだけが見当たらない。
お姉ちゃんが使っていた洗顔せっけんや髪につけるスプレーもなくなっている。

 俺はもう一度長電話を楽しむ母さんの姿を見つめた。母さんはまだ何も気づいてはいない。
一瞬、母さんと目が合った。
俺は逃げるように自分の部屋へ戻り、机の上にあったお姉ちゃんからの手紙を手に取った。
これを隠さなくちゃ。誰にも見つからない所へ隠さなくちゃ。
両親にお姉ちゃんが出て行った事を知っていたなんて、口がさけても言えない。
ましてやそうなる事が事前に分かっていたなんて事は死んでも言えない。
"どうして早く言わないんだ"と責められる自分の姿を思うととても怖くて膝がガタガタと震えた。
その時の俺は手紙の隠し場所を探すのに必死だった。
まくらの中。シーツの下。カーペットの下。本と本の間。いろいろ考えたけれど、どこも不完全な気がしてまた泣きたくなった。

 もしも手紙を破り捨ててしまえたら、楽になれたのかもしれない。
でも、そんな事はどうしてもできなかった。
大好きだったお姉ちゃんの最後の手紙を破る事も、捨てる事も、俺にとっては罪でしかなかった。
ただ、お姉ちゃんが弟の俺だけに手紙を残してくれた事に関してはたまらなく嬉しかった。

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