3.
それからは夢を見るのが苦痛になった。
でも、夢は時を選ばなかった。
お姉ちゃんが出て行った後もずっとリアルな夢を見続けた。だけど、その内容はここでは話したくない。
俺はお姉ちゃんの夢が見たくてたまらなかった。もう夢でしかお姉ちゃんに会えないと思っていたからだ。
だけど、俺は夢をコントロールする事ができなかった。
あれ以来お姉ちゃんが夢に登場する事は二度となかった。
俺はだんだん無口になり、学校へ行く以外の時間はほとんど自分の部屋へこもるようになった。
とにかく眠るのがつらくて、夢を見るのがつらくて、できる限り眠るのを避けようと夜遅くまで本を読んだり音楽を聞いたりと涙ぐましい努力をした。
やがて俺は意識が朦朧とする感覚を覚えるようになった。
授業中黒板の文字が見えなくなり、友達に話し掛けられても上の空で、目に入ってくる景色が全部歪んで見えるようになった。
学校帰りの見慣れた景色が突然すべて灰色になったのもその頃だ。
自分の部屋にいる時でさえおかしな気分になる事がしょっちゅうあった。
机に向かっていると突然イスが沈み込んだり、風に揺れている白いカーテンがいきなり真っ黒に見えたり。
そのうち勉強も手につかなくなった。
俺は中学へ入学してからの2年間、どうやって生きていたのか全然記憶がない。
夢を見ていた事はちゃんと覚えているけど、その他の事はまるで記憶に残っていない。
俺は生きているけど死んでいた。そうとしか思えない。
両親が俺の異変に気づいたのは中学3年の時だ。
母さんは夏休みになった時「田舎の別荘へ行こう」と俺を誘った。
恐らく父さんがそうするようにとアドバイスしたんだろう。だけど父さんは別荘へは来なかった。
俺はその理由をちゃんと知っていた。そんな事は知りたくもないのに、ちゃんと知っていた。
父さんにはその頃女がいたんだ。あの人は俺と母さんを厄介払いして娘と変わらないくらい若い女と毎日イチャついていたに違いない。
だけどそんな事はもちろん誰にも言えなかった。というよりそんな事はどうでもよかった。
一生眠らずに済む薬があればすぐにでも手を出していたに違いない。
俺は朦朧としたまま別荘へたどり着いた。
そこはバブルの時に父さんが知り合いの不動産屋に乗せられて買った別荘だったけれど、家から車で4時間も離れている事もあって買ってからほとんど使っていないままの状態だった。
でも管理会社がしっかりしていたようで建物はわりと綺麗に保たれていた。
外壁をピンクに塗ったのはお姉ちゃんがそうしたいと言ったからだ。
なのに、そのお姉ちゃんはもういない。
その時、ある事に気がついた。どうやら父さんのアドバイスは正しかったようだ。
俺は周りの景色を見渡した。木の葉の色は緑だった。空の色は青かった。壁の色はピンクだった。
そこへ行くまではすべての景色が灰色に見えたのに……
緑がいっぱいの空気がおいしい場所へ来ただけで、俺の心は少し解き放たれた。
いつもこもっていた自分の部屋は窓を開けるとすぐに隣の家があった。だけど、そこはそうじゃなかった。
窓から見えるのは青い空と遠くの緑だけ。聞こえてくるのはセミの大合唱だけだった。
ここならやっていけるかもしれない。都会の灰色な空しか知らない俺はその時そう思った。
俺はほとんど母さんとは話さず、いつも朝から1人で外へ出かけて行った。
その辺りは夏の観光客がいっぱいいて、川ではラフティング、森を切り開いた大きな公園では乗馬なんかをやっていた。
笑いながら楽しんでいる人たちを見ていると飽きなかった。
俺はその頃ずっと笑った覚えがなかったんだけど、笑っている人を見つめていると自分も笑顔になれるんだって事がよく分かった。
楽しそうな人たちを見ているとなんだか自分も楽しくなってくる。
その時思い出した。
お姉ちゃんがいなくなってから、家の中には笑い声がなくなっていた。
別荘へ行かなくなったのもお姉ちゃんがいなくなったという要因が大きい。
父さんも母さんも傷ついていたのかもしれない。
それまで自分の事で精一杯で両親の事を考える余裕なんかなかったけど、父さんが女を作ったのはあの後だったし、思い起こせば母さんはあれからしばらく夜遅くまで門灯をつけてお姉ちゃんを待っていた。
そこへ行くまではそんな事すら考えないようにしていた。思えばすべてがあの夢から始まったんだ。
公園では「馬に乗るのが怖い」と言って泣いている男の子がいた。
周りの大人たちは「怖くないから」と言ってその男の子を無理やり馬に乗せようとしていた。
そういえばお姉ちゃんにも同じような事があった。
小さい頃家族でどこかの大きなプールへ出かけた時、父さんは嫌がるお姉ちゃんを抱いて無理やりすべり台に乗せた。
あのすべり台は子供の目線からは本当に遥か頭上で、俺は連れられていったのが自分じゃなくてよかったと内心ほっとしていた。
グルグル回るすべり台を滑り下りた後、泣きじゃくるお姉ちゃんに対して父さんがこう言った。
「ほら、やればできるだろ?」
きっと父さんに悪意はなかった。だけどそれ以来お姉ちゃんは高い所が一切ダメになった。
それまで二段ベッドの上で寝ていたのにその日からは「私が下で寝る」と言い出し、一軒家に住むようになった時の部屋割りで「自分の部屋は絶対に1階がいい」と最後まで粘ったのもお姉ちゃんだった。
男の子は大声を上げて泣きながら馬を下りた。
きっとあの子はもう二度と馬になんか乗らないだろうと思った。
俺が5歳のあの日から二度とハンバーグを食べなくなったように。
夏休みに入って8日目。その日はその夏1番の暑さだった。
俺は涼しさを求めて森の中を散歩していた。どこからか水の流れる音がする。きっと近くに川があるんだ。
俺は自分の居場所がほしかった。青い空の下にどうしても自分の居場所がほしかったんだ。
その辺りは別荘地で、夏の観光客がいっぱいいた。
だけど俺は大勢の人たちと騒ぐのがあまり得意じゃなかったし、そこへは遊びというよりも考える時間がほしくて来ているという意識があったから乗馬をやろうなんて気にもなれなかった。
だからといって空気がおいしい土地で建物の中に閉じこもっているのも芸がないし、どこか自分1人になれる場所を見つけて今後の事を考えたかったんだ。
そう。その時俺は中学3年だった。一応は受験生だ。
両親は「どこでもいいから高校へ行け」と言っていたけど、長期にわたる不眠のせいで成績はガタ落ち。
そのままじゃ最低ランクの学校への合格さえ危ぶまれるような状態だった。
これから夢とどう付き合うか。その答えを見つけない限り生きていく事さえ難しい。俺はその時そんなふうに思っていた。
森の中をしばらく歩くとようやく小川を見つけた。
その時は感動した。川の水が透きとおっていてすごく綺麗だったからだ。
水の中に手を入れると冷たくて気持ちがよかった。
思い切りよく草の上に寝転がる。とても涼しい。
木の枝の隙間から時々太陽が顔を出す。草のクッションはなんだか懐かしい匂いがした。
小さい頃には俺の住んでる家の近所にもまだ公園や空地がいっぱいあって、そこでよく友達とプロレスごっこをして遊んだものだ。
肌に触れる草の感触だけはあの頃と変わらない。
そう思った瞬間、睡魔が襲ってきた。
俺はその時だけは睡魔に逆らわず、自然に身をまかせた。
今なら眠ってもつらい夢は見ない。そんな気がしたからだ。
なんとなく人の気配を感じて目が覚めた時、俺は眠っていた事をすっかり忘れてしまっていた。
目の前に1人の女がいたからだ。
これは現実で、夢ではない。それははっきりと分かった。
俺は真っ黒に日焼けした彼女を見つめた。日焼けした顔に白い歯が光って見えた。
「いつから寝てたの?」
そう言われた時、やっと眠っていた事を思い出した。
俺がどんなに驚いたか彼女は知る由もない。
俺はついさっきまで彼女の夢を見ていた。たった1人草の上に座って小川を見つめている彼女の夢だ。
だから目が覚めて彼女がいた時、眠っていた事を忘れてしまっていたんだ。
「ここ、私の場所なの。人が来るなんて思わなかった」
彼女はなんとなくお姉ちゃんに似ていた。
ショートカットで目が大きくて痩せている。お姉ちゃんもそんなふうだった。
「別荘に来てる人? 何番地?」
「235番地」
彼女は白い歯を見せて笑った。
「ああ、ピンクの壁の……」
「よく知ってるな」
「そりゃね。私は地元の人間だから」
「ここに住んでるの?」
「うん。生まれた時からずっとね」
なるほど、という気がした。彼女は都会の女とは違ってた。
それまで俺は、女というものは日焼けを気にして顔や手にクリームを塗ったくり、暑いのに長袖を着て歩いたり、帽子をかぶって歩いたりするものなんだと思っていた。
でも、彼女はそういう女とは全然違ってた。
真っ黒な肌。泥だらけのスニーカー。ヨレヨレのTシャツと短パン。
「ずっと髪短くしてるの?」
「だって暑いし、手入れが簡単だから」
彼女はそう言って笑った。
俺は彼女に興味を持った。
俺のそれまでの歴史の中で、会った事のない人間が夢に出てくる事は稀だったからだ。
母さんとハンバーグを食べる男は母さんとの関わりで夢に登場し、父さんとイチャつく女は父さんとの関わりで夢に登場した。
彼女が単独で夢に現れたという事は俺との関わりで登場したとしか思えなかった。
俺はこの先この女とどんなふうに関わっていくんだろう。
俺はその興味が先に立って今までの面倒な事なんかもうどこかへ吹っ飛んでしまっていた。