夢の続き
 4.

 あんなふうに自分の方から積極的に話をしたのは久しぶりだった。
とにかく彼女の事が知りたくてたまらなかったんだ。
「名前は?」
「亜矢」
「いくつ?」
「15。中学3年」
「へぇ。俺と同じだ」
「本当?」
「どこに住んでるの? 山の上の方?」
「わりとね」
「いつもここで何してるの?」
彼女はちょっと困惑したようだった。突然の質問攻めだから、それは最もだった。
「ねぇ、聞いてばっかりなんてずるい。そっちも答えてよ」
「いいよ。なんでも聞いて」
「名前は?」
「あきら」
「……」
「他には?」
「ううん。年は同じで、ピンクの別荘にいるんだよね。それだけ分かれば十分」
ちょっとがっかりだった。彼女の方はさほど俺に興味を持っていないようだった。

 彼女は大きな目で俺の姿をまじまじと見つめた。
その時俺はろくな物を着ていなかった。いい加減ボロボロになったジーパンに白いTシャツという、まるで近所のコンビニへ出かけるような格好だ。
こんな事ならもう少しマシな物を着てくるべきだった。そう思った時、彼女がポツンとこう言った。
「あきらくんは都会の人だね」
都会の人。
俺が彼女に持った印象と彼女が俺に持った印象は同じだった。
自分とは違う人。結局、そういう事だ。

 彼女は泥だらけのスニーカーを草の上に投げ出し、小川に入って膝まで水につかった。
「気持ちいい。あきらくんもどう?」
誘われる前からそのつもりだった。ジーパンのすそを3回くらいまくって水につかってみる。
本当にすごく気持ちがいい。

 俺は笑いが止まらなかった。あんなに笑ったのは久しぶりだった。
俺たちはしばらく子供のように水をかけ合い、泳いでいる魚を手づかみしようと悪戦苦闘し、野生のキツネを見つけては大はしゃぎし、それから彼女の持参してきた弁当を一緒に食べた。
それは別にごく普通のおにぎりとおかずだったけど、自然の中で食べるといつもの何倍もおいしく感じた。
足元の草は俺たちがかけ合いをした水を浴びてキラキラと輝いていた。
流れる川の水は太陽に反射して光っていた。
あの時はすべてが輝いて見えた。きっと俺自身も輝いていた。

 メシを食べ終わると彼女が俺に「ちょっとついて来て」と言った。
数分歩くとそこには小さな木の小屋があった。彼女は短パンのポケットから鍵を取り出し、小屋の扉を開けた。
中はたたみ3畳くらいの物置小屋のようで、バケツや釣竿、毛布、スキー板、タオル。そんな物が無造作に入れられていた。
「ここ、何なの?」
「私の家、スキー場の管理をしてるの。冬になると時々スキーへ行ったまま帰って来ない人がいてね、林間コースを迷ってこの辺りまで滑り下りて来る事があるから、先回りしてここで人が来るのを待ってるの」
とても信じられなかった。
スキー場があるのは知っていたけれど、それはそこよりずっと遥か上の山の方だ。
「そんな人は滅多にいないけどね」
彼女は俺の気持ちを読んだようにそう言った。
「どっちがたくさん釣れるか競争しない? 勝った方がお魚を独り占めだよ」
俺は釣りなんかほとんどやった事がなかった。だけど、彼女に言われるままに釣竿を受け取り、それから2人で釣りをした。

 綺麗な小川にはたくさん魚がいて、次から次へと釣れた。
あんなに大漁の釣りは生まれて初めてだった。
彼女は都会からやって来た俺を楽しませようとそんな提案をしたのかもしれない。
別荘地に住んでいる人だ。きっと観光客を楽しませるサービス精神が身についているんだろう。
俺は初対面の人は苦手な方だけど、彼女とはわりとすんなり打ち解けられたような気がする。
彼女はものすごい美人というわけではなかった。
ただ俺の周りにはいないタイプの女で、なんというか、新鮮だった。
でも彼女の方はその時俺をどう思っていたんだろう。
夏の間だけ遊びに来た行きずりの都会っ子。きっとそんな程度だったと思う。

 彼女は日焼けした細い腕で釣竿を操りながら希望を持った声でこう言った。
「私、早く高校に行きたい」
「どうして?」
「小さい時から田舎暮らしで小学校の時から同級生は皆一緒だった。でも、高校へ行けばいろんな人に会えるでしょう?」
「そんなものかな」
「そうだよ。都会の人には分からないと思うけど」
都会の人。そんなふうに言われるのはとても淋しかった。
俺はその時、彼女にはこのままでいてもらいたいと強く思っていた。
都会の普通の女になってしまったらつまらない。そう思った。
だけどそれは俺のエゴだ。自分でもよく分かっていた。

 魚がいったいどれだけ釣れたのか分からない。俺と彼女と、どっちが多く釣ったのかも分からない。 ただ一つだけ分かっていた事は、彼女は最初から手柄を俺に全部渡そうと決めていたって事だ。
「はい、これ。今日の夕食」
彼女はどっちが勝ったとか負けたとかそんな事には一切触れず、ビニール袋に入れた魚を全部俺に渡した。
魚は苦手だ。でも、そんな事はもちろん言えなかった。

 それより俺はどうしても彼女と次の約束を取り付けたかった。
「なぁ、またここへ来る?」
彼女は俺の言葉に少し驚いたようだった。
「私は来れるけど、あきらくんはきっと1人じゃ来れないよ」
「どうして?」
「森に慣れた人じゃないと、迷っちゃうよ」
「じゃあ、俺が迷わないように君がここへ連れて来てよ」
「……」
「どこかで待ち合わせしてさ」
多分その時彼女は一瞬断わろうとした。だけど結果的には「いいよ」と言ってくれた。

 俺の15の夏は彼女と共にあった。
俺たちは毎日松の木の下で待ち合わせをし、秘密の場所でいろんな事を話した。
その時彼女が話してくれた事は全部覚えている。
仲のいい友達との長電話の事。
彼女が飼っている犬の事。
年の離れた生意気な妹の事。
そして、両親が妹ばかりをかわいがる事。

 あの夏の出来事を思い出す時、いつも素晴らしい景色と彼女がセットになってまるで1枚の絵のような映像が頭に浮かぶ。
小川の透きとおった水の色。気持ちよさそうに泳ぐ魚たち。緑がいっぱいの森の中。
木の葉のささやくような音。小鳥の鳴き声。水の流れるさらさらという音。それに負けないくらい大きなセミの声。
そして、その景色の中にすっかり溶け込んでいる彼女の姿。

 彼女と過ごした日々はほんの2週間くらいのものだった。
でも俺は彼女と会ってからというもの、今までの苦しみなんかウソのように忘れてしまっていた。
朝が待ち遠しくて早く眠りにつくなんて、もうずっとなかった事だった。
俺はいつも彼女の夢を見た。でももう彼女は1人じゃない。彼女の側にはいつだって俺がいた。
その事が嬉しくて毎日夢を見るのが楽しかった。
夢を見るのが楽しい。そんなふうに思わせてくれた人は彼女が初めてだった。

 でも、いい事は長くは続かない。楽しい時間はすぐに過ぎる。
そしてあっという間に別れの時がやってきた。

 あれは夏休みが終わる4日前の事だった。
俺は草の上に寝転がり、少し手前に背中を向けて座っている彼女に声をかけた。
「亜矢ちゃんは携帯電話とか持ってないの?」
「持ってない」
彼女は振り向かずにそう答えた。右手で雑草を力一杯引きちぎっていたのは何かの気持ちの表れだったんだろうか。
俺は2日後には帰らなければならない。だけど、その事をなかなか言い出せずにいた。
彼女だって本当は分かっていたはずだ。もうすぐ新学期が始まるのは彼女も同じだったから。

 風が吹いて木の葉が揺れた。
空はどんより曇っている。夜には雨が降るだろう。なんだかセミもおとなしい。
俺は彼女が泣く事を知っていた。
だけど、なんと言って泣くのかまでは分からなかった。
女が泣くのをただ待っているなんて、あまり気分のいいものではない。
でも、夢はいつも現実になる。俺は夢から逃れられない。

 「あきらくん、いつ帰るの?」
話を切り出したのは彼女の方だった。
「あさって」
「そうか。あさって帰っちゃうんだ」
沈黙が流れた。
聞こえてくるのは風の音と小川のせせらぎだけだった。

 しばらくするとその音に彼女の泣き声が加わった。
そうなる事は分かっていた。でも、なんて声をかけたらいいのか分からない。
昔からそうだった。お姉ちゃんが泣いている時、いつも声をかけられなかった。
「平気。もう慣れてるから。昔からこうだった。楽しいのは夏の間だけ。あきらくんだって私の事なんかすぐに忘れちゃうよ」
彼女は慣れてるから平気だと言った。ずっと別荘地に住んでいる彼女にとって、さよならは慣れなければいけない事だったんだ。
俺は最初に彼女に会った日の事を思い出していた。
俺がなんとか必死に次の約束を取り付けようとした時、彼女はあまり気乗りしない様子だった。
きっと、こうなる事が分かっていたからだ。彼女は今まで何度も同じような思いをしてきたんだ。
「亜矢ちゃん、俺の携帯の番号をおしえるよ。電話してくれるだろ?」
返事はなかった。

 彼女とそのまま終わりにしたくはなかった。
こんな子にはもう巡り会えない。そう思っていたからだ。
俺は彼女のどこが気に入ったんだろう。ちょっとよく分からない。
初めて会うタイプだからという事以外ははっきりと答えられない。
でも、絶対にこの子じゃないとダメだと思った。絶対にだ。
なのに、その思いがうまく伝えられなくてもどかしかった。
"俺は今までの人たちとは違うよ" そう言おうとしたけれど、あまりに陳腐で言うのをやめた。

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