夢の続き
 5.

 彼女はちゃんと電話をくれた。しかも俺が帰った翌日にだ。
それは「携帯電話を買った」という内容の電話だった。
飛び上がりたいほど嬉しかった。
新学期を目前に控えてユウウツになっていた心は一気にばら色になった。
それからは毎日彼女とメールのやり取りをした。やがてそれが俺たちの日課になっていった。
メールの内容は、プライベートなものだからちょっと話せない。

 気持ちはとても安定していた。もう眠るのも怖くなんかなかった。
夢の中ではいつも彼女に会う事ができたし、彼女はいつも笑顔でいてくれたから。
本当はその年の冬休みにスキーをするという口実で彼女に会いに行こうと思っていたんだけど、なんといっても俺は受験生だった。しかも、かなり出来の悪い受験生だ。
そんなふうだから「冬休みは勉強に精を出せ」と両親に言われてしまい、結局冬休みの間彼女に会う事はできなかった。
でも、高校へ進学すれば自由になれる。次の夏休みは1人で別荘へ行ったっていい。
そんなふうに希望を持って、ひたすら勉強した。
彼女が俺を変えてくれたんだ。苦しみから解放してくれたんだ。
あの夏彼女に会わなければ俺は今頃どうなっていたか分からない。
でも、誰でもよかった訳じゃない。彼女でなければダメだった。他のどの女でもダメだった。

 ただ、現実問題として長期間の不眠による学力低下はかなり深刻だった。
俺はそれを取り戻すためにものすごい努力をしなければならなかった。
1人で机に向かっているとすぐにくじけそうになってしまう。
そんな時は気分転換に自分の部屋を掃除する事に決めていた。それは、彼女がそうしているとメールで教えてくれたからだ。

 俺は別に掃除が好きだって訳じゃない。どちらかといえば嫌いな方だけど、現実の時間の中で彼女とつながっていたいという気持ちがとても強かったんだ。
確かに、夢の中で彼女に会えるのは嬉しかった。
でも目が覚めた時に、彼女の存在は自分が作り上げた架空の人物で、彼女と過ごした日々はすべて夢だったんじゃないかという錯覚に陥る事がしょっちゅうあった。
俺にとって夢と現実は同じ事だったから、夢が現実になるように現実も時には夢に早変わりしてしまうんじゃないかという不安をいつも抱えていた。
離れていたから尚更だ。

 机の引き出しをひっくり返して片付ける時、そこら中に散らばっているゲームソフトをケースの中へしまいこむ時、読んでそのままになっていた本の角を揃えて本棚へ並べる時、古くなった雑誌をヒモで縛ってゴミに出す時。
そんな作業をする時はいつもこれが現実なんだって事を確認する事ができた。
彼女はちゃんと実在していて、きっと今俺と同じように部屋を掃除している。そう思う事でなんとか自分を保っていられたんだ。
その頃一見安定しているように見えた俺の精神状態はすでにギリギリのところまで来ていたのかもしれない。

 まぁ、結果的には俺も彼女もなんとか無事高校へ進学した。
その後も彼女とは変わらずメールのやり取りをしていた。
あの頃は同じ学校の女と付き合ってる友達が羨ましかったな。
俺たちは離れていてもうずっと会えずにいたから……

 でも、いい事は長くは続かない。
それはいつだってそうだった。

 彼女との関係に変化が生じたのは高校へ入学して2ヶ月が過ぎた頃だった。
彼女からのメールが極端に減ってしまったんだ。メールの内容もどうでもいいようなものばかりになってしまった。
ほんの少し前まで彼女は俺に悩みを相談してくれたり、1日の出来事を報告してくれたりしていた。
だけどその頃には"おはよう"とか"おやすみ"とか、その程度の事しか言わなくなってしまった。

 その訳は、夢が教えてくれた。
夢の中の彼女はヒマさえあれば携帯を使って誰かとメールのやり取りをしていた。
だけど、俺のところへメールは来ない。
そのうち夢には彼女と見知らぬ男が一緒に登場するようになった。
どうやら男は彼女のクラスメイトらしい。
彼女が面食いだという事はその時初めて知った。
そうさ。その男は悔しいけどものすごく端正な顔立ちをしていたんだ。

 毎日が地獄だった。俺には彼女とその男が何をしているのかが全部分かってしまうんだから。
彼女は学校が終わると何人かの友達と一緒にバーガーショップへ寄る。
その中にあの端正な顔立ちの男が必ずいた。
男は時々彼女の隣に座って何かを話し掛ける。すると彼女は笑顔でそれに応える。
俺が会えなくて淋しいと思っている時でも彼女はいつも笑ってた。
なんだか、俺たちはもう終わりなのかな、という気がした。
だって、考えてみればそうじゃないか。
俺は彼女にとって1年前、たった2週間一緒に過ごしたというだけの相手にすぎない。
でもあの男とは毎日学校で会っているんだ。とても勝ち目がない。
ただ2人は付き合っているという所まではいってなかったと思う。
でも彼女はいつもその男を見ていた。それだけははっきりと分かった。

 俺はまた夢を見るのが苦痛になった。
彼女はいつも夢にあの男とセットで現れる。
彼女はどんどん綺麗になっていった。それはあの男のせいなんだ。そうとしか考えられない。
もう彼女の事は忘れてしまおう、やがて俺はそう決めた。
だけど、夢をコントロールする事はできない。
その後もずっと彼女の夢を見続けた。とてもリアルな夢だ。

 男は悪びれる様子もなく簡単に彼女に触れる。
お揃いの制服が妙に鼻につく。
2人は相当仲がいい。
男は彼女の腕時計をはずし、自分の左腕にはめてみる。
彼女はその様子を笑顔で見つめている。
2人は学校帰りらしく、しばらく話をしながら並んで歩き、そのうちバス亭に着いてしまった。
だけど、彼女も男もなかなかバスには乗らない。ずっと待合室で話し込んでいる。
同じようにバスを待っている学生たちは次々とやって来るバスに乗り込んでいくというのに、彼女たちはずっと長い間話し込んでいる。
俺はいい加減2人を見ているのがつらくなり、待合室に備え付けられているテレビをずっと見ていた。
情報番組が終わり、再放送のドラマが終わり、6時のニュースが始まってもまだ2人は動こうとしない。

 つらくて悲しくてどうしようもなかった。
神様はどうしてこんな力を俺に与えたんだろう。
これさえなければいつだって余計な事は知らずに済んだ。
大好物だったハンバーグだって食べられなくなる事もなかった。
お姉ちゃんが出て行く事だって、知りたくはなかった。
この夢は一生続くのか?俺に一生こんな思いをして生きていけというのか?

 もう人を好きになるのはよそう。
人は必ず裏切るものだ。母さんは父さんを裏切り、父さんも母さんを裏切った。
お姉ちゃんが何も言わずに出て行った事だって、俺に対する立派な裏切りだ。
また人を好きになって、その人が自分を裏切る姿を夢に見る。そしてそれは必ず現実と結びつく。
そんなの耐えられない。
だったら、人を好きになんかならない事だ。

 俺は彼女への思いを断ち切るために携帯の番号を変え、メールアドレスも変えた。
でもそんな事はなんの解決にもなりはしない。

 ところがその後、転機が訪れた。
あれは高校最初の夏休みに入る前日の事だった。
その晩、俺は大変な夢を見てしまう。
その夢はバーガーショップやバス待合室が舞台ではなかった。

 蒸し暑い夏の夜だった。
夢の中にはいつものように彼女がいた。俺は彼女のすぐ目の前にいたけど、彼女には俺が見えていない。
彼女は珍しく1人だった。1人でテレビを見ていたんだ。
Tシャツにミニスカートというラフな格好でくつろいでいる。
でも、そこは彼女の部屋ではない。初めて夢に見る場所だった。

 とても殺風景な部屋だ。テレビの前には白いクッションが2つあるだけ。彼女はその1つに腰をおろしている。
普通の家にあるような食卓テーブルもイスもない。
キッチンに目をやるとそこには最低限の物しか置かれていなかった。包丁、まな板、鍋が2つ。
テレビのある部屋とつながったもう1つの部屋はベッドルームのようだった。2つ並んだベッドは綺麗にメイキングされていた。

 彼女はあの男と一緒じゃないんだろうか。そう思った時、噂の男が現れた。
突然キッチンの横のドアが開き、あの男がやってきて笑顔で彼女に何かを言った。
彼女は座ったままで笑顔を返す。
男はキッチンの奥の冷蔵庫から青いカップのアイスクリームを取り出してスプーンと一緒に彼女に手渡した。彼女はそれを受け取り、アイスクリームを頬張った。
俺はずっと彼女を見つめていた。男も彼女を見つめていた。
その間、どのくらい時間がたったか分からない。
やがて彼女はアイスクリームを食べ終わり、青いカップをゴミ箱の中へ投げ込むとすぐに立ち上がって帰るそぶりを見せた。

 それから後の事は、できれば思い出したくない。
男は強引に彼女の腕をつかんで、帰るなという態度を取った。
それでも彼女は首を振った。すると男がいきなり彼女の頬を平手打ちしたんだ。
2人はもみ合いになった。
だけど、男と女の力の差は歴然としていた。
彼女は足元にあったクッションを男に投げつけながら助けを呼ぼうと何かを叫んでいる。
男は少し焦った様子で彼女を羽交い締めにし、右手で口をふさいだ。
小柄な彼女は全く身動きができない。必死にもがいているけど、やはり男の力にはかなわない。

 俺は何もできずにそこにいた。
今すぐにでも彼女を助けたいのに一歩も動く事ができない。
声を出す事もできやしない。

 彼女はフローリングの床に倒され、頭を打って苦痛な表情を見せた。
だけどまだ諦めてはいない。
今度はその辺にあったテレビのリモコンや灰皿をわしづかみし、それで男を力一杯殴りつけた。
一瞬男がひるんだ。
彼女は再び立ち上がり、キッチンへ逃げ込むと包丁を両手でしっかりと持ち、男をじっと見つめた。

 赤い血の水たまりがフローリングの床にどんどん広がっていく。
俺が最後に見たものは血を流して床に倒れている男と、血まみれになった包丁を手にしたままガタガタと震えている彼女の姿だった。

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