6.
目が覚めた時は汗だくだった。
窓の外はうっすらと明るくなりかけている。動悸が激しい。喉がカラカラだ。
俺は息が整うのを待ってキッチンへ行き、冷蔵庫に冷やしてあった麦茶をガブ飲みした。
ようやく安心する。ここは俺の家だ。あれは夢だったんだ。
時計を見るとまだ朝の4時だった。
俺は体の力が抜けてその場に座り込んだ。
今の夢はなんだ。あれはいったいなんだったんだ。
急に体が冷えてゾッとした。でもそれは冷たい麦茶のせいなんかじゃない。
部屋中の景色が歪む。時計の針が何重にも重なって見える。
俺は這うようにしてなんとか自分の部屋へ戻り、再びベッドに横になった。
まくらカバーが汗で湿っている。
天井の木目がグルグル回っている。気持ちが悪い。
目を閉じてみても気分が悪い事に変わりはなかった。
その時何かを感じ、飛び起きて自分の両足の裏を触ってみた。
よかった。血が付いていると思ったのは気のせいだ。
だけどこうしてはいられない。
俺は冷静になって考えた。今までの経験でいくと俺の夢はだいたい1週間以内に現実になる。
ハンバーグの夢は即現実になった。彼女に初めて会った時もそうだった。
どうしよう……
もしかしたらさっきの夢は今日すぐにでも現実になるかもしれないんだ。
俺は必死に忌まわしい夢の中の映像を思い出そうとした。
確かベッドの横には窓があったはずだ。窓の外は、暗かった。あれは夜に違いない。
その日は一学期の終業式が行われる日だった。翌日からは夏休みだ。
終業式は午前中で終わる。
その足ですぐに彼女の元へ向かえばきっと間に合う。
俺は急いで荷造りを始めた。
必要な物は途中で買っていけばいい。とにかく早く行かなくちゃ。でないと彼女が大変な事になってしまう。
お姉ちゃんの時のような後悔は二度としたくない。
俺はその時、すでに暗記しているお姉ちゃんの手紙に書かれていたある言葉を思い出していた。
"女の子には優しくしなくちゃダメだよ"
「大丈夫? 少し休もうか?」
その時、ずっと黙って聞いていた先生が初めて口を挟んだ。
掌が汗でベタついていた。
胸が苦しい。白い壁が眩しくてクラクラする。
「少し休もう。無理しなくていいんだよ。深呼吸して」
大きく息を吸って目を閉じるとあの日の事が蘇えってきた。たった1人で考え、行動を起こしたあの日の事が。
俺は終業式が終わると速攻で駅へ向かい、列車に飛び乗った。
列車の単調な揺れが眠気を誘う。それでもずっと眠るのを我慢した。
途中、列車の中から母さんに電話をかけた。
「家には帰らず真っ直ぐに別荘へ行く」そう言った時母さんは俺に散々文句を言った。
でも、すべて計算づくだった。
特急列車に乗ってしまえばいくら母さんだって途中下車してまで帰って来いとは言うまい。
「1人で大丈夫なの? あんたったら急に何をしでかすんだか……」
「ちょっと1人で考えたいんだ。また電話する」
その後はずっと外の景色を眺めてた。
郊外へ行くにつれてどんどん緑が多くなる。どんどん彼女に近づいていく。
列車が最初の駅に止まった。
ドアが開くとセミの声が聞こえてくる。ああ、去年と同じだ。去年の夏も毎日こうしてセミの声を聞いていた。
俺はギリギリまで彼女に電話するのを我慢した。
すぐに電話して"今日は都合が悪い"と言われるのが怖かったからだ。
別荘に着いて俺がすぐ近くにいると分かれば彼女はきっと"会わない"とは言えないはずだ。
俺は彼女の優しさに賭けていた。
そして頭の中でこれからの計画をたてた。
でもその前に、彼女にはなんと言えば分かってもらえるだろう。
俺は未練たらしくまだそんな事を考えていた。家を出る時はもう彼女に嫌われる事を覚悟していたのに。
そうだ。分かってもらおうなんて無理だ。とにかくどんな事をしてもいいから彼女を守らなきゃ。
彼女の心はどうせもう別な男に傾いているんだ。嫌われようが、恨まれようが、そんな事はどうだっていい。
ただ俺は、お姉ちゃんの時のような後悔をしたくないだけだった。ただそれだけだった。
あの時は本当に死ぬほど後悔した。
お姉ちゃんが出て行ったのは俺のせいだ。もう同じ後悔はしたくない。
買い物を済ませ、両手に大荷物を抱えて別荘へたどり着いた時はしばらく立ち上がる事ができなかった。
寝不足な上にずっと気持ちが張り詰めていたし、荷物は重いし、暑かった。
ダメだ。これからが大変なんだからここでへばっている訳にはいかない。
3時半か。
荷物を整理したら彼女に電話しなくちゃ。
俺は気合を入れて立ち上がり、かばんの中の荷物を出して整理し始めた。
とその時、携帯が鳴った。父さんからだった。
「もしもし」
「あきらか?お前、別荘へ行ってるんだって?」
「うん」
「母さんがカンカンに怒ってたぞ。どうして昨日のうちから言っておかなかったんだ?」
「急に行きたくなったから」
「父さんと母さん、これからそっちへ向かうからな」
頭の中が真っ白になった。俺の計画はその時音をたてて崩れていった。
「母さんがお前1人じゃ心配だって言うから会社に頼んで夏休みを早く取ったんだ。仕事が終わった後出発するから遅くなると思うけど」
「そう……」
予定に変更は付き物だ。落ち込んでなんかいられない。頭を切り替えないと……
俺はその後すぐ彼女に電話した。
彼女とはちょうど1年前にいつも待ち合わせをした松の木の下で会った。
1年ぶりに会う本物の彼女は綺麗になっていてびっくりした。
肌の色は真っ白で、サラサラなロングヘアーで、しかもフリフリのスカートなんかをはいている。
ちょっと淋しい。
焼けた肌の、ショートカットの彼女の方がずっといい。
その時の彼女は確かに綺麗だったけど、俺にとっては1年前の彼女の方がずっと魅力的だった。
「あきらくん! 久しぶり!」
意外にも彼女は俺をすごく歓迎してくれた。もう俺の事なんか忘れているかと思っていたのに。
「来るならもっと早く言ってくれればよかったじゃない。ねぇ、元気だった?」
彼女の笑顔は1年前とちっとも変わらなかった。俺はその時、一瞬だけ計画を放棄しようかと思った。
「携帯の番号変えちゃったのね。どうして?」
そう言われると何も答えられなかった。
彼女は言い訳するようにこう言った。
「ごめんね。私忙しくてあきらくんにあまりメールできなかった」
忙しくて、か。確かに彼女はあの男とのメールのやり取りで忙しかったんだろう。その言葉にウソはない。
俺は思い切りおいしい空気を吸い込んだ。ここならきっと、なんだってやれる。
「亜矢ちゃん、行こう」
俺は彼女の手を取って2人の秘密の場所をめざした。