夢の続き
 7.

 そこは俺にとって神聖な場所だった。
森を進んで行くと1年前と同じ匂いが漂っていた。
耳に聞こえるのはセミの大合唱。
もう少し行くと小川のせせらぎがそれに加わる。

 小川が見えてきた。すると彼女は大はしゃぎでこう言った。
「ここへ来るの久しぶり」
「この場所、誰かに教えた?」
「ううん。教えるわけないじゃない。2人だけの秘密の場所だよ」
優しい言葉をかけられると決心がにぶる。
でも、これは彼女のためだ。彼女のためなんだ。俺は自分にそう言い聞かせた。
「靴脱いで! 川に入ろうよ」
彼女は待ち切れないといった様子でスニーカーを脱ぎ捨てて走り出し、すぐに小川の水の中へ入っていった。それは1年前にも見た光景だった。

 ギリギリまで迷った。本当にものすごく迷った。
自分のやろうとしている事は本当に正しい事なんだろうか?
頭の中で何回自問自答したか分からない。
俺の行動は多分誰にも理解されない。その後ひどい事になるのは目に見えている。

 彼女が小川の中から俺に向かって叫んだ。
「私今日この後友達と約束があるの。また明日ゆっくり会えるかな?」
「友達って、誰?」
「高校の友達」
それを聞いてからはもう迷わなかった。
今日は絶対に彼女を行かせるわけにはいかない。

 俺は荷物をたっぷり詰め込んだリュックを投げ出し、草の上に寝転がった。
木の葉のささやくような音がする。時々小鳥の鳴く声もする。
ここは1年前と何も変わりがない。その事が俺に勇気をくれた。
俺の心も1年前とちっとも変わっていなかったんだ。
森の緑や小川や小鳥たちは俺の味方だ。俺の仲間だ。
「何考えてるの? あきらくん」
彼女は濡れた足をハンカチで拭きながら草の上に腰掛けた。
その時はもう覚悟を決めていた。
「亜矢ちゃん、会いたかったよ」
ハンカチを持つ彼女の手が止まった。だけど彼女は何も言わなかった。
でも、それでいい。ウソをつけない彼女が好きだから。

 それからすぐに彼女は「もう帰らなきゃ」と言い出した。
俺は頭の中で考えていたセリフを口にした。
「俺は夕食の魚を釣って帰るよ。釣竿のある小屋はどこだっけ?」
「ああ、あっちだよ。来て」
俺は少し遅れて彼女の後を歩いた。もう後戻りはできない。

 彼女は鍵を使って小屋の扉を開け、中から釣竿とバケツを取り出した。
「お魚いっぱい釣れるといいね」
「うん……」
「それじゃ私、もう行かなきゃ。釣竿とバケツは使い終わったらこの辺に置いといて。明日来た時にまた……」
「亜矢ちゃん、渡したい物があるんだ。目を閉じて」
俺は彼女の言葉を遮った。辺りにはセミの声がうるさいくらいに響いていた。
「渡したい物って何?」
「お土産だよ」
「本当? 何?」
「さぁ、なんだろう。亜矢ちゃん、目を閉じて」
彼女は小屋の鍵をスカートのポケットに入れ、黙って目を閉じた。
「両手を前に出して」
きっと彼女はその時まで俺の言葉を信じていた。
彼女の手はお土産が受け取れるように掌を上にして差し出されていた。
「いいって言うまで目を閉じてて」
「うん。分かった」
手が震えた。いつもは心地よいセミの声が急にうざったく感じた。
俺はリュックの中からロープを取り出し、急いで彼女の両手首にグルグルと巻き付けていった。
彼女は驚いて目を開けた。
「何するの!?」
「ごめん、亜矢ちゃん」
「嫌!!」
彼女はそこから走り出そうとした。だけど俺がしっかりとロープをつかんでいたから一歩も動く事ができなかった。
「やめて! あきらくん、どうしちゃったの?」
「君のためなんだ。少しの間我慢して」
俺は彼女の顔を見ないようにした。彼女の涙の粒が俺の手にポタリと落ちる。
だけど、もう止められない。

 俺は彼女のポケットから小屋の鍵を取り出して自分のジーパンのポケットに入れた。
それからロープを引っ張って泣きじゃくる彼女を小屋の中へ入れて座らせ、膝に毛布をかけてやった。
「亜矢ちゃん、ごめん。しばらく我慢して。君を守りたいんだ」
彼女はあまりにショックで抵抗する元気も失っているようだった。
俺はリュックを置いて中に入っている物をすべて取り出した。
食料、水、懐中電灯、バスタオル、文庫本。
「小屋の中は暗いから懐中電灯を置いていくよ。退屈だろうから本を読んで。食料は十分あるし、問題はないはずだ」

 その時、携帯が鳴った。彼女の携帯だ。
俺は彼女のスカートのポケットから携帯を取り出した。
液晶画面には"まさき"という文字が表示されていた。
頭に血が上った。こいつか。こいつが彼女に乱暴しようとした男なのか。
「あいつ、まさきっていうのか?」
それまで泣きじゃくっていた彼女が急に顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめた。
「まさきくんの事、知ってるの?」
「知ってるさ。アイドル歌手みたいな顔した男だろ?」
「お願い。電話に出させて」
「ダメだ!」
「お願い!」
「ダメだって!」
俺は彼女の携帯を外に向かって思い切り投げつけた。するとすぐに呼び出し音は聞こえなくなった。

 彼女はもう泣いてはいなかった。
「あきらくん、まさきくんと知り合いだったの?」
「そうじゃない。でも、亜矢ちゃんと仲がいいのは知ってる」
「まさきくんはただの友達だよ」
「そんな事はどうだっていい。とにかく俺は君を守る!」
「どういう事?」
「まさきってヤツは君に乱暴しようとしてるんだ。だから、あいつの所へは行かせない」
「まさか……」
「君は知らないんだ! あいつは危険な男だぞ」
「ねぇ、あきらくん落ち着いて」
「落ち着いてるさ! 俺は冷静だ」
「あきらくん、おかしいよ。私をどうするつもりなの?」
「心配するな。また様子を見に来る。君はここにいるんだ」
「嫌だよ、怖いもん。だったらあきらくんも一緒にいて」
「最初はそのつもりだった。でも予定が狂っちまって……ごめん。必ずまた来るから」
「嫌! 行かないで」

 俺はバタフライナイフを取り出して彼女を黙らせた。
「ロープを切るけど、逃げないで」
彼女は少し泣きながらうなづいた。
彼女の手に巻き付けたロープを素早く切る。俺は即座に外へ出て小屋に鍵をかけた。
すると中から彼女がドンドンと扉をたたいて叫んだ。
「あきらくん! ここから出して! お願い!」
俺はもう振り返らなかった。
その時はセミの声がありがたかった。
彼女の声はセミの声にかき消されてすぐに聞こえなくなったんだ。

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