夢の続き
 8.

 別荘へ戻っても落ち着かない。自分でやった事なのに、彼女の事が気になって何も手につかなかった。
1年ぶりにやって来た別荘の中を見回してみる。
とても新鮮だった。1年前は1ヶ月近くここにいたのに、ほとんど建物の中にいた記憶はない。
いつも朝早くから彼女と秘密の場所で遊び、ここへ戻ってする事といえば風呂に入ってメシを食って寝るだけだった。

 よく見るとなかなかいい部屋じゃないか。
木造りで暖かい感じだし、一度も使った事のない暖炉はオシャレな雰囲気だ。
そういえば母さんは丸い形の窓が気に入っていた。その時までそんな事はすっかり忘れていた。
全面バリアフリーにしたのは父さんが定年後こっちへ移り住むとかなんとか夢を見ていたからだ。
キッチンの窓からは沈んでいく夕日が見えた。

 午後7時。
俺はいてもたってもいられず、両親を待たずに彼女の元へ向かった。
きっと心細い思いをしているに違いない。
クソ! 父さんのせいで計画が台無しだ。本当ならしばらく彼女とここで一緒に過ごすつもりでいたのに。
いつも俺の事になんか関心がないくせにこんな時に限って父親面しやがって。いい迷惑だ。

 徐々に暗くなる森の中を歩いて行くとだんだん右も左も分からなくなってきた。
まずい。ここで迷ったら彼女は一晩中あの小屋で1人ぼっちになってしまう。
俺は懐中電灯を持っていつも目印にしている木を慎重に探しながらゆっくりと歩いた。
小川に出た時にはほっとした。ここを基点にすれば小屋へはすぐにたどり着ける。

 小屋へ近づくと中は静かだった。彼女は眠っているんだろうか。
「亜矢ちゃん?」
扉をたたくとすぐに返事があった。
「あきらくん? 開けて」
「今開ける。でも逃げないで。約束して」
「分かってる! 早くして。トイレに行きたいの」
「ご、ごめん。すぐ開けるよ」
急いで扉を開けると彼女が立ち上がった。どうやら懐中電灯を使って本を読んでいたようだ。
彼女はさっきよりも随分落ち着いていた。
「外へ出てもいい?」
「うん」
「逃げないから」
「うん、いいよ。出ておいで」
俺が手を差し出すと彼女はその手をしっかりとつかんだ。とても小さな手だった。
「ずっと暗い所にいたからフラフラする」
「ごめんね亜矢ちゃん」
「ちょっと待ってて。トイレ」
彼女は慌てて小屋の裏側へと消えていった。

 だんだん自分のしている事がばかばかしく思えてきた。
俺は確かに夢を見た。
でも、本当にあの夢は現実とつながっているんだろうか。
1番最初のハンバーグの夢だって、あの時母さんが本当に男と2人でハンバーグを食べたという確証は何もないじゃないか。
だんだん自信がなくなってきた。ここまでやっておいてなんて無責任なんだ!

 気づくと彼女が俺のすぐ横にいた。その時俺はスキだらけだった。
とても不思議だ。
彼女はどうして逃げなかったんだろう。俺はそれが不思議でたまらなかった。
暗くなりかけた森を走り出せば地の利がある彼女には断然有利だったはずだ。
もう逃げてくれた方がよっぽど楽になれる。俺はその時そんなふうに思っていた。

 なのに、彼女は俺の横にいた。
怯えた様子もなく、俺のすぐ側にいてくれた。
「よかった。息が詰まりそうだった」
彼女はそう言って新鮮な空気を吸い込んだ。
「ごめん亜矢ちゃん。帰りたいだろ?」
俺はもう弱気になっていた。
俺のした事はまさきってヤツよりよっぽどひどい事だという気がした。
いや、そうじゃない。
まさきってヤツはまだ何もしていない。そうだ、その時まだあいつは何もしていなかったんだ。

 彼女は小川の水で手を洗い、濡れた手を俺の着ているTシャツで綺麗に拭き取った。
「あきらくん、帰らないで。一緒にいて」
そう言われた時は動揺した。
その時俺は彼女が"帰りたい"と言ってくれる事を望んでいたんだ。
「亜矢ちゃん、どうして逃げないの?」
「だって、私は女であきらくんは男だよ。逃げたってすぐに捕まっちゃう」
「俺が怖くないの?」
彼女は白い歯を見せて笑った。
「怖くなんかないよ。来てくれて嬉しかった」
「来てくれて嬉しかった」彼女はそう言った。
「夏休みの間しか一緒にいられないんでしょう?」
彼女がどうしてそんな事を言うのかまるで分からなかった。
俺は彼女を帰すタイミングを失った。

 そのうち辺りは真っ暗になった。森の中には明かりがない。懐中電灯と月明かりと星の光だけが頼りだった。
俺たちは草の上に寝転がって木の枝に見え隠れする今にも降ってきそうな星を見つめた。
まるでプラネタリウムみたいな満天の星空だった。
「すごいな。こんな星を見たのは初めてだ」
「あきらくんは都会っ子だもんね」
「亜矢ちゃんだって都会の高校生になれただろ?」
「バスで2時間もかけて通ってるの。朝がつらくて……」
「好きな人がいるなら学校は楽しいだろ?」
彼女は答えなかった。

 俺はあまりに星が綺麗でもうどうなってもいいって気分になっていた。
彼女が逃げても、それで俺が捕まっても、もうこの星が見れたからいい。
自分のした事に悔いはない。
「ねぇ、寒くなってきた」
「毛布をもう1枚持ってきた。かけるといいよ」
俺が毛布を差し出すと彼女は起き上がり、肩から毛布をかぶった。
俺は寒そうな素足にタオルをかけてやった。
「ありがとう」
彼女は「ありがとう」と言った。自分を監禁している相手に対して「ありがとう」と言ったんだ。
その時彼女は自分が捕われの身だという事を本当に自覚していたんだろうか。
俺はとても帰る気にはなれず、結局彼女と2人で夜を明かした。
夜が更けると昼間の暑さがウソのように外は寒くなり、俺も彼女も小屋の中で毛布にくるまって一晩を過ごした。

 朝になると再び彼女を小屋へ閉じ込め、急いで両親の待つ別荘へと向かった。
朝帰りの言い訳はだいたい考えてあった。両親が信じるかどうかは別として。

 父さんは一晩寝ないで俺を待っていたらしい。
当然の事ながら帰った途端に大目玉を食らってしまった。
「お前、いったいどこ行ってたんだ!」
「ごめん。森の中で迷っちゃって、どっちへ行ったらいいのか分からなくなって……」
すると父さんは急にトーンダウンした。
「え、そうなのか? 夜はどうしてたんだ?」
「バスタオルにくるまって寝た」
俺がわざと震えて見せると父さんは俺の体が冷え切っているのを知り、ミルクを温めて飲ませてくれた。
ちょっと気が引けた。
ふと見ると廊下の床にタオルケットが置かれていた。
父さんは俺を心配して玄関のドアがすぐに見える廊下で仮眠を取っていたようだった。
「ねぇ、母さんは?」
「用事ができて来れなくなった」
「そう……」
やっぱりそうか。
その時母さんにはまた新しい男ができていた。母さんは俺を口実にして父さんを遠くへ追いやり、今頃は新しい男と一緒にいるに違いない。
去年の夏、父さんには若い女がいた。父さんはその女と一緒に夏を過ごし、ここへやって来る事もなかった。
どっちもどっちだ。この人たちは俺がすべて知り尽くしている事を知ったらどう思うだろう。

 なんだか涙が出そうになった。
俺はとんでもない事をやらかしている。俺には父さんや母さんを責める資格なんかない。
なのに、何も知らない父さんはこんなにも優しい。
「あきら、腹減ったろ? うどんを作ってやろうか?」
父さんは普段料理なんかするような人じゃなかった。
どうしてこんな時だけ優しくしてくれるんだろう。
俺は混乱した。本当にこれでよかったんだろうか。もう分からない。
だけど、やってしまった事はしかたがない。もう昨日の俺には戻れないんだ。

 俺は父さんが安心して眠りについたのを確認すると、食料を持って再び彼女の元へ向かった。
何か温かい物を食べさせてあげたかった。
だけど何もなくて、とりあえずホットコーヒーを水筒に入れた。
自分だけうどんを食べるなんて、俺はひどい男だ。
彼女に申し訳なく思いながらパンと缶詰をリュックへ詰め込む。
ごめんね亜矢ちゃん。俺は心の中で何度もそうつぶやいた。

 彼女は朝食を喜んでくれた。
「温かいコーヒー、嬉しい」
「たくさん飲んで」
「ありがとう」
また「ありがとう」だ。ありがとうと言われてつらいと感じるなんて、やっぱり俺は悪人だ。
「歯ブラシとせっけんをもって来たよ。顔を洗いたいだろ?」
そう言って洗面道具を手渡すと彼女はにっこり微笑んだ。
「あきらくんってよく気がつくんだね」
褒められても複雑だった。本当にあの時はおかしなシチュエーションだった。
俺は小川の水で彼女が洗顔する姿をじっと見つめていた。
どうしてだろう。彼女は安心し切っている。俺はつらくてたまらないのに。

 いつもは輝いて見えるはずの木の葉や小川がすべて灰色に見える。
でも、彼女だけは変わらず輝いて見えた。
俺はその時、彼女の背中に天使の羽を見たような気がする。

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